*
翌日は、朝早くに朝晴から電話があった。婚約者だと名乗った公平が気がかりなようだったが、「一方的に話が進んでるみたい」と伝えたら、「今夜にでも会って話せないか」と言われた。
今夜も公平が訪ねてくるとは思えなかったが、切り雨で朝晴と二人きりになるのは気が引けて、未央は「レストランで会うなら」と承諾した。そうすることで、朝晴を意識していることが伝わってしまったかもしれない。彼はほんの少しうれしそうに、「たまには駅前のレストランに行きましょう」と声を弾ませた。
午前中は月曜日にしては忙しく、午後になると波が引いたようにぱったりと客足が途絶えた。いつもはしぐれがにぎやかにしているが、今日はリハビリのために病院へ行くからと休みを取っていて、いつになく店内は静かだった。
未央はカウンターに腰かけると、スケッチブックを取り出す。思いつくデザインを描いていると、視界がわずかに歪むような感覚を覚えた。
めまいだろうか。昨夜はよく眠れなかった。ちょっと疲れているかもしれない。まぶたを閉じていると、遠くの方から名前を呼ばれた気がした。
この声は、文彦さん……?
未央はまぶたの裏の暗闇の中に浮かぶ青年を見つけると、そこへ意識を集中した。あれは、文彦の後ろ姿だ。後ろ姿はどんどんと離れていく。
『待って、文彦さん。行かないで』
呼びかけると、青年はぴたりと足を止めた。
『ごめん、未央』
『何を謝るの?』
未央はそう問いかける。
文彦は謝るために会いにきたのだろうか。後悔するようにうつむき加減になる彼の声が頭の中に響いてくる。
『後悔してるんだ。どうして、未央がいるのにあの人に心が揺らいだんだろう。公平と何かあるんじゃないかって疑って、僕はあなたを傷つけた』
『公平さんとは何もないって言ったのに』
『信じたくなかったんだ。あなたを疑うことで、自分を正当化しようとした』
文彦がふたたび離れていく。闇の奥へ奥へと消えていこうとする。未央はあわてて声をかける。
『あの日、公平さんに電話したのよね。何を伝えようとしてたの?』
『あの日……』
文彦は小さくつぶやいて、手のひらをじっと見つめるしぐさをする。
あの日……、文彦が死んだ日、彼は公平に一本の電話を入れていた。
公平がその電話に気づいたのは、夕方だった。折り返しの連絡を入れると、文彦はすぐに電話に出た。海岸へ向かってると話した文彦の車は、カーブを曲がりきれずに対向車と衝突し、そのまま還らぬ人になった。
スマホに気を取られた事故だろう。葬式で悲しみにくれる未央に、公平がぼう然としながらそう話してくれた。
『公平さんは苦しんでる。自分が電話したせいで、事故に遭ったんじゃないかって』
『僕はただ、あなたと幸せに過ごした日々を取り戻したかっただけなんだ』
ため息とともに文彦の背中が揺らぎ、今にも消えてしまいそうだった。未央はあわてて手を伸ばす。
『待ってっ!』
そう叫んだ瞬間、自分の声に驚いて、ハッとまぶたをあげる。窓から差し込む西日のまぶしさに思わず、両手で顔を覆った。
「夢……?」
文彦が会いに来てくれたのか、それとも、文彦に会いたい願望が見せたのか……。
ふらふらと感情が揺れている。文彦に会えた安堵感と、ふたたび会えなくなった喪失感の入り混じるまま立ち上がると、足もとに落ちるスケッチブックの音に驚いて、頭がはっきりとしてくる。
ずいぶん、うたた寝していたようだ。
未央はスケッチブックを引き出しにしまうと、立ちくらみするような不安定感を覚えながら閉店準備に取りかかる。
少しばかり疲れているのだろう。朝晴との約束は明日にでも変えてもらえるだろうが、キャンセルする気になれない。
朝晴に対して抱える思いはまだうまくつかめていない。付き合いたいとはっきり言われたら、困るのもわかっている。けれど、彼に会いたい気持ちがあるのだけは確かだった。
翌日は、朝早くに朝晴から電話があった。婚約者だと名乗った公平が気がかりなようだったが、「一方的に話が進んでるみたい」と伝えたら、「今夜にでも会って話せないか」と言われた。
今夜も公平が訪ねてくるとは思えなかったが、切り雨で朝晴と二人きりになるのは気が引けて、未央は「レストランで会うなら」と承諾した。そうすることで、朝晴を意識していることが伝わってしまったかもしれない。彼はほんの少しうれしそうに、「たまには駅前のレストランに行きましょう」と声を弾ませた。
午前中は月曜日にしては忙しく、午後になると波が引いたようにぱったりと客足が途絶えた。いつもはしぐれがにぎやかにしているが、今日はリハビリのために病院へ行くからと休みを取っていて、いつになく店内は静かだった。
未央はカウンターに腰かけると、スケッチブックを取り出す。思いつくデザインを描いていると、視界がわずかに歪むような感覚を覚えた。
めまいだろうか。昨夜はよく眠れなかった。ちょっと疲れているかもしれない。まぶたを閉じていると、遠くの方から名前を呼ばれた気がした。
この声は、文彦さん……?
未央はまぶたの裏の暗闇の中に浮かぶ青年を見つけると、そこへ意識を集中した。あれは、文彦の後ろ姿だ。後ろ姿はどんどんと離れていく。
『待って、文彦さん。行かないで』
呼びかけると、青年はぴたりと足を止めた。
『ごめん、未央』
『何を謝るの?』
未央はそう問いかける。
文彦は謝るために会いにきたのだろうか。後悔するようにうつむき加減になる彼の声が頭の中に響いてくる。
『後悔してるんだ。どうして、未央がいるのにあの人に心が揺らいだんだろう。公平と何かあるんじゃないかって疑って、僕はあなたを傷つけた』
『公平さんとは何もないって言ったのに』
『信じたくなかったんだ。あなたを疑うことで、自分を正当化しようとした』
文彦がふたたび離れていく。闇の奥へ奥へと消えていこうとする。未央はあわてて声をかける。
『あの日、公平さんに電話したのよね。何を伝えようとしてたの?』
『あの日……』
文彦は小さくつぶやいて、手のひらをじっと見つめるしぐさをする。
あの日……、文彦が死んだ日、彼は公平に一本の電話を入れていた。
公平がその電話に気づいたのは、夕方だった。折り返しの連絡を入れると、文彦はすぐに電話に出た。海岸へ向かってると話した文彦の車は、カーブを曲がりきれずに対向車と衝突し、そのまま還らぬ人になった。
スマホに気を取られた事故だろう。葬式で悲しみにくれる未央に、公平がぼう然としながらそう話してくれた。
『公平さんは苦しんでる。自分が電話したせいで、事故に遭ったんじゃないかって』
『僕はただ、あなたと幸せに過ごした日々を取り戻したかっただけなんだ』
ため息とともに文彦の背中が揺らぎ、今にも消えてしまいそうだった。未央はあわてて手を伸ばす。
『待ってっ!』
そう叫んだ瞬間、自分の声に驚いて、ハッとまぶたをあげる。窓から差し込む西日のまぶしさに思わず、両手で顔を覆った。
「夢……?」
文彦が会いに来てくれたのか、それとも、文彦に会いたい願望が見せたのか……。
ふらふらと感情が揺れている。文彦に会えた安堵感と、ふたたび会えなくなった喪失感の入り混じるまま立ち上がると、足もとに落ちるスケッチブックの音に驚いて、頭がはっきりとしてくる。
ずいぶん、うたた寝していたようだ。
未央はスケッチブックを引き出しにしまうと、立ちくらみするような不安定感を覚えながら閉店準備に取りかかる。
少しばかり疲れているのだろう。朝晴との約束は明日にでも変えてもらえるだろうが、キャンセルする気になれない。
朝晴に対して抱える思いはまだうまくつかめていない。付き合いたいとはっきり言われたら、困るのもわかっている。けれど、彼に会いたい気持ちがあるのだけは確かだった。