*
玄関ドアの開く音に気づいて、リビングから顔を出したしぐれは、靴を脱ぐ兄の朝晴に声をかけた。
「おかえりー。自転車直ったの?」
「ああ。部品変えてもらって、すぐに直ったよ。次に調子悪くなったら、買い替えだなぁ」
「ずいぶん古い自転車だったからねー」
自転車は清倉の祖母の家にもともとあったものだ。生前、祖父が乗っていたものらしい。商店街へちょっとした用事で出かけるときの兄は、小回りがきくからと重宝していた。
「コーヒー、飲むか?」
リビングへ入ってきた兄は、しゃれた紙袋をテーブルに乗せた。
「わあ。もしかして、駅前にできたカフェの?」
オープン前から興味があって、兄に話したのを覚えてくれていたのだろう。
清倉は自然に囲まれた町だが、駅周辺には観光客向けのおしゃれな店舗が集まっている。若い子が遊びに行くのは、もっぱら、商店街ではなく、駅の方だろう。
「そう、場違いなぐらい若い子ばっかりで、さすがの俺も恥ずかしかったよ」
苦々しげに笑い、兄は向かいに座る。
「そんなに若い子ばっかりだったの?」
「夏休みだからかな、高校生とか大学生みたいな子ばっかりだったな」
「へえ、そうなんだ」
しぐれももう25歳になった。これまで、青春と呼べる時間を過ごせたのはわずかだった。清倉の刺激のない生活では、キャリアを積む機会はない。そもそも、仕事にも就けていない。結婚だってできるかわからない。何もできない毎日。若い子と言える年齢は、気づかないうちにどんどんと過ぎていっているのだと実感する。
「八坂さんは興味なかったのかもな」
紙袋からコーヒーを取り出して、兄はぽつりとつぶやく。
「切り雨さんがどうかしたの?」
「あー、いや。学生が行くような店には興味ないのかなって思っただけさ」
兄の話によれば、切り雨の未央はふたつ年上だそうだ。2年後には自分もあんなふうな大人の魅力がある女性になれているとは到底思えないぐらい、ずいぶん落ち着いた人。優しいし、美人だし、自分の店も持っている。
対して、自分は若くもなく、大人でもない。調理師となり、自分の店を持つのは夢だった。その夢は今も心の片隅にあるけれど、いまの身体では、具体的な話など夢物語のようなもの。ますます同世代から取り残されているように感じている。誰かに迷惑しかかけていない宙ぶらりんな存在に、しぐれはときどき虚しくなる。
そんな煮詰まる様子を気づかってか、このところの兄は、若い子の好きそうな店がオープンしたと聞けば、出かけていって、どんな店だったか教えてくれる。
「しぐれのはクリーム入ったやつにしたよ。めちゃくちゃ甘そうだけどな」
冗談めかして兄はそう言うと、縁側から見える庭へ目を移し、コーヒーカップを口もとに運ぶ。
東京で暮らしていたころの兄は、何をやっても成功する……事実、成功させていて、自信に満ちあふれ、ギラギラしていた。自分のために清倉へ引っ越す決意をしてくれたときは正直、家族を顧みる気持ちが残っていたんだと驚いたものだ。最近の兄はすっかり毒気も抜け、田舎町に馴染んで充実した日々を送っているように見えていたが、今日はどういうわけか、うわの空な様子だ。
「なんだか元気ないね?」
クリームがたっぷり乗ったコーヒーを、ストローでくるくると混ぜながら言うと、兄は肩をすくめる。
「切り雨の八坂さんにたまたま会ったんだけどさ、カフェに誘ったら断られたんだ」
「それで落ち込んでるの?」
意外にも、かわいらしい悩みで驚いた。本人に自覚があるかはわからないが、きっと兄は未央が好きだろう。おしとやかで人当たりが良く、商店街で人気のある未央は、誰から見ても好印象で、兄が好きにならないわけがないと思っている。
「まあ、なんていうか、そのあとが悪かったかな」
「あとって?」
「カフェが嫌なら、切り雨さんでちょっと立ち話でもできたらなぁって思っただけなんだけどな」
「しつこくしたの?」
「そんなつもりはまったくなかったよ。定休日だから、店に入れるのは無理って断られた。なんか、誤解させたかもしれない」
「それって、すっごく迷惑がられたんじゃなーい?」
あきれてそう言う。
誤解もなにも、休業日の店でふたりきりになりたいと言われたら、誰だって警戒する。よほど、兄は恋愛に自信があるのだ。ずいぶん失礼な要求をしたことに気づいてもいないのだろう。
しかし、しぐれには恋に悩む兄が内心羨ましくもあった。
部屋に戻る、と立ち上がる兄の背中を見送る。リビングを出ていくときにはもう、兄は気持ちを切り替えているのか、頼りがいのある背中を見せていた。
兄は昔から有能で、なかなかへこたれない。すぐに立ち直るし、めげずに何度もチャレンジする強い精神の持ち主でもある。一方、そんな兄に守られてきたからか、しぐれはふわふわと純真に育ってきた。
恋も仕事も、憧れを苦労なく叶えて生きてきた。だから、恋人を失うかもしれないという想像しえない現実を突きつけられたとき、おびえ、震え、立ち上がることを拒否してしまったのかもしれない。
玄関ドアの開く音に気づいて、リビングから顔を出したしぐれは、靴を脱ぐ兄の朝晴に声をかけた。
「おかえりー。自転車直ったの?」
「ああ。部品変えてもらって、すぐに直ったよ。次に調子悪くなったら、買い替えだなぁ」
「ずいぶん古い自転車だったからねー」
自転車は清倉の祖母の家にもともとあったものだ。生前、祖父が乗っていたものらしい。商店街へちょっとした用事で出かけるときの兄は、小回りがきくからと重宝していた。
「コーヒー、飲むか?」
リビングへ入ってきた兄は、しゃれた紙袋をテーブルに乗せた。
「わあ。もしかして、駅前にできたカフェの?」
オープン前から興味があって、兄に話したのを覚えてくれていたのだろう。
清倉は自然に囲まれた町だが、駅周辺には観光客向けのおしゃれな店舗が集まっている。若い子が遊びに行くのは、もっぱら、商店街ではなく、駅の方だろう。
「そう、場違いなぐらい若い子ばっかりで、さすがの俺も恥ずかしかったよ」
苦々しげに笑い、兄は向かいに座る。
「そんなに若い子ばっかりだったの?」
「夏休みだからかな、高校生とか大学生みたいな子ばっかりだったな」
「へえ、そうなんだ」
しぐれももう25歳になった。これまで、青春と呼べる時間を過ごせたのはわずかだった。清倉の刺激のない生活では、キャリアを積む機会はない。そもそも、仕事にも就けていない。結婚だってできるかわからない。何もできない毎日。若い子と言える年齢は、気づかないうちにどんどんと過ぎていっているのだと実感する。
「八坂さんは興味なかったのかもな」
紙袋からコーヒーを取り出して、兄はぽつりとつぶやく。
「切り雨さんがどうかしたの?」
「あー、いや。学生が行くような店には興味ないのかなって思っただけさ」
兄の話によれば、切り雨の未央はふたつ年上だそうだ。2年後には自分もあんなふうな大人の魅力がある女性になれているとは到底思えないぐらい、ずいぶん落ち着いた人。優しいし、美人だし、自分の店も持っている。
対して、自分は若くもなく、大人でもない。調理師となり、自分の店を持つのは夢だった。その夢は今も心の片隅にあるけれど、いまの身体では、具体的な話など夢物語のようなもの。ますます同世代から取り残されているように感じている。誰かに迷惑しかかけていない宙ぶらりんな存在に、しぐれはときどき虚しくなる。
そんな煮詰まる様子を気づかってか、このところの兄は、若い子の好きそうな店がオープンしたと聞けば、出かけていって、どんな店だったか教えてくれる。
「しぐれのはクリーム入ったやつにしたよ。めちゃくちゃ甘そうだけどな」
冗談めかして兄はそう言うと、縁側から見える庭へ目を移し、コーヒーカップを口もとに運ぶ。
東京で暮らしていたころの兄は、何をやっても成功する……事実、成功させていて、自信に満ちあふれ、ギラギラしていた。自分のために清倉へ引っ越す決意をしてくれたときは正直、家族を顧みる気持ちが残っていたんだと驚いたものだ。最近の兄はすっかり毒気も抜け、田舎町に馴染んで充実した日々を送っているように見えていたが、今日はどういうわけか、うわの空な様子だ。
「なんだか元気ないね?」
クリームがたっぷり乗ったコーヒーを、ストローでくるくると混ぜながら言うと、兄は肩をすくめる。
「切り雨の八坂さんにたまたま会ったんだけどさ、カフェに誘ったら断られたんだ」
「それで落ち込んでるの?」
意外にも、かわいらしい悩みで驚いた。本人に自覚があるかはわからないが、きっと兄は未央が好きだろう。おしとやかで人当たりが良く、商店街で人気のある未央は、誰から見ても好印象で、兄が好きにならないわけがないと思っている。
「まあ、なんていうか、そのあとが悪かったかな」
「あとって?」
「カフェが嫌なら、切り雨さんでちょっと立ち話でもできたらなぁって思っただけなんだけどな」
「しつこくしたの?」
「そんなつもりはまったくなかったよ。定休日だから、店に入れるのは無理って断られた。なんか、誤解させたかもしれない」
「それって、すっごく迷惑がられたんじゃなーい?」
あきれてそう言う。
誤解もなにも、休業日の店でふたりきりになりたいと言われたら、誰だって警戒する。よほど、兄は恋愛に自信があるのだ。ずいぶん失礼な要求をしたことに気づいてもいないのだろう。
しかし、しぐれには恋に悩む兄が内心羨ましくもあった。
部屋に戻る、と立ち上がる兄の背中を見送る。リビングを出ていくときにはもう、兄は気持ちを切り替えているのか、頼りがいのある背中を見せていた。
兄は昔から有能で、なかなかへこたれない。すぐに立ち直るし、めげずに何度もチャレンジする強い精神の持ち主でもある。一方、そんな兄に守られてきたからか、しぐれはふわふわと純真に育ってきた。
恋も仕事も、憧れを苦労なく叶えて生きてきた。だから、恋人を失うかもしれないという想像しえない現実を突きつけられたとき、おびえ、震え、立ち上がることを拒否してしまったのかもしれない。