後輩と帰りの電車が一緒になると、早坂(はやさか)奈江(なえ)は彼を避けるように次の電車が来るまでの時間をホームでやり過ごすようにしていた。

 後輩は入社2年目の営業部の男の子。決して嫌いなわけではないのだが、彼の性格がほんの少し苦手だった。初対面の相手でも物怖じしない、人なつこい彼の明るさが奈江にはうるさすぎるからだ。

 何も無神経に大きな声で話しかけてくるわけではないのだが、お昼にちょっと休憩室で顔を合わせる程度の関係なのに、よく通る清々しい声で気安く話しかけられると、周囲の視線が気になって仕方なかった。部署も違うのにどういう関係? と思われているような気がするからだ。

 疲れて帰宅する電車の中では、なおさらだ。彼は集まる視線をまったく気にしないタイプだが、奈江は違う。もちろん、それは彼が悪いわけじゃない。ただちょっと、陽気な彼を受け入れる度量が自分にないだけだ。だから今日も、奈江は駅で彼の背中を見つけると、気づかれないようにそっと階段をまわり込み、柱のかげに身をひそめたのだ。

 奈江の利用する横前(よこまえ)駅は都心部の主要な駅で、次の電車といっても10分と待たずに来る。

 普通電車を見送り、次にやってくる快速電車を待つために先頭に立つと、後方はすぐに長蛇の列になる。周囲の喧騒が気になって、イヤホンをつけると、お気に入りの音楽を聴きながら、線路をぼんやりと眺めた。

 イヤホンから流れるのは、男性ボーカリストのバラード曲。歌詞に散りばめられた言葉の数々が、疲れ切った奈江を勇気づける。

 生きていていいんだよ。彼の声を聞くと、どこからか、そんな優しい声が聞こえてくる気がする。

 しかし、すぐに思考が音楽を遠ざける。蒸し暑い夏の夜に、何をやっているのだろう。誰とでも分け隔てなく話す後輩に付き合って、仕事のグチにあいづちを打ったり、評判のいい彼に、頑張ってるよね、とねぎらいの声をかけてあげるだけでいいのに、こそこそと逃げるようにして、暑いホームで過ごすなんて、自分でもあきれてしまう。

 こんなめんどくさい性格に付き合って、もう二十七年になる。短期大学を卒業後、運良く不動産会社に就職できた頃は、性格を変えようと同期との交流に積極的に参加していたが、いつの頃からか疲れ果てて無理がきかなくなり、同期が異動や退社でいなくなった今では、とっつきにくい事務の人という立場を固守するようになってしまった。

 ミスが許されない仕事に神経をすり減らし、今日も無事に終わった、と息をつく毎日。音楽を聴いたり小説を読んだりと、趣味がないわけではないけれど、恋人がいるわけじゃないし、親友と呼べる友人も思い浮かばない。生きる目標になるような楽しみは何一つ持っていない。

 今すぐこの世を去っても、何も後悔はないんじゃないか。そんな生き方しかしてこれなかった。

 なんてもったいない生き方だろうか。だけれど、この性格はなかなか変えられない。生まれ変わってまで、人生をやり直したいとは思わないけれど、もし生まれ変われるなら、もっと明るい性格でやり直せたら違う人生が送れるかもしれないとは思う。

 こめかみから流れる汗に気づいて、ハンカチでぬぐう。その拍子に、右耳のイヤホンがスルッと外れた。大丈夫。落とすかもしれないとの心配が負担になるから、ワイヤレスイヤホンは使っていない。

 イヤホンをつけ直しながら、電車がやってくる方向に目を移す。程なくして現れた先頭車両を見つめていると、風に巻かれるように体が前後に揺れた。

 吸い込まれそうだ。右足が一歩、前に出る。このまま吸い込まれてもいいのかもしれない。どうしてか、そんな風に考えてしまったとき、電車と奈江の間に誰かの腕が伸びてきた。

「気分、悪いの?」

 電車の音でよく聞こえなかったが、そう言われた気がした。現実に引き戻されるようにハッとする。黄色い線から足が出ているのに気づく。腕を差し出されなければ、きっとホームから落ちていた。

 目をあげると、心配そうにこちらを見下ろしている若い男の人と目が合った。長身で茶髪。サーファーだろうか、と思うぐらいには、洗いざらしのティーシャツがしっくりと似合うスポーツマンタイプの男の人だ。

「顔色悪いけど、乗るの?」

 開いたドアを指差す彼に返事をする前に、流れを乱してはいけないと、後ろから押されるようにして奈江の体は前に進んだ。

 男の人は一歩身を引いた。先頭に並んでいたのは、奈江だ。彼はたまたま近くを通りがかって、フラフラする自分の前にとっさに出てくれたのだろう。そう気づいたときには、距離が空きすぎていた。

 命の恩人に大声でお礼を言う勇気もなく、奈江はかろうじてガラス越しに見える彼に頭を下げた。心配そうにこちらを見ている彼は、電車には乗らないようだ。彼をホームに残したまま、電車は発車した。