奈江はダンボールに梱包したランプを紙袋に入れると、早速、康代の家を出た。

 吉沢らんぷは駅前商店街を西へ一本入った角にある。大野の街に詳しくない奈江だが、らんぷやの場所はよく知っていた。それは、奈江の初恋の人が吉沢らんぷの息子だからだ。

 初恋の彼に出会ったのは、奈江が高校一年生のとき。骨折した康代の代わりにマメの散歩に出かけ、彼……吉沢遥希(はるき)に出会った。

 当時、2歳年上の遥希は高校三年生だった。彼もまた、柴犬を飼っていた。まだ一歳になるかならないかの元気いっぱいな男の子で、名前はシェード。名付けの親は、彼の母親だと言っていた。

 名前の由来を尋ねたら、『ランプの傘』と、彼は苦々しく答えた。彼の実家はビンテージのランプを扱うお店を経営しているから、その名をつけたらしい。彼はその安易さにあきれているようだった。

 しかし、とにもかくにもシェードは愛嬌があってかわいらしく、どちらかというとおとなしいマメを気に入ってか、散歩する姿を見つけるとすぐに駆け寄ってくるのだった。だから自然と、奈江も遥希と仲良くなった。

 康代の足が治るまでのひと月、奈江は好んでマメの散歩に出かけた。ルートは決まっていた。康代の家の東側には、春になると桜が美しく咲き乱れる大野川がある。その川沿いを北に向かって歩き、宮原(みやはら)神社にたどり着くと引き返してくるのだ。

 宮原神社から駅前商店街は近い。ちょうど神社と康代の家の間ぐらいの距離にある彼岸橋で、奈江は遥希と合流する。最初の頃は、「また会ったね」と偶然を喜んで笑顔を見せてくれた彼も、次第に時間を合わせてくれるようになった。

 それはマメを気に入るシェードのためだったかもしれないが、当時の奈江は、穏やかな空気をまとうような優しい雰囲気の遥希に淡い恋心があり、彼にもまた自分に対してそんな風な気持ちがあるんじゃないかなんて、今思えば、大それたことを期待していた。

 しかし、奈江は内向的で、彼の名前と駅前商店街の近くにある吉沢らんぷの息子という情報以外、彼のことを知ろうとはしなかった。両想いだとうれしいなという期待はしていても、恋人同士になりたいとかいう現実的な未来の期待はしていなかったのだ。

 夏休みが終わると、奈江は実家に戻り、遥希に会うことはなくなった。翌年の夏も、遊びにおいでと誘ってくれる康代に甘え、大野の家に何度か泊まったが、彼に会うことはなかった。きっと、大学生になったか就職したかの彼は大野を離れたのだろう。

 それから数年後、就職祝いをくれると言う康代の家を訪ねると、奈江はテーブルの上に置かれた思いがけないものを見つけた。それは、遥希の結婚式の招待状だった。

 康代は吉沢らんぷでビンテージランプを購入して以来、遥希の母親と仲良くしており、招待されたようだ。遥希の結婚相手は高校の同級生で、彼らは高校時代から交際していたらしい。奈江が彼と出会ったときには、彼には恋人がいたのだ。彼がもしかしたら自分に恋心を抱いているんじゃないかという幻想は、盛大な勘違いで恥ずかしかったのを覚えている。

 結婚式に出るの? と聞いたら、康代はあいまいな困り顔を見せた。あまり行きたくないのかもしれない。康代も奈江と同じく、人付き合いが得意な方ではない。ああいう華やかな場所は気疲れするよね、と言ったら、そうそう、と康代はうなずいた。それきり、遥希の話を康代としたことはない。失恋したことも、どこか他人事のように受け入れていた。

 大野川にかかる彼岸橋を渡り、商店街に向かう途中に、吉沢らんぷはあった。外観は10年前と変わらない。しかし、どこかひっそりしているように感じられる。

 店の扉を眺めていた奈江は、しばらくしてそれに気づいた。店内が思うより暗い。以前は、出窓から黄昏色の光が柔らかく外に漏れていたのを覚えている。

 カーテンのかかる出窓に近づくと、手書きの張り紙があるのに気づく。

『修理のみ承ります 吉沢らんぷ』

 来客を歓迎していないような、愛嬌のない手書きの文字だ。素っ気ない店主なのだろうか。

 どうしよう。一度、帰ろうか。奈江はすぐに尻込みしてしまう性格だが、伯母の頼みを途中で放り出すわけにはいかないと思う正義心も持ち合わせていて、勇気を出すと、木製扉を押した。

「こんにちはー」

 蚊の鳴くような声をかけながら、店内へ足を踏み込んだ奈江は、ちょっと拍子抜けした。店内に人の姿はなかった。

 吉沢らんぷに入るのは初めてで、辺りをゆっくりと見回す。壁際にはいくつものランプが置かれた棚、中央にはランプの修理をするためと思われる作業台が二つある。片方の作業台の上には、今まさに作業中と言わないばかりの、解体されたランプが置かれていて、少しばかり安心する。ちゃんと営業しているようだ。

 すぐに誰か戻ってくるだろう。そう思って、作業台の前に立っていると、店の奥にかかる生成りのカーテンが揺れ、茶色い髪の青年がひょいと姿を見せた。