そう言うと、秋也の唇の端が卑屈にあがる。

「どうかな。父親と祖母は言い合ってたよ。父親のせいで詐欺にあったとか、土地の形が悪いから、猪川家には縁起の悪いことばっかり起きるとか、祖母はそんな話ばっかりだった。あの土地の形のせいで女の子が事故に遭って亡くなったことも、あの土地を区画整理しようって話が町内から持ち上がってることも、祖母はうらめしそうに話してた」
「そうだったんですか……」
「結局、祖母は昔と変わらずがんこなままで、話にならないから、仕方なく一泊することになったんだ。俺は昔、父親の使っていた2階の部屋で、両親は一階の客間で寝ることになった。祖母は仏間で、仏壇にろうそくや線香をつけたまま眠ってしまったらしい」
「それが原因で?」

 秋也は神妙な様子でうなずく。

「真夜中に、俺は父親の叫び声を聞いて飛び起きた。逃げろっ。秋也、逃げろって、父親は何度も叫んでた。俺はわけもわからず、部屋を出ようとしたけど、廊下に煙が充満してて、あわてて2階の窓を開けた。外には何人かの大人がいて、飛び降りろ、はやくっ、って叫んでた。戸惑ったけど、死ぬぞっ! って誰かが叫んだから飛び降りた。すぐに誰かにかかえられて、気づいたときには病院だった。両親と祖母は間に合わなかったって、あとから聞いたよ」

 秋也は当時を思い出したのか、こめかみを流れる汗をぬぐい、そのまま片手で顔を覆う。

「俺は悪魔だ。俺が生まれなきゃ、両親が祖母と絶縁することはなかった。絶縁しなきゃ、祖母が騙され、両親を巻き込んで死ぬこともなかった。俺だけ助かったのは、俺が悪魔だからだ。本気で、子どもの頃の俺はそう思ってたんだ」
「今は思ってないですか?」
「わからない。でも……」

 秋也は手を伸ばすと、存在を確かめるように奈江の髪に指をうずめる。

「駅で、入ってくる電車に向かって歩き出した奈江を見たときはゾッとした。俺は大切な人を死なせる悪魔かもしれない。そんなことぐらいは考えたのかもな。気づいたら、奈江の前に腕を伸ばしてた。電車が停まって、奈江が俺を見た。助けられたんだ。そう気づいて、心底ホッとした」

 髪に触れる指先に力が入るのがわかって、奈江は尋ねる。

「私、秋也さんを傷つけた?」
「傷つけてないさ」

 すぐに秋也はそう言うけれど、奈江は不安に満ちたまま、彼を見つめ返す。

 不安になっちゃいけない。秋也を不安にさせるから。わかってるのに、できないから、彼は優しく包み込むように微笑むのだ。

「奈江があの日、あの場所で生きててくれた。そうして、俺に出会ってくれた。大事なことはそれだけだよ。生きててくれて、ありがとう。俺が思うのは、それだけなんだよ」
「秋也さん」

 奈江はたまらず両腕を伸ばし、秋也の背中を抱きしめる。

 大きくて、安心感を与えてくれる背中を抱き締めるには、奈江の手は小さすぎる。それでも、伝えなきゃとぎゅっと抱きしめる。

「秋也さんこそ、生まれてきてくれてありがとう」

 秋也がいてくれるから、前向きになれる。生きていられる。悪魔なんかじゃない。たくさんの人を救ってきた……、これからも救い続ける、猪川秋也という名の、ただひとりの人間だということを伝え続けていきたい。

「私も、秋也さんの支えになりたい」
「奈江……」

 秋也は眉をさげると、するりと髪をなで下ろし、そのまま抱きしめてくれる。

「もうずいぶん、支えになってるよ」

 彼はどこまでも優しい。支えられていると感じるのは、自分の方なのに。それでも、彼がそう言ってくれるのならと、奈江も言う。

「もっと、支えていけると思うんです」
「どういう意味?」

 ふしぎそうにする秋也を見上げる。

「人生には何回も転機があるそうなんです」

 いつだったか、後輩の向井がそう言っていた。

「急に、何?」
「夢は叶えるためにあるんです。何度だって、夢にチャレンジしてもいいと思うんです。やりたいことがあるなら、ためらわずにやってみてもいいと思うんです」

 そう言うと、はじめは愉快そうに奈江を見下ろしていた秋也も、くしゃりと顔を歪める。

「チャレンジしたいなんて言ったかな」

 言わなくてもわかると、奈江は首を横に振る。

「もう、誰にも遠慮しなくていいんです」
「遠慮か……。遠慮してたのかな、俺は。ずっとやってみたいことはあったけど、うまく行くかはわからない。今の生活を捨てて、チャレンジしていいのかもわからない。そんな気持ちだったのは、確かだけどね。奈江がいるから、なおさら、そう思うよ」
「私がいるから、チャレンジできるって考えてもいいんです」
「奈江を巻き込んでもいいって言うのか?」
「いつもいきいきとらんぷやで働いてる秋也さんを見てるのが好きなんです。技術的なことは何もできないけど、それ以外のことで支えていきたいって思ってるんです」

 勇ましいことを言ったところで、いつも臆病な自分に何ができるだろう。そうは思うけれど、秋也が一歩進むなら、奈江も一歩進まなきゃいけない。そうやって歩んでいける人と生きていきたいと誓ったのだから。

「俺さ、オーダーメイドランプの販売をやりたいんだ。今まで出会った仲間たちと試行錯誤はしてきた。これからもしながら生きていく。安定した生活なんてできないかもしれない」

 申し訳なさと希望、両方をにじませた表情で、秋也は言う。

 それを口にするのは、ずっとためらっていたのだろう。もしかしたら、奈江と出会わなければ、今ごろはすでに夢に向かって走り出していたのかもしれない。

 好きな人を守るために夢をあきらめた。そんな人生は送って欲しくなくて、奈江は言う。

「転機って、四季みたいですよね? 人生にも四季があるんだと思います」

 移り変わる季節と同じくして、人生にはいくつものターニングポイントがある。

「人生の四季か……」
「これから先、つらいことも悲しいこともいろいろあると思うんです」

 秋也とは夏に出会い、秋をともに過ごし、冬をふたりで越えようとしている。

「冬が終われば、春が来ますね」

 つらいことのあとには、必ず幸せがやってくると信じている。

「春も、奈江と過ごしたいな」

 しみじみとつぶやく秋也と手を重ねる。

「いつか、一緒に夢をかなえてくれるお仲間に会わせてください」

 奈江もその仲間に入れてほしい。そうして、一緒に夢を叶えていきたい。

 そう思うのに、意外にも彼はくすりと笑う。

「仲間って、男ばっかりだよ」
「かまわないです」
「俺が……かまうんだけどね」

 なぜか、困り顔でそう言って、秋也はそっと唇を重ねてくる。

 もう何度、この唇に触れただろう。温かくて優しくて、触れているだけで安心できる。この安心を、彼も感じているのだろうか。キスの後はいつも穏やかな表情になる。

「俺もね、これから先、何度となく繰り返す季節を、奈江と一緒に過ごしていきたいって思ってるよ」
「私も」

 信じてる。一緒に過ごせるって。秋也となら、何度だって四季という名の幸せな未来が過ごせるって、信じている。




【第三話 完】