*
「お兄ちゃんっ! 未央さんがっ」
電話に出るなり、しぐれが焦りを隠せない様子で叫んだ。
スマホから漏れる声が祖母にも聞こえたのだろう。編み物の手をとめて、老眼鏡の隙間から上目遣いでこちらを見る。
朝晴は祖母を安心させるようにうなずき、電話に集中する。
「未央さんがどうしたって?」
「倒れちゃったかも」
「かも?」
「どうしよう、お兄ちゃん……」
半泣きで、しぐれはつぶやく。
しぐれの目の前に、未央はいないのだろうか。
「しぐれ、落ち着けよ。未央さんに意識はあるのか?」
状況がわからないもどかしさを感じながら、朝晴は冷静に尋ねるが、しぐれはまだまだ混乱気味に言う。
「わかんない。めまいだって」
「めまいだって、未央さん本人が言ったんだな? いま、どうしてる?」
「ちょっと休むって、2階に上がっていったんだけど、さっき、ドンってすごい音がして、もしかしたらまた倒れちゃったかも……」
「めまいはあるけど、ひとりで歩いて2階へ行ったんだな?」
「う、うん。そう」
しぐれは不安そうに答える。
「様子、見に行けないよな?」
「それが、車椅子がカウンターに引っかかって動けなくなっちゃって……」
「大丈夫なのか?」
カウンターの中は車椅子でも動きやすいように広めにしてもらっているが、慎重に動かないと周りにぶつかる可能性はある。
「いま、動かしてみてるんだけど。あっ、あっ……待って、倒れ……っ」
「しぐれっ?」
ガシャンと何かが倒れる音と同時に電話が切れて、朝晴は弾かれたように立ち上がる。
「しぐれちゃん、何かあったの?」
ただならない様子を感じたのか、祖母も腰を浮かしてそう言う。
「未央さんが倒れたらしいんだけど、わからない。様子見てくるよ」
未央に意識があるのか気になるが、しぐれも心配だ。救急車を呼ぶか。いや、まずは事態を把握してからか……。
切れたスマホをつかんだまま、朝晴はあたりを見回し、右往左往するが、何をしようとしているのか、自分でもわからなくなる。正直、あたまの中が真っ白だ。
「車で行くかい? 鍵ならテーブルの上にあるよ」
テーブルを指差す祖母の姿を見て、車のキーに視線を落とす。
「朝晴くん、落ち着いてな」
朝晴はそのひとことで、ハッとする。ようやく何をするべきか自覚すると、車のキーをつかみ取り、「切り雨に行ってくるっ!」とリビングを飛び出した。
切り雨は自宅から車で数分の距離にあるが、赤信号に引っかかるたびに焦りを覚えながら、車を走らせた。裏口に着くと、急いで車を降り、ドアを叩く。
「しぐれっ」
「空いてるっ」
すぐにしぐれの返事が返ってくる。
よかった。車椅子が倒れたのかと思っていたが、無事のようだ。
ドアを押し開けた朝晴は、目の前にいるしぐれに驚いて、目を丸くした。
「しぐれ、おまえ……」
「お兄ちゃん、はやくっ。私ひとりじゃ、未央さん運べない。ベッドは整えたから、はやくっ」
そう言って手招きするなり、しぐれは階段を駆け上がっていく。その軽快な足運びに、ますます混乱する。
「しぐれっ! 車椅子はっ?」
階段下から、しぐれを見上げて叫ぶ。何度見ても、しぐれがすらりと長いジーンズの足でしっかり立っている。
「ひっくり返ったら、知らないけど歩けるようになってたのっ。もうっ、私のことなんかいいから、はやく、未央さんっ!」
「あ、ああ……」
しぐれを追いかけて階段へ上がろうとしたとき、カウンターの中で倒れる車椅子が見えた。
「本当に本当なんだな」
じわっと安堵が胸に広がるのを感じながらも、階段上でしぐれの腕につかまって上体を起こそうとする未央が見えると、朝晴はすぐさま駆け寄った。
「未央さん、大丈夫ですか? さあ、俺につかまって」
「井沢さん、わざわざ……」
蒼白顔で、こんなときでもあたまを下げようとする未央を、朝晴はもどかしく思いながら抱き上げる。
「しぐれ、店は閉めて、病院に電話して。ついでに、しぐれの足も見てもらえ。あとは、水、水持ってきてくれ」
「わかったっ」
しぐれは真剣な顔でうなずくと、すぐさま階段を駆け降りていく。
朝晴は腕の中でおとなしく抱かれている未央をベッドに寝かせると、ひたいに浮かぶ汗を手のひらでぬぐう。熱はないようだ。
「めまいは、よく?」
「最近、よく眠れてなかったので、それで。お騒がせしてごめんなさい」
「謝らなくていいですから」
疲れがたまっているのだろう。枕にほおをうずめる未央の髪をするりとなでると、彼女は安心したような表情をする。知り合いのいない清倉での体調不良は心細いだろう。その不安がやわらいでいるといい。
「お兄ちゃん、はいっ、お水。お客さん来ちゃったから、行ってくるねっ」
水の入ったグラスを乗せたお盆を朝晴に押し付けて、しぐれはあわただしく、階段を駆け降りていく。
軽快によく動くしぐれを目にするのは何年ぶりだろう。未央を助けなければ、と思う気持ちがしぐれを奮い立たせたに違いない。もう大丈夫だろう。そう思いながら、未央へと視線を移す。
「水、飲めますか?」
グラスを差し出すと、未央は少しだけあたまを起こして唇を湿らす程度に水を含むと、仰向けになって、天井をぼんやりと見つめた。
「眠って大丈夫ですよ。お店はしぐれに任せて、俺もずっとここにいますから」
そう言うと、未央はゆっくりとまばたきをし、こちらへと顔を向ける。
「私、後悔しないと思ってました」
唐突に、未央はそう口にする。何か聞いてほしい話があるのだろう。
「後悔って、何に?」
「ちゃんと気持ちを伝えなかったことをです」
「誰にですか?」
未央はほんの少し沈黙し、ぽつりとつぶやく。
「会いに来たんです、あの人が」
つながりのない言葉の数々は、いまだ、未央の意識があいまいだからだろうか。彼女が何を訴えたいのか、朝晴は慎重に考える。
あの人とは誰だろうか。あえて、彼女は名前を出さなかった気がする。それは、口にするのもためらわれる名前だからだろうか。もしそうだとしたら、思いあたる人物がひとりだけいる。
「文彦さんと関係のあった女性ですか?」
未央は、そうだ、というように悲しげにまばたきをする。
「あんな人だってわかってました。それなのに、文彦さんが亡くなっても、やっぱり何にも変わってない人なんだって目の当たりにして、後悔したのかもしれません」
「お兄ちゃんっ! 未央さんがっ」
電話に出るなり、しぐれが焦りを隠せない様子で叫んだ。
スマホから漏れる声が祖母にも聞こえたのだろう。編み物の手をとめて、老眼鏡の隙間から上目遣いでこちらを見る。
朝晴は祖母を安心させるようにうなずき、電話に集中する。
「未央さんがどうしたって?」
「倒れちゃったかも」
「かも?」
「どうしよう、お兄ちゃん……」
半泣きで、しぐれはつぶやく。
しぐれの目の前に、未央はいないのだろうか。
「しぐれ、落ち着けよ。未央さんに意識はあるのか?」
状況がわからないもどかしさを感じながら、朝晴は冷静に尋ねるが、しぐれはまだまだ混乱気味に言う。
「わかんない。めまいだって」
「めまいだって、未央さん本人が言ったんだな? いま、どうしてる?」
「ちょっと休むって、2階に上がっていったんだけど、さっき、ドンってすごい音がして、もしかしたらまた倒れちゃったかも……」
「めまいはあるけど、ひとりで歩いて2階へ行ったんだな?」
「う、うん。そう」
しぐれは不安そうに答える。
「様子、見に行けないよな?」
「それが、車椅子がカウンターに引っかかって動けなくなっちゃって……」
「大丈夫なのか?」
カウンターの中は車椅子でも動きやすいように広めにしてもらっているが、慎重に動かないと周りにぶつかる可能性はある。
「いま、動かしてみてるんだけど。あっ、あっ……待って、倒れ……っ」
「しぐれっ?」
ガシャンと何かが倒れる音と同時に電話が切れて、朝晴は弾かれたように立ち上がる。
「しぐれちゃん、何かあったの?」
ただならない様子を感じたのか、祖母も腰を浮かしてそう言う。
「未央さんが倒れたらしいんだけど、わからない。様子見てくるよ」
未央に意識があるのか気になるが、しぐれも心配だ。救急車を呼ぶか。いや、まずは事態を把握してからか……。
切れたスマホをつかんだまま、朝晴はあたりを見回し、右往左往するが、何をしようとしているのか、自分でもわからなくなる。正直、あたまの中が真っ白だ。
「車で行くかい? 鍵ならテーブルの上にあるよ」
テーブルを指差す祖母の姿を見て、車のキーに視線を落とす。
「朝晴くん、落ち着いてな」
朝晴はそのひとことで、ハッとする。ようやく何をするべきか自覚すると、車のキーをつかみ取り、「切り雨に行ってくるっ!」とリビングを飛び出した。
切り雨は自宅から車で数分の距離にあるが、赤信号に引っかかるたびに焦りを覚えながら、車を走らせた。裏口に着くと、急いで車を降り、ドアを叩く。
「しぐれっ」
「空いてるっ」
すぐにしぐれの返事が返ってくる。
よかった。車椅子が倒れたのかと思っていたが、無事のようだ。
ドアを押し開けた朝晴は、目の前にいるしぐれに驚いて、目を丸くした。
「しぐれ、おまえ……」
「お兄ちゃん、はやくっ。私ひとりじゃ、未央さん運べない。ベッドは整えたから、はやくっ」
そう言って手招きするなり、しぐれは階段を駆け上がっていく。その軽快な足運びに、ますます混乱する。
「しぐれっ! 車椅子はっ?」
階段下から、しぐれを見上げて叫ぶ。何度見ても、しぐれがすらりと長いジーンズの足でしっかり立っている。
「ひっくり返ったら、知らないけど歩けるようになってたのっ。もうっ、私のことなんかいいから、はやく、未央さんっ!」
「あ、ああ……」
しぐれを追いかけて階段へ上がろうとしたとき、カウンターの中で倒れる車椅子が見えた。
「本当に本当なんだな」
じわっと安堵が胸に広がるのを感じながらも、階段上でしぐれの腕につかまって上体を起こそうとする未央が見えると、朝晴はすぐさま駆け寄った。
「未央さん、大丈夫ですか? さあ、俺につかまって」
「井沢さん、わざわざ……」
蒼白顔で、こんなときでもあたまを下げようとする未央を、朝晴はもどかしく思いながら抱き上げる。
「しぐれ、店は閉めて、病院に電話して。ついでに、しぐれの足も見てもらえ。あとは、水、水持ってきてくれ」
「わかったっ」
しぐれは真剣な顔でうなずくと、すぐさま階段を駆け降りていく。
朝晴は腕の中でおとなしく抱かれている未央をベッドに寝かせると、ひたいに浮かぶ汗を手のひらでぬぐう。熱はないようだ。
「めまいは、よく?」
「最近、よく眠れてなかったので、それで。お騒がせしてごめんなさい」
「謝らなくていいですから」
疲れがたまっているのだろう。枕にほおをうずめる未央の髪をするりとなでると、彼女は安心したような表情をする。知り合いのいない清倉での体調不良は心細いだろう。その不安がやわらいでいるといい。
「お兄ちゃん、はいっ、お水。お客さん来ちゃったから、行ってくるねっ」
水の入ったグラスを乗せたお盆を朝晴に押し付けて、しぐれはあわただしく、階段を駆け降りていく。
軽快によく動くしぐれを目にするのは何年ぶりだろう。未央を助けなければ、と思う気持ちがしぐれを奮い立たせたに違いない。もう大丈夫だろう。そう思いながら、未央へと視線を移す。
「水、飲めますか?」
グラスを差し出すと、未央は少しだけあたまを起こして唇を湿らす程度に水を含むと、仰向けになって、天井をぼんやりと見つめた。
「眠って大丈夫ですよ。お店はしぐれに任せて、俺もずっとここにいますから」
そう言うと、未央はゆっくりとまばたきをし、こちらへと顔を向ける。
「私、後悔しないと思ってました」
唐突に、未央はそう口にする。何か聞いてほしい話があるのだろう。
「後悔って、何に?」
「ちゃんと気持ちを伝えなかったことをです」
「誰にですか?」
未央はほんの少し沈黙し、ぽつりとつぶやく。
「会いに来たんです、あの人が」
つながりのない言葉の数々は、いまだ、未央の意識があいまいだからだろうか。彼女が何を訴えたいのか、朝晴は慎重に考える。
あの人とは誰だろうか。あえて、彼女は名前を出さなかった気がする。それは、口にするのもためらわれる名前だからだろうか。もしそうだとしたら、思いあたる人物がひとりだけいる。
「文彦さんと関係のあった女性ですか?」
未央は、そうだ、というように悲しげにまばたきをする。
「あんな人だってわかってました。それなのに、文彦さんが亡くなっても、やっぱり何にも変わってない人なんだって目の当たりにして、後悔したのかもしれません」