「代表取締役? ちょっと見せてよ」

 真紀子は名刺を奪い取ると、しげしげと眺める。

「ジェンデって、聞いたことない会社だけど、まあ、代表取締役なら大丈夫かしら」

 真紀子はあんどするかのような息をつく。肩書きに弱い彼女らしい態度に、康代はため息をつきつつ、名刺を返してもらうと背中を押す。

「もういいでしょう。帰りなさい」
「言われなくても帰るから、あんまり押さないでよ」

 不満そうな真紀子をリビングから追い出した康代は、玄関ドアの閉まる音を確認したあと、困り顔で言う。

「気にしなくていいよ、奈江ちゃん。真紀子は誰と仲良くしようが、相手の良くないところばかり探そうとする子だから」
「そうだね……、気にしてない。猪川さんとのこと、お母さんにダメって言われても気持ちは変わらないから」

 秋也に何があったのかはわからない。けれど、奈江は母よりも彼を大切に感じている。それは間違いない気持ちだと、母に対面して改めて実感している。

「お付き合いしてるの?」

 心配そうに、彼女は聞いてくる。

「……してる」

 奈江は小さくうなずく。康代には知っていてほしいと思って、今日は訪ねてきたのだ。まさか、こんな形で告白することになるとは思っていなかった。

「でも、お付き合いはまだ始めたばっかりだから。私の知らないことがたくさんあるんだね」
「猪川さんなら、必要なときに話すと思うよ。今はまだ、タイミングを見計らってるだけで」

 康代は必要なときと言うけれど、それは付き合うと決めたときではなかったのだろうか。

「私を信用してないから、まだ話せないんだよね?」

 あのときがそのタイミングじゃないなら、そうとしか思えない。秋也は臆病な奈江を頼りなく思っているのだ。

 康代はそっと首を振る。

「そうじゃないと思うよ、奈江ちゃん。あの子ひとりで背負うには、あの事故は傷ましすぎて、簡単には話せないんだよ」
「何があったの? 火事って、さっき言ったよね。それに、彼岸橋の猪川さんって」
「猪川さんの祖父母はね、彼岸橋の近くにお住まいだったんだよ」

 しばらく康代は沈黙していたが、ためらいがちにそう切り出す。

「そういえば、猪川さんのお父さんのご生家が、彼岸橋のあたりにあったって」

 みやはらの祭りに出かけたとき、秋也の叔父がそう言っていたのを思い出す。
 
「彼岸橋に交差点があるだろう? その角だよ」
「彼岸橋の角? それってもしかして、与野さんちの……」
「そう。みね子さんちの舞花ちゃんが事故に遭った、あの角のお宅」
「じゃあ、猪川さんちの土地が張り出してたから、舞花ちゃんは……」

 秋也さんは悪魔なんだよ。

 唐突に、環生の言葉が脳裏に浮かんだ。そして、秋也の苦しげな表情も。

 俺に関わるやつは、みんな死ぬ。

 そう告白した彼の頭の中には、舞花ちゃんの顔も浮かんでいたのだろうか。

「家が火事にあったの?」
「全焼だったよ。あの火事で、お祖母さんと息子さんご夫婦が亡くなったんだ。唯一、助かったのが、秋也くんって名前の男の子でね」

 奈江はたまらず立ち上がり、リビングを飛び出す。

「奈江ちゃんっ!」

 呼び止められて、奈江はぼう然と康代を振り返る。

「おばさん……、私、猪川さんと話さなきゃ」
「話してくれるのを待ってもいいんだよ」

 優しく言ってくれる康代に、奈江は首を振る。

「それって、私が頼りになるまで話してくれないってことだよね。そうなるまで、猪川さんはずっとそれを抱えていくんだよね。それは苦しいと思う」
「行くの?」
「行く。ごめんね」

 秋也に深く関わるのを、内心は反対してるんじゃないか。康代だって、真紀子と同じだ。心配する素振りで反対してる。だけど、その心配を取り除けば、反対する気持ちもなくなるって信じたい。

「謝る必要なんてないじゃない。奈江ちゃんがそうしたいって思う気持ちを、おばさんは反対なんかしないから。でもね」
「でも?」
「話が済んだら、うちに連れていらっしゃいよ。猪川さんがおいしそうに大福食べる姿、おばさんも見たいから」
「おばさん……」

 奈江は、うんと力強くうなずくと、優しい眼差しをする康代に背を向けて走り出した。