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 奈江は祭りが苦手だ。

 いや、そもそもイベントと名のつくもの全般が苦手だ。とりわけ、祭りは大の苦手で、子どもの頃は親に連れられて仕方なく参加していたが、大人になってからは、まったくと言っていいほど、出かけた記憶がない。

 わたがしや金魚すくい、にぎやかな祭りばやし。奈江の周りは、こぞってどこかへ向かって歩く人々の笑顔であふれていたのに、楽しいはずのひとときは、いつもいらついている母の背中を追いかけているだけだった。

 今思えば、母も人混みが苦手だったのだろう。母親だから、子どもを楽しませなきゃいけない。そんな義務感にかられて、苦手な場所へ出かけていく母の不機嫌は、臆病な奈江にダイレクトに伝わっていた。

 一方、兄は鈍感というのか、母の機嫌には無頓着で、祭りを楽しんでいた。あれがほしい、これがほしいとおねだりして、母に文句言われながらも欲望を満たしていた。しかし、奈江はほしいものをほしいとは言えなかった。家に帰れば、仕事を終えて疲れて帰ってきた父に向かって、「こんなくだらないもの欲しがって」と母が報告するに決まっているからだ。

 実際、そう言っているのを聞いたことがある。兄は「いいじゃん、別に」と言える子どもだったが、奈江は母に悪く言われたくなくて、何も買ってもらわないようにしていた。

 子どもの頃から、欲しいと言うことは罪だと思っていた。今でも、そうなのかもしれない。だから、プレゼントをもらうことに抵抗がある。誰かが自分のために無償の愛をくれたとしても、見えないところで悪口を言っているんじゃないかと勘繰ってしまうのだ。

 だけれど、秋也から祭りに行きたいと言われ、奈江は断れなかった。断れば、彼は「どうして?」と聞いただろう。中学生で家族を失った彼は、両親への不満すら言えずに生きてきたはずだ。奈江は母の悪口とも言えるエピソードを話したくはなかった。

「ねぇ、宮原神社のお祭り、知ってる?」

 二杯目の緑茶を湯呑みに注ぐ伯母の康代に、奈江は尋ねる。

 どこでうわさを聞きつけたのか、「最近、大野によく来てるの? 時間があったら、うちにも寄ってね」と連絡をもらい、康代の家を訪れていた。

「来月だったね。奈江ちゃん行くの?」
「どうしようかなぁって、迷ってる」
「昔は真紀子も、そんなこと言いながら、奈江ちゃんや篤紀(あつのり)くんを連れて大野に遊びに来てたわね」

 康代は懐かしそうに言う。

 篤紀は兄だ。奈江の記憶にある祭りは、みやはら縁結び祭りだったのだろうか。

「お母さん、お祭りが好きじゃないよね」
「にぎやかな場所が苦手みたいね」
「私も苦手。お母さんに似てるのかな」

 母とはあまり、折り合いがよくない。もちろん、母はそうは思っていないだろう。だから、一人暮らししたいと言ったときも、「奈江はぼんやりしてて心配だから、佐羽で暮らしなさいね」と、実家近くでの暮らしを要求したのだ。嫌いだったら、遠くへ行かせてくれたとは思う。

 康代は緑茶をすすると、首をかしげる。

「真紀子には似てないよ。あの子が人混みを嫌うのは、わずらわしいことが苦手なだけで、奈江ちゃんとは違うでしょう?」
「そうかな」
「奈江ちゃんは気遣い屋さんだから、疲れやすいのよね。優しくていい子」
「いい子かな。お母さんを怒らせてばっかりなのに」
「真紀子はせっかちで、思い通りにならないとイライラするわよね。奈江ちゃんに怒ってるわけじゃないよ」

 康代はそう言うが、どうにも奈江は承服できない。

「私が思うように育たないから、イライラしてるんだと思う」

 康代は心配そうに眉を寄せて、手を重ねてくる。

「自分ではそうは思ってないだろうけど、真紀子は昔から完璧主義で、がんこ。頑張り屋で他人に厳しいところもあった。それでも、奈江ちゃんはかわいいって育ててたよ」

 康代のなぐさめが余計に、奈江を意固地にする。

「そういうの、感じたことない」

 困らせたいわけじゃないのに、康代は困ったような笑みを見せる。

「真紀子は愛情表現が苦手なのね。奈江ちゃんがそう思うなら、おばさんは無理に仲良くさせたいとは思わないよ」
「親不孝者だよね」
「いいじゃない、それでも。真紀子が悩むなら、それはあの子の問題。家族だからって無理に好きにならなきゃいけないことはないよ」
「就職してから、ずっと距離を置いてる。これからもそれでいいのかな」
「大丈夫よ、奈江ちゃん」

 優しく手の甲をなでられて、奈江は息をつく。康代が母親だったら違う人生があったかもしれない。だけど、そうだったら、こんなふうに話せる関係ではなかったかもしれない。人との巡り合いに仮定の話をしていたら、キリがない。

「奈江ちゃん、宮原神社のお祭り、行ってらっしゃいよ」

 康代は優しくそう言う。

「やっぱり、行った方がいいようなお祭り?」

 秋也がわざわざ行こうと誘うぐらいなのだから、奈江に見せたいものがあるのかもしれない。

 彼はいつも、目的があって誘ってくれてるような気がしている。毎日平凡で、何もない人生を送る奈江を楽しませようとするみたいに。

「宮原神社の縁結び祭りはね、離れる縁に感謝するお祭りだよ」
「離れる縁?」

 興味を持つ奈江に、康代はうなずく。

「これまでのご縁を神様に預けて、新たなご縁をいただく。出会いに感謝するお祭りでもあるんだよ」

 縁を預けて、縁をいただく?

「奈江ちゃんは真紀子と縁があって生まれてきたんだから、一度、宮原の神様にご縁を預けてくるといいよ。また真紀子と縁を持ちたいと思うなら、宮原の神様にお願いしてみるといい。必ずまた、いいご縁があるよ」

 そんなことできるんだろうか。半信半疑だけれど、奈江はどこかすんなり受け入れている。

「あるといいな、いいご縁」
「もしかしたら、お祭りで出会う人と、いいご縁がいただけるかもしれないね」
「そういうお祭りなの?」
「そう。みんな、いいご縁を得るためにお祭りに出かけるんだよ」

 縁を求める人々の集まり。そこからまた新しい縁が生まれる。秋也も、新しい縁を求めているのだろうか。

「おばさんは行かないの?」
「私はもう、たくさんいいご縁をいただいたから」

 離さなければならない縁は、彼女にはないのだろう。

「私もそうやって言えるようになりたいな」

 康代は優しくほほえむと、何か思い出したように軽く手を合わせる。

「そうだ、奈江ちゃん。帰りに吉沢らんぷさんに寄ってくれない?」
「らんぷやさんに?」
「猪川さん、甘いものが好きそうだったから、ランプの修理のお礼を兼ねて、デパートで栗きんとん買ってきたの。お届けしてもらえない?」

 そう言うと、奈江の返事を待たず、康代はいそいそと台所へ入っていった。