『本日、休業』

 と、戸口の横に立てかけられた看板を見ていると、内側からゆっくりと扉が開く。

 薄手のジャケットを羽織った秋也が鍵を片手に出てくる。すぐにこちらに気づいた彼だが、何も言わずに背を向けてくる。そうして、扉に鍵をかけながら、ハッと振り返り、ほうけたような顔をする。

「こんばんは。……おかしいですよね」

 少し気まずく思いながら言うと、秋也はすぐに駆け寄ってきて、こちらをじっくりと眺めてくる。

「おかしくないよ。ごめん。ちょっとびっくりした。そのワンピース、この間買ったやつだよね?」
「覚えてくれてたんですね」

 ブラウンのロングワンピースは、この日のためにと、秋也とのデートで購入したものだ。

「もちろん。よく似合うよ」
「ワンピースに合うようにって、髪もメイクも温美さんがやってくれたんです。それに、ネイルも」

 そっと指を伸ばしてみせると、秋也が手のひらに触れてくる。

「きれいだよ」

 どきりとするぐらい、艶のある声音でそう言われて、奈江の胸は跳ね上がる。

 やっぱり、なんだか恥ずかしい。心配ばかりかける早坂奈江ではなく、ひとりの女性として見られたような気がしてしまう。ちょっとおしゃれしたぐらいで勘違いしてしまって、余計に恥ずかしい。

「こういうの……慣れなくて。明日からまた、いつものメイクに戻します」
「じゃあ、今日は特別なんだ? それはそれで、特別感があっていいね」

 秋也は楽しそうだ。本当に、あきれるぐらいなんでも楽しむ人だ。

「猪川さんは、どっちの私が……いいですか?」

 聞く気もなかったのに、どういうわけか、尋ねていた。

「俺? 俺はどっちもいいと思うよ。早坂さんがいいと思う方がいい」

 そうか。そんなふうに言ってくれるのか。でも、そうやって言ってくれる人だっていうのは知っていた。

「私は、いつもの私が好きなんです」
「そう」
「周りがどう思うかじゃなくて、自分がどう思うかが大事だと思ってて……」

 いつもひと目を気にしてばかりいるのに、何を言ってるんだって笑われてしまうかもしれない。そう思いながら彼を見上げると、優しい目で見守ってくれている。

「大切なことだよね」
「でも……、今日の私も嫌いじゃないって思ってるんです」

 うつむこうとすると、秋也が下からのぞき込んでくる。

「わかるよ。すごくきれいだから」

 ささやくように言うから、ますますどきりとする。ほおが熱くなって、手を添えると、秋也が目を細める。

「早坂さんは? 前の俺と今の俺、どっちが好み?」
「髪を染める前と今?」
「早坂さんはちゃらちゃらした男が苦手かなって思ってさ。俺、茶髪にすると、やんちゃそうに見えるらしいからさ」
「髪の色とか、関係ないです」

 そう言いつつ、罪悪感はある。第一印象はあまり良くなかった気がする。どちらかというと、苦手なタイプに見えていた。

「じゃあ、また染めるかな」
「どんな色にしても、猪川さんの優しさは変わらないですから」
「早坂さんもずっときれいだよ。飾らないのに、こんなにきれいな人がいるんだって、初めて見たときに思ったよ。早坂さんの持つ透明感は、何をしても消えないね」

 隙のないメイクをした奈江を見て、それを今日、確信したとばかりに秋也は言う。

 何度もきれいだなんて言ってくれるから返事に困っていると、彼が一歩足を踏み出す。

「そろそろ行こうか、早坂さん。今夜は日曜日でたくさん人が来てるから、迷子にならないように俺の腕、つかんでていいよ」

 迷子にならないように、という言葉に奈江はホッとする。手をつなぎたいと言われたら、妙な勘違いをしてしまって、拒んだだろう。

 歩き出す秋也をつかまえるように袖をつかむ。手をつなぐより平気だろうと思っていたのに恥ずかしくて、つい、腕を伸ばして歩くと、彼がおかしそうに振り返る。

「そんなに離れてたら意味ないよ」

 そう言って、彼は奈江の手首を優しく引く。激しく波打つ心音が聞こえてしまうんじゃないかと心配になるけれど、遠くから聞こえてくる祭りばやしの音がかき消してくれるだろうと信じながら、奈江は秋也の腕にそっと寄り添う。

 肌寒い夜のはずなのに、彼のぬくもりで寒さを忘れる。彼から離れたくない、今夜ぐらいは素直になりたいと思ったのは、すでに宮原の神様がくださる縁に絡めとられていたのかもしれない。