「EARS.だよ」
馴染みのあるアプリ名に、奈江も反応する。
「そんないきさつがあったんですね」
「きっと、そういう優しさに飢えてる人がたくさんいるって、秋也くんもわかってたんじゃないかな。誰も傷つけない会話なんて難しいもん」
いま、こうやって話していても、奈江を傷つける発言をしたかもしれないって、温美は気にした。その気持ちは奈江もわかる。
大なり小なり、奈江だってよく傷つけられるし、もしかしたら、傷つけているかもしれない。それでも関係が続く人とそうでない人の差は、傷つけられる程度が許容できるかどうかだ。奈江はいま、温美も環生も許容できている。だから、もっと話が聞きたいと思う。
「猪川さんはアプリを通して、知らない誰かを助けたかったんでしょうか」
自分に関わる人を死なせてしまう。そんな苦しい思いを抱えた彼だからこそ、誰よりも命を尊んでいるのだと思う。
「そうだと思います。秋也さんは死のうとするやつを見過ごせないんですよ。救えない命があるのはわかってて、その上で、少しでも救える命があるならって思ってる。身近な人を失うつらさをよく知ってるから」
そう言う環生も、父や兄を失っているから、そのつらさがわかるのだろう。神妙にそう答える。
「死のうとする人……」
奈江はぽつりとつぶやく。
秋也に初めて出会ったあの日、奈江は仕事に疲れていて、悲観的だった。毎日毎日、同じ作業の繰り返し。生きる楽しみもなくて、死んでも後悔はないと思った。だから、ホームに入ってくる電車に魅入られた。死んでもかまわない。そう思った瞬間、横から伸びてきた腕に助けられた。
秋也は、ずっと見ていた、と言った。具合が悪いのではなく、死んでもいいと思っていた奈江を見ていた。
今でもデートに誘ってくれたりしてかまうのは、死んでしまうかもしれない奈江から目を離せなくて、なのだろう。そう考えれば、腑に落ちる。
「生まれたら、死ぬまで生きるだけなんですよね。その、『だけ』が難しい。早坂さんもそう思わないですか?」
環生はこちらをじっと見つめてくる。まるで、すべてを見透かすような目をするのだ、彼は。いや、彼にはすべてが見えている。だから、奈江はうなずく。隠す必要なんてない。
「生きてればいいことあるかな? って、そんなことばかり考えてる」
いいことは勝手にやってこないのに、ずっと待ってる。待っても待ってもこないから、勝手に失望して、勝手に苦しんでる。秋也は自分で幸せをつかみとりにいったのに、奈江にはそれができていなかった。
「俺も同じですよ」
「私もー」
温美もあっけらかんと同意する。
「どうせ生きるなら楽しい方がいいって言うやつもいるけど、人生なんて楽しくないもんなんだ。幸せなんて求めるから苦しい。俺はそう思って生きてきたんです。昔はね」
「今は違うの?」
「秋也さんに出会って、ちょっとは変わりました。あの人は幸せになろうと努力するから。小さな幸せを見過ごさない人なんです」
「そうだね。そんな気がする」
「いいことがあっても、気づかなきゃ意味ないですよね?」
「猪川さんは、それに気づける人ですよね。私にそれができるのかなって考えちゃう」
「できますよ」
意外にも、環生は優しい目を向けてくると、自信満々にそう言う。
「早坂さんにも、好きなものはありますよね? とびきり好きなものがある人を羨ましく思う人でも、必ず好きなことってあると思うんです。だけど、とびきり好きじゃないからわかりにくい」
「あたりまえのようにできる、自分の得意なものに気付けないのと同じで、わかりにくいんだよね」
温美がそう言う。
「そう。それと同じで、とびきりいいことはなくても、いいと思うことはあるはずなんです。たとえば、秋也さんと一緒にいて、めちゃくちゃ楽しくはないけど、一人でいるよりは楽しいとか」
うなずくのも失礼なたとえ話に、奈江は返事をためらう。
「まあ、いいと思うことがないなら、気づいてないだけだって言いたいんです。誰かの人生の一部として生きてると、見過ごすかもしれない」
「誰かの人生の一部……?」
ふと浮かんだのは、母の顔だ。
母のご機嫌うかがいばかりする奈江は、母の人生の一部を生きてきたのだろうか。
「主人公になるのは、なんにも怖くないんですよ。そろそろ、人生を楽しんだらどうですか? 早坂さん」
彼には奈江が人生を楽しんでいないように見えるのだろう。楽しむ方法すら知らないと思っているようだ。だけど、きっと楽しんでいるはずだ。秋也と過ごす時間を。それを環生にどう伝えればいいのかわからなくて、奈江は黙り込む。
「あっ、ねー、今度、宮原神社でお祭りあるんだよね。奈江さん、私と一緒に行かない? 私、お祭り大好きなんだ。一緒に楽しもうよ」
温美に気をつかわせてしまった。ますます何も言えなくなる奈江を見て、環生がくすりと笑う。
「温美さんさ、祭り当日、予約入れておいてよ」
「突然なによ。カット? ネイル?」
「両方。あと、メイクも」
「メイク? 環生くんの予約じゃないの?」
後ろの棚に手を伸ばし、予約表らしきファイルをつかむ温美がきょとんとする。
「早坂さんの予約。俺だって、プレゼントしたいんだよ」
「なーに、珍しい。プレゼントなんて」
「秋也さんの喜ぶ顔が見たいからね」
「なんで、秋也くん? まあいいけど、ほんと、環生くんって秋也くんが好きだよね」
会話についていけず、ミルクティーのストローをくわえる奈江の前で、温美は予約表に『早坂』と書き込んだ。
馴染みのあるアプリ名に、奈江も反応する。
「そんないきさつがあったんですね」
「きっと、そういう優しさに飢えてる人がたくさんいるって、秋也くんもわかってたんじゃないかな。誰も傷つけない会話なんて難しいもん」
いま、こうやって話していても、奈江を傷つける発言をしたかもしれないって、温美は気にした。その気持ちは奈江もわかる。
大なり小なり、奈江だってよく傷つけられるし、もしかしたら、傷つけているかもしれない。それでも関係が続く人とそうでない人の差は、傷つけられる程度が許容できるかどうかだ。奈江はいま、温美も環生も許容できている。だから、もっと話が聞きたいと思う。
「猪川さんはアプリを通して、知らない誰かを助けたかったんでしょうか」
自分に関わる人を死なせてしまう。そんな苦しい思いを抱えた彼だからこそ、誰よりも命を尊んでいるのだと思う。
「そうだと思います。秋也さんは死のうとするやつを見過ごせないんですよ。救えない命があるのはわかってて、その上で、少しでも救える命があるならって思ってる。身近な人を失うつらさをよく知ってるから」
そう言う環生も、父や兄を失っているから、そのつらさがわかるのだろう。神妙にそう答える。
「死のうとする人……」
奈江はぽつりとつぶやく。
秋也に初めて出会ったあの日、奈江は仕事に疲れていて、悲観的だった。毎日毎日、同じ作業の繰り返し。生きる楽しみもなくて、死んでも後悔はないと思った。だから、ホームに入ってくる電車に魅入られた。死んでもかまわない。そう思った瞬間、横から伸びてきた腕に助けられた。
秋也は、ずっと見ていた、と言った。具合が悪いのではなく、死んでもいいと思っていた奈江を見ていた。
今でもデートに誘ってくれたりしてかまうのは、死んでしまうかもしれない奈江から目を離せなくて、なのだろう。そう考えれば、腑に落ちる。
「生まれたら、死ぬまで生きるだけなんですよね。その、『だけ』が難しい。早坂さんもそう思わないですか?」
環生はこちらをじっと見つめてくる。まるで、すべてを見透かすような目をするのだ、彼は。いや、彼にはすべてが見えている。だから、奈江はうなずく。隠す必要なんてない。
「生きてればいいことあるかな? って、そんなことばかり考えてる」
いいことは勝手にやってこないのに、ずっと待ってる。待っても待ってもこないから、勝手に失望して、勝手に苦しんでる。秋也は自分で幸せをつかみとりにいったのに、奈江にはそれができていなかった。
「俺も同じですよ」
「私もー」
温美もあっけらかんと同意する。
「どうせ生きるなら楽しい方がいいって言うやつもいるけど、人生なんて楽しくないもんなんだ。幸せなんて求めるから苦しい。俺はそう思って生きてきたんです。昔はね」
「今は違うの?」
「秋也さんに出会って、ちょっとは変わりました。あの人は幸せになろうと努力するから。小さな幸せを見過ごさない人なんです」
「そうだね。そんな気がする」
「いいことがあっても、気づかなきゃ意味ないですよね?」
「猪川さんは、それに気づける人ですよね。私にそれができるのかなって考えちゃう」
「できますよ」
意外にも、環生は優しい目を向けてくると、自信満々にそう言う。
「早坂さんにも、好きなものはありますよね? とびきり好きなものがある人を羨ましく思う人でも、必ず好きなことってあると思うんです。だけど、とびきり好きじゃないからわかりにくい」
「あたりまえのようにできる、自分の得意なものに気付けないのと同じで、わかりにくいんだよね」
温美がそう言う。
「そう。それと同じで、とびきりいいことはなくても、いいと思うことはあるはずなんです。たとえば、秋也さんと一緒にいて、めちゃくちゃ楽しくはないけど、一人でいるよりは楽しいとか」
うなずくのも失礼なたとえ話に、奈江は返事をためらう。
「まあ、いいと思うことがないなら、気づいてないだけだって言いたいんです。誰かの人生の一部として生きてると、見過ごすかもしれない」
「誰かの人生の一部……?」
ふと浮かんだのは、母の顔だ。
母のご機嫌うかがいばかりする奈江は、母の人生の一部を生きてきたのだろうか。
「主人公になるのは、なんにも怖くないんですよ。そろそろ、人生を楽しんだらどうですか? 早坂さん」
彼には奈江が人生を楽しんでいないように見えるのだろう。楽しむ方法すら知らないと思っているようだ。だけど、きっと楽しんでいるはずだ。秋也と過ごす時間を。それを環生にどう伝えればいいのかわからなくて、奈江は黙り込む。
「あっ、ねー、今度、宮原神社でお祭りあるんだよね。奈江さん、私と一緒に行かない? 私、お祭り大好きなんだ。一緒に楽しもうよ」
温美に気をつかわせてしまった。ますます何も言えなくなる奈江を見て、環生がくすりと笑う。
「温美さんさ、祭り当日、予約入れておいてよ」
「突然なによ。カット? ネイル?」
「両方。あと、メイクも」
「メイク? 環生くんの予約じゃないの?」
後ろの棚に手を伸ばし、予約表らしきファイルをつかむ温美がきょとんとする。
「早坂さんの予約。俺だって、プレゼントしたいんだよ」
「なーに、珍しい。プレゼントなんて」
「秋也さんの喜ぶ顔が見たいからね」
「なんで、秋也くん? まあいいけど、ほんと、環生くんって秋也くんが好きだよね」
会話についていけず、ミルクティーのストローをくわえる奈江の前で、温美は予約表に『早坂』と書き込んだ。