朝晴はきっぱりと断言する。

 彼の言葉には説得力がある。それはきっと、彼が浮気しない人だからだ。そう信じたくなる。しかし、信じていた文彦に裏切られた心はまだ傷ついている。どうして、簡単に信じられるだろう。

 未央は手もとに視線を落とすと、黄色の色上質紙をつまんだ。

「月見草はありませんので、菜の花でもいいですか?」
「もちろん、かまいませんよ」
「それでは、こちらにお座りになってくださいね」

 作業台の横に椅子を引き寄せて、未央は箱を閉じる。それを抱えて、脚立に手をかける。

「棚に戻しますか? それなら、俺が」
「大丈夫ですよ」
「危ないですから」

 素早く伸ばした朝晴の手が、箱を支える手に触れて、未央ははじけるように彼を見上げた。彼は柔らかく微笑んで、少しだけ背伸びして箱を棚に戻す。

「あ、ありがとうございます」

 声がうわずってしまった。たまたま手が触れただけなのに、意識したみたいで恥ずかしい。まだ朝晴のぬくもりを覚えている手を握りしめながら、今度はあわててまぶたを伏せると、彼の指が視界に入る。

「井沢さん……」

 未央の横髪へスッと伸びた指がほおに触れて、目を合わせようとするかのように顔を優しく押し上げる。

 普段、よくしゃべる彼の無言は落ち着かなかった。何か言ってくれないと気まずい。だけれど、いま、彼が何か言えば、未央は答えに困るような予感がしていた。

「抱きしめても?」

 しばらくの沈黙のあと、そっと吐き出した彼の言葉に、やはり、返事ができず、合わせた目が動揺で揺れたのがわかる。

 朝晴は辛抱強い。うろたえる未央とは違い、冷静だけれど、待つことを楽しんでいるようにも見える。

 文彦は優しく未央に触れた。朝晴はどうだろう。優しいだけでなく、力強く抱きしめてくれる気がする。それを試してみたい気持ちが浮かんだ。

 その思いは確かなものだろうか。流されていないか。もっとよく考えた方がいいんじゃないか。

 その判断を冷静にできないぐらい文彦はあの人にのめり込んだから、未央を裏切った。そのぐらい、彼女が好きだった。

 自分は好きだろうか。朝晴を。もしかしたら、文彦にまだ残っているかもしれない恋心を手放してもいいぐらいに。

 葛藤する心を抱えたまま、未央はほおに触れたままの彼の手に触れる。そのときだった。遠くの方から、「こんばんはーっ。すみませーんっ」と、張り上げる声が聞こえてきた。

「誰か、いらっしゃったみたい」

 パッと朝晴から離れたら、気づかないうちにアトリエ内に張り詰めていた空気が弾ける。

「ご近所の方でしょうか?」
「特に思い当たることはないんですけれど、井沢さんはここで待っていてください」
「急用でしたら、帰りますから」

 そう気づかう朝晴を残して、未央は急いでアトリエを出た。裏口へ向かう途中も、外ではまだ声がしていた。若い男の人の声だが、すぐには誰のものか思い浮かばない。

「どなたですか?」

 ドア越しに声をかけると、ぴたっと声がやむ。そして、すぐに弾んだ声が聞こえてくる。

「公平です。財前公平です」
「公平さん?」

 未央は驚いて、あわててドアを開けた。

「お久しぶりです。お元気でしたか」

 はつらつとした笑顔の公平が、驚く未央を見つけると、ますます晴れやかになる。

「どうなさったんですか?」
「さっきまで、八坂のおじさんと食事してたんですよ」
「父にお会いになってたの?」
「はい。未央さんはなかなか東京に来ないと聞いたので、それで、今日はどうしても伝えたいことがあって、直接こちらに……」

 そう言いかけた公平は、視線を未央の後ろへ動かし、口をつぐむ。未央も振り返る。様子が気になったのだろうか、朝晴がのれんから顔を出していた。

「お客さんでしたか」

 申し訳なさそうにする公平に気づいて、朝晴もこちらへやってくる。

「いえ、客ではありませんからお気づかいなく」
「お客さんじゃない?」

 そうと知ると、眉をひそめた公平の目は彼に釘付けになった。一方、朝晴は余裕たっぷりの笑みを浮かべている。

 疑念が頭をもたげたような顔つきで、公平がこちらを見る。文彦とは婚約破棄したけれど、新しい恋を始めるのはまだ早く、軽薄に思われたかもしれない。

 未央は落ち着かない気分になって、あわてて言う。

「こちらは日ごろ、お世話になってる井沢さんです」
「世話って?」
「いろいろです。話せば長くなるんですけど」

 公平は、あとで聞こう、というように一つうなずく。

「えっと、井沢さん、彼は財前公平さんです」
「財前?」
「ええ、はい。……文彦さんの弟さんです」
「ああ、別れた婚約者の」

 なぜか、わざとらしく朝晴は、冷たい声音でそう言った。誰にでも親切で快活な彼にしては珍しい。初対面の相手に好意的ではない態度を取るなんて。

 未央を裏切った文彦に対する敵意みたいなものが、弟である公平に向かったのだろうか。しかし、公平は文彦の浮気に憤っていた一人だ。朝晴が嫌味を言う相手では決してない。

 朝晴の態度が気に入らなかったのか、まるで、未央を守るかのように、公平は未央の前へと出る。

「はじめまして、井沢さん。未央さんの婚約者の財前公平と言います」

 けげんそうに眉をあげる朝晴に向かって、公平は握手を求めるように手を伸ばす。

「いま、なんて?」

 未央も驚いて、尋ねる。婚約者だと名乗ったのは、聞き間違いじゃないだろうか。

「未央さんの新しい婚約者は俺だと言いました」

 公平ははっきりとそう答えた。

 ああ、そうだ。さっきまで、公平は父に会っていたのだ。急に訪ねてきた理由はこれを伝えるためだったのだろう。

 婚約者だと断言したからには、父の了承を得たということだろうか。いや、父が持ちかけて、公平が了承したのか。文彦との婚約だって、唐突に浮上した。父が勝手に決めてしまっていても不思議ではない。どちらにしろ、秘密裏に進んだ話に戸惑う。

「握手する気はなさそうですね」

 公平はあきれたように手を引っ込める。

 困惑顔で朝晴を見上げると、何も聞かされていなかった動揺が彼にも伝わったのだろう。朝晴は、らしくない強張った表情をゆるめ、公平にやんわりと話しかける。

「失礼しました。未央さんを傷つけた方のご家族と聞いて、今さら何をしに来たんだろうと、つい、気持ちが昂ってしまいました。そのようなうそをおっしゃらなくても、事情は理解しています」

 未央を守るために公平がうそをついたと、朝晴は思ったようだ。しかし、公平は朝晴への警戒心を解いてない様子で、はっきりと言う。

「うそじゃないですよ。今は俺が未央さんの婚約者ですので、誤解しないでください」