***
なぜ、吉沢遥希は婚約を破棄したのだろう。
彼岸橋に立ち、奈江はぼんやりと、春を待つ桜の木の枝を眺める。
結婚まで考えたふたりなのに、冬の季節が訪れてしまったのだろうか。冬が終わればまた春が来るのに、彼らに春はやってこなかった。
秋也との未来を憂える必要はないのに、彼らと同じように別れが来るのではないかと、どうしてもそのことが奈江の頭から離れてくれない。
彼に抱きしめられている間は幸せを感じていられるのに、少しでも離れてしまうと不安になる。でも、やっぱりどうしようもない。いくら、大丈夫だよ、と彼が言ってくれたとしても、これは奈江の性分なのだ。
康代の自宅へ向かうため、ふたたび、歩き出した奈江は、川沿いを散歩する柴犬を見つけて足を止めた。
柴犬は、小さな女の子と手をつなぐ母親らしき女の人がつかむリードにつながれていた。
熱心に女の人へ話しかける、おしゃべりな女の子の方へ首を向けながら、ちょこちょこと歩く柴犬の姿に既視感を覚えた奈江は、じっとそちらを見つめた。
マメ?
心の中でそうつぶやき、いるはずのないマメの面影を柴犬と重ねる。
違う、マメじゃない。あれは……。
そう思ったとき、女の子が声を張り上げた。
「わたしもシェードのひも、持ちたいーっ」
「シェード……」
その名を聞いた途端、奈江は駆け出していた。
「恵麻はまだ危ないから、ママと一緒ね」
「えま、できるー」
「シェードがおケガしたら、かわいそうでしょう?」
リードを引っ張る女の子の手を、やんわりと止める母親の前で、奈江は足を止める。
ふしぎそうにこちらを見やる女の人に見覚えはない。しかし、背のあまり高くない、ふんわりと優しい雰囲気の女の人の横に、穏やかな遥希の笑顔を想像するのは容易なほど、かわいらしい人だった。
どう声をかけたらいいかわからず、立ち尽くす奈江の足もとに、シェードがやってくる。靴の匂いをかぎ、奈江のももに前足を乗せ、後ろ足で立つとしっぽを振る。シェードは覚えてくれているんだろうか。
「ごめんなさいね。シェード、困ってるよ」
女の人は頭をさげると、奈江からシェードを引き離し、行こうとする。
「あのっ、友梨さんですか?」
奈江はあわてて引き止める。
「そうですけど……。どこかでお会いしたことありましたっけ?」
けげんそうにこちらを見上げる友梨に、奈江はすぐさま頭を下げる。
「知ってるのは、シェードなんです。高校生のころに、ここでよくシェードとお散歩して」
遥希の名前を出していいかわからず、そう言うと、友梨は「ああ」と何か思い出したようにうなずいた。
「遥希のお友だち? えっと、確か……、そう、マメちゃん。マメちゃんとシェードが仲良しだって、遥希から聞いてました」
「そう、そうです。マメです。やっぱり、あのときのシェードなんですね?」
「シェードは私が遥希から預かって育ててるんです。……あの、遥希のことは?」
遠慮がちに尋ねてくる友梨に、奈江はそっとうなずく。
「聞いてます、猪川さんから」
「猪川って、秋也くん?」
「らんぷやの猪川さんです」
そう言うと、友梨は親しみのある笑顔を見せる。
「懐かしい。最近は全然会えてないんだけど、お元気?」
「はい。シェードが友梨さんに引き取られたんだってことも、猪川さんが教えてくれたんです」
「そうだったの。シェードはまだ遥希が亡くなったことを知らないんだけど……」
しんみりと目を伏せるが、すぐに彼女は気を取り直して言う。
「私、高山友梨って言います。娘は恵麻。私はよくここを散歩してるんだけど、あなたも?」
「近くに伯母が住んでて、私は時々」
「じゃあ、大野にお住まいじゃないのね?」
「私は昔から隣町に。マメは伯母が飼ってて、夏休みの間だけ、私が代わりにここで散歩してたんです」
「それで。遥希があんまり見ない子だって言ってたのは覚えてる。私のことは、遥希から?」
「あっ、実は伯母が遥希さんのお母さんと交流があって、それで……」
言葉をにごすと、友梨は困り顔で少しばかり笑う。
「ご存知なんですね……。そうですよね。結婚式の招待状を出したあとに別れたから、みんなが知ってるのはしょうがないことなんだけど。恵麻は遥希との子どもだって勘違いしてる人もいるんですよ? 主人は気にしてないって言ってくれる、ほんとにいい人で」
「優しいご主人なんですね。それに、かわいいお子さんですね」
恵麻はこちらの話を聞いているのかいないのか、シェードの背中をなでながら、退屈そうにしゃがみ込んでいる。
「ええ。遥希が亡くなって、落ち込んでる私を励ます主人が授けてくれた、とても大切な子です」
「そうなんですね」
「落ち込むなんて言って、遥希に別れを切り出したのは、私なんですけどね。秋也くんから聞いてない?」
なぜ、吉沢遥希は婚約を破棄したのだろう。
彼岸橋に立ち、奈江はぼんやりと、春を待つ桜の木の枝を眺める。
結婚まで考えたふたりなのに、冬の季節が訪れてしまったのだろうか。冬が終わればまた春が来るのに、彼らに春はやってこなかった。
秋也との未来を憂える必要はないのに、彼らと同じように別れが来るのではないかと、どうしてもそのことが奈江の頭から離れてくれない。
彼に抱きしめられている間は幸せを感じていられるのに、少しでも離れてしまうと不安になる。でも、やっぱりどうしようもない。いくら、大丈夫だよ、と彼が言ってくれたとしても、これは奈江の性分なのだ。
康代の自宅へ向かうため、ふたたび、歩き出した奈江は、川沿いを散歩する柴犬を見つけて足を止めた。
柴犬は、小さな女の子と手をつなぐ母親らしき女の人がつかむリードにつながれていた。
熱心に女の人へ話しかける、おしゃべりな女の子の方へ首を向けながら、ちょこちょこと歩く柴犬の姿に既視感を覚えた奈江は、じっとそちらを見つめた。
マメ?
心の中でそうつぶやき、いるはずのないマメの面影を柴犬と重ねる。
違う、マメじゃない。あれは……。
そう思ったとき、女の子が声を張り上げた。
「わたしもシェードのひも、持ちたいーっ」
「シェード……」
その名を聞いた途端、奈江は駆け出していた。
「恵麻はまだ危ないから、ママと一緒ね」
「えま、できるー」
「シェードがおケガしたら、かわいそうでしょう?」
リードを引っ張る女の子の手を、やんわりと止める母親の前で、奈江は足を止める。
ふしぎそうにこちらを見やる女の人に見覚えはない。しかし、背のあまり高くない、ふんわりと優しい雰囲気の女の人の横に、穏やかな遥希の笑顔を想像するのは容易なほど、かわいらしい人だった。
どう声をかけたらいいかわからず、立ち尽くす奈江の足もとに、シェードがやってくる。靴の匂いをかぎ、奈江のももに前足を乗せ、後ろ足で立つとしっぽを振る。シェードは覚えてくれているんだろうか。
「ごめんなさいね。シェード、困ってるよ」
女の人は頭をさげると、奈江からシェードを引き離し、行こうとする。
「あのっ、友梨さんですか?」
奈江はあわてて引き止める。
「そうですけど……。どこかでお会いしたことありましたっけ?」
けげんそうにこちらを見上げる友梨に、奈江はすぐさま頭を下げる。
「知ってるのは、シェードなんです。高校生のころに、ここでよくシェードとお散歩して」
遥希の名前を出していいかわからず、そう言うと、友梨は「ああ」と何か思い出したようにうなずいた。
「遥希のお友だち? えっと、確か……、そう、マメちゃん。マメちゃんとシェードが仲良しだって、遥希から聞いてました」
「そう、そうです。マメです。やっぱり、あのときのシェードなんですね?」
「シェードは私が遥希から預かって育ててるんです。……あの、遥希のことは?」
遠慮がちに尋ねてくる友梨に、奈江はそっとうなずく。
「聞いてます、猪川さんから」
「猪川って、秋也くん?」
「らんぷやの猪川さんです」
そう言うと、友梨は親しみのある笑顔を見せる。
「懐かしい。最近は全然会えてないんだけど、お元気?」
「はい。シェードが友梨さんに引き取られたんだってことも、猪川さんが教えてくれたんです」
「そうだったの。シェードはまだ遥希が亡くなったことを知らないんだけど……」
しんみりと目を伏せるが、すぐに彼女は気を取り直して言う。
「私、高山友梨って言います。娘は恵麻。私はよくここを散歩してるんだけど、あなたも?」
「近くに伯母が住んでて、私は時々」
「じゃあ、大野にお住まいじゃないのね?」
「私は昔から隣町に。マメは伯母が飼ってて、夏休みの間だけ、私が代わりにここで散歩してたんです」
「それで。遥希があんまり見ない子だって言ってたのは覚えてる。私のことは、遥希から?」
「あっ、実は伯母が遥希さんのお母さんと交流があって、それで……」
言葉をにごすと、友梨は困り顔で少しばかり笑う。
「ご存知なんですね……。そうですよね。結婚式の招待状を出したあとに別れたから、みんなが知ってるのはしょうがないことなんだけど。恵麻は遥希との子どもだって勘違いしてる人もいるんですよ? 主人は気にしてないって言ってくれる、ほんとにいい人で」
「優しいご主人なんですね。それに、かわいいお子さんですね」
恵麻はこちらの話を聞いているのかいないのか、シェードの背中をなでながら、退屈そうにしゃがみ込んでいる。
「ええ。遥希が亡くなって、落ち込んでる私を励ます主人が授けてくれた、とても大切な子です」
「そうなんですね」
「落ち込むなんて言って、遥希に別れを切り出したのは、私なんですけどね。秋也くんから聞いてない?」