朝晴に連絡した方がいいだろうか。家に帰ってるかもしれないし、病院から帰る途中なら、寄ってもらえるかもしれない。しかし、出てくるときに店の鍵とポストカードしか持ってこなかった。店に戻らないと、彼に連絡できない。

「苦しいんです」

 しぐれがやっとというように深い息を吐き出す。

「大丈夫ですよ。すぐに井沢さんに来てもらいますから」
「兄なんて呼ばないで」

 きつめの口調に驚いて、未央は口をつぐむ。

「ひとりでも大丈夫だから。私……、ひとりでやれるから」

 朝晴の手を借りたくないとばかりに、彼女は言う。まるで、自身に言い聞かせるように。

 身をかがめ、しぐれと目を合わせる。すぐにそらされたが、苦しそうにゆがむ瞳の中には涙が足りなかった。

 泣けないつらさを、未央は少しは理解しているつもりだった。苦しくて悔しくて、自分ひとりではどうすることもできずにもがいて。

 苦しみを生み出す相手が変わらなければ、永遠に消えない苦しみもある。その相手は、未央にとっては別れた婚約者だったのか、それとも、あの人だったのか……。それはいまだにわからない。しぐれにとっての苦しみを生み出す相手は誰なのだろう。

「ずっと苦しんでるんですよね」

 そっと声をかけると、しぐれはぽつりぽつりと話し出す。

「兄は東京にいたころ、有名なホテルで働いてたんです。高級志向のお客様相手に、プライベート展示会を企画するような仕事だって言ってました。忙しく働いて、家族を顧みるどころか、マンションには寝るために帰るだけみたいな、自分の身体の世話もできないような毎日だったみたいです」
「今の生活からは想像がつきませんね」

 朝晴本人も、以前と今の自分にギャップを感じて戸惑うことがあると言っていた。

「そんな生活でも充実してたみたいです。それなのに、私のせいで仕事をやめて、祖父母の家のある清倉に来て、教師になったんです」
「清倉へ来たいきさつは、井沢さんから聞いてます」
「兄は本当は、今でも東京にいたかったんだと思います」
「井沢さんは、井沢さんがそうしたいから清倉へ来られたと思いますよ」
「それはそうするしかなかったから。……私が征也を拒んだから」

 征也とは、別れた恋人だろう。

「拒むって?」
「征也は一生かけて償うって言ってくれたのに、すごくみじめな気持ちになって拒んだんです」
「そうだったの」
「なんにもできない身体になったのに、征也の手を突き放して、兄の夢や仕事まで奪って、情けない私が嫌い」

 しぐれを苦しめているのは、償うと言った征也ではなく、夢をあきらめた朝晴なのだろうか。そして、夢をあきらめるきっかけを作った自分に、彼女は苦しめられている。いくら朝晴が清倉の生活に満足していると言っても、彼女自身は納得しないように感じる。

 ぎゅっと胸もとを握りしめるしぐれの肩にそっと触れる。

「そんなこと言わないで」
「切り雨さんにまで迷惑かけて、情けないって思ってる」
「迷惑なんて」
「かけてる。足が動けば、こんなことになってない」

 泥まみれのタイヤをじっと見つめるしぐれの視線の先には、同じように汚れる未央の靴が映っているだろう。そして、汚れ一つない彼女自身の靴も。靴を汚してでも、自分の足で歩きたかったのだろう。だから、彼女は悔しがる。ほんの少しのへこみにつまずいたことが、大きな挫折に感じたのかもしれない。

「みんなに迷惑かけて、私なんか生きてる価値ない……」

 すぐさま、未央は首を横にふる。

「もう一生、立てないかもしれない。兄は好きだった仕事をもう二度とできないかもしれない。私のせいで……」
「もうじゅうぶんだから、言わないで。苦しいのはつらいと思います。それでも、生きていてよかったと思いますよ」

 生きてさえいれば……。未央はそれを何度思い、願っただろう。

 しぐれは口を強く結ぶと、手を伸ばした。肩をつかれたと気づいたときにはバランスを崩し、一歩二歩と後ずさっていた。

 しぐれと距離があく。焦燥感を覚える。離れたら、それが心の距離になりそうだった。

「しぐれさん……」

 間違っていただろうか。しぐれの苦しみを自身の経験と照らし合わせ、わかったような気になっていただろうか。だけど、生きていてよかったと思うのは真実だ。ただ目の前にいてくれる。そこにいてくれる。たったそれだけが尊いことなんだと知っている。

「あの……」

 誤解があるなら解きたい。その一心で近づこうと足を踏み出す。

「綺麗事言わないで」

 未央を突き放すように淡々と乾いた声でしぐれは言うと、やるせない感情に満ちた表情で、力いっぱい車椅子をこいだ。