「ケイト? ……ケイト?」
聞き覚えのある声がわたしを呼んでいる。
「ケイト? 起きて」
この声は、マギーおばさんの声?
目を覚ますと知らない部屋だった。お母さんもいない。ここはどこ……? 起きたばかりの頭を持ち上げて周りを見渡すと、沢山のドクターが廊下を行き来している。
「ケイト?」
目の前で心配そうに見つめるマギーおばさんと、そして看護師のレイチェル、さらにもう一人見覚えのない女の人がわたしを取り囲んでいた。
「あぁ! ケイト? 良かったわ。あなたまで目を覚まさなかったら私、一体どうすれば良いか……」
マギーおばさんは青白い顔をして、少し潤んだ目でわたしの両頬をさする。その右足には大きなギプスが巻かれ、両手には細かな擦り傷、そして頭には包帯が巻かれた状態で車椅子に乗っていた。
「おばさん⁉ 無事だったのね⁉ 良かった! その怪我はどうしたの⁉ 大丈夫なの?」
ようやく家族を見つけることができた嬉しさと、おばさんの痛々しい姿に驚いて、息をするのも忘れて質問を浴びせかける。
「落ち着いて、ケイト。私なら大丈夫よ。ここは病院の外科病棟で、レイチェルに頼んであなたをここへ連れて来てもらったの」
「どういうこと? ねぇお母さんは⁉」
目を丸くするわたしにレイチェルが説明してくれた。
「イタリアンマーケットで事故があったのよ。彼女たちは揃ってこの病院に運び込まれて、重篤な状態だったあなたのお母さんはすぐに処置を受けてICUに送られたわ」
マギーおばさんは骨折の整復や傷の処置でたらい回しにされていたらしい。その間もずっとわたしのことを心配し、電話をかけて連絡を取ってくれるよう頻りにお願いしていた。でも覚えているのはアパートの番号だけ。入れ替わりやってくる看護師に頼んで何度もかけてもらっても、既にわたしはアパートを出た後でチク・タクしか留守番はいない。もちろん電話は一向に繋がらないままだった。
「お願い! 彼女の母親と一緒に、私はこの病院に運ばれたから、きっと彼女は凄く不安に思ってるはずよ! 早く彼女に電話して病院に来るように伝えて! 彼女の名前はケイト・クーパーよ! 急いで‼」
涙ながらに訴えていると、丁度傷の処置で訪れたレイチェルがようやくその名前に聞き覚えがあるのに気づいた。
「あなた、ケイトの親族の方? ケイトなら病院に来てるわ! 今、ICUで母親の側にいるのよ」
そういった事情でわたしは今ここにいるらしい。レイチェルの話から状況は理解できたけど、もう一つ、目の前にいる見知らぬ女性のことをわたしは理解できていない。
――この人は誰?
視線を察知したのか、その人が自己紹介を始めた。
「初めまして、ケイト。私は児童家庭局(ACF)のレイナーよ」
レイナーと名乗った小柄な女性は短めの髪に分厚い眼鏡、いかにもお役所で働いていますという感じの暗い色のスーツがなぜかまったく似合っていない。自信に満ちた快活な表情をしている。
――なんで児童家庭局なんか?
わたしがレイチェルを伺い見ると、彼女が言った。
「あなたにいくつか訊きたいことがあるんだって、わかる範囲で良いから質問に答えてあげて」
レイチェルがそう話す傍らで、なぜかマギーおばさんがわたしの手をきつく握っている。
「まずあなたに訊ねたいのは、お母さんの他に誰か身内の人が近くにいるかってことなの」
レイナーさんは、何やら手元のバインダーに挟まれた書類とわたしを見比べながら質問した。まるで美術学生がモデルとスケッチブックを交互に見比べるように。
「マギーおばさんがそうよ。彼女はわたしの親戚なの」
わたしの手を握るおばさんの力が少し強くなる。その真意はわからなかったけど、家族であるわたしを支えてくれてるようでとても心地好かった。
「実はね、ケイト。マギーさんにも話を聞いて調べてみたんだけど、あなたたちとマギーさんは、実際には親戚ではないのよ……」
「そんなこと言われなくたって知ってるわ。でもマギーおばさんは、血の繋がりなんてなくても家族に変わりないんだから」
はっきりそう言い返すと、レイナーさんは肯いて話を続けた。
「そうね。でも気を悪くしないでちょうだい。マギーさん以外に、血の繋がった親族はいるかしら? あなたのお母さんはしばらく病院で治療を受けなくてはならないし、マギーさんについても二、三日は入院が必要なのよ……」
「どういうこと? なにが言いたいの?」
「つまりね、マギーさんが退院するまでの間、あなたの面倒を見てくれる人はいるかしら? ってことなのよ」
――面倒を見る人? それってどういうこと……。
「ケイト。実はね、私の手元にはあなたたちがこの街に越して来てからの資料しかなくて、それ以前の情報が何もないのよ……。それで申し訳ないと思ったけれど、あなたのお母さんの持ち物を調べさせてもらったら、手帳からこの写真が見つかったの」
レイナーさんはそう言うと、黙ったままのわたしに手帳と古ぼけた一枚の写真を手渡した。「これに見覚えはあるかしら」
そこに映る景色に見覚えはなかった。辺り一面に広がるとうもろこし畑と、そのずっと奥に小さな水車小屋が見える――。写真中央には、赤ん坊を抱いた十代くらいの女の子と、その子の母親らしき人が並んで立っている。
「これ! ひょっとして……?」
「ええ、多分あなたたち親子だと思うわ」
レイナーさんが肯く。
わたしは写真の中の女の子に指を添わした。これがお母さん? そして抱かれている赤ん坊がわたし? さらにおばあちゃんまで……。一度も見たことのない写真に驚きで言葉が出てこない。
「何か思い出さない? お父さんのこととか、街のこととか」
「何か……」
お父さんのことで覚えてることがあるとしたら、声が大きかったってことくらい。特に何かをしてもらった記憶もないし、一緒に何かした記憶もない。ぼんやり覚えているのはお父さんはあまり家にいなくて、帰ってくると大きな声をあげて眠りを妨害されたことくらいだ。
「あまり……ただ、お父さんは、わたしが赤ん坊の頃に死んでしまったって聞いたし、おばあちゃんのことはお母さんもあまり話したがらなかったから……」
首を振りながらそう答えると、レイナーさんは相変わらずわたしと資料を交互に睨みつけながら、まるで、わたしが期待ハズレな返答をしたみたいに「そう……」と大きな溜め息をついた。
「それともう一つ、あなたの頬にある火傷の痕のことなんだけど、それは誰にやられたのか知ってる?」
黙ったまま俯くわたしにレイナーさんは質問を続ける。
彼女は一体何が知りたいんだろう? なんて書いてあるかもわからない紙キレと、わたしっていう生身の人間を並べて。大切そうに胸に持つインチキな資料を肯定するために、証言台に立たされてるようでとても不愉快だ。
「これは、まだわたしが小さかった頃に、自分でアイロンを触ってやった怪我です」
「誰にそう聞いたの? お母さん?」
質問ってよりは、何かもっと嫌みで含みのある訊き方。尋問されている気分だった。お母さんやマギーおばさんからわたしを引き離そうと誘導しているようでとても腹が立った。
「だったら何⁉ そんなこと、今は関係ないじゃない!」
「興奮しないで、ケイト。私たちはただ、あなたの助けになりたいだけよ」
レイナーさんの憐れむような言い方が気に入らない。
「興奮しないで? 助けになりたい?」 わたしは抑えきれずに大声を上げる。「わたしには、お母さんもマギーおばさんもいるから、あんたの助けなんて要らないわよ! あんたが見比べてるその書類に一体どんなことが書かれてるのか知らないけど、わたしたち家族を引き離すことなんて絶対にさせやしないから‼」
隣からマギーおばさんの啜り泣きが聞こえ始めた。レイナーさんが非難するような視線でわたしを見つめる。まるで、さもわたしがおばさんを虐めているとでもいうみたいに。
「レイナー。ちょっと良い?」レイチェルが気を利かせて、わたしたちからレイナーさんを遠ざける。二人が離れていくと、マギーおばさんは頻りに、「ごめんなさい」と震えた声で謝り始めた。
「どうしたの? おばさんが謝ることなんてないわよ! 悪いのは、あんな意地の悪い質問ばかりする、あの女なんだから!」
わたしは震えるおばさんを抱きしめた。それでもおばさんは、相変わらず「ごめんなさい」と繰り返すだけだった。
「大丈夫よ! お母さんだってすぐに良くなって、また前みたいに皆で暮らせるようになるわ!」
お母さんのことは不安で堪らなかったけど、それでもおばさんに元気になってもらいたくて、わたしはそう言った。
「違うのよケイト! 私が悪いのよ! 私がマーケットでイタリア風チーズステーキを食べようなんてジェシカを誘わなければ、こんな事故に巻き込まれずに済んだのよ……」
その告白が頭を真っ白にした。そして同時に、今この瞬間までおばさんを守ろうとしていたわたしの気持ちも一変していく。
「どういうこと? チーズステーキはいつもジェノで食べるんでしょ?」
魂が抜け落ちたような声で、わたしは訊いた。
おばさんは首を振りながら、大粒の涙を流して答える。
「違うの。たまには変わった物が食べたくなって、露店に出ていたイタリア風のチーズステーキを食べようって彼女を誘ったの……そしたら突然露店のプロパンガスが爆発して! ……それで……ジェシカは私を庇って! ……」
信じられない言葉だった。
じゃあお母さんがあんな風になってしまったのは、マギーおばさんがお母さんを違う店に誘ったからなんだ! いつものようにマーケットで買い物をして、いつものようにジェノでチーズステーキを食べてたらこんなことにはなっていなかったんだ!
マギーおばさんのせいで、お母さんは……!
今までの不安がすべておばさんへの怒りへと変わっていく。
わたしはおばさんを突き飛ばすと、大声で言った。
「なんでよ! なんでお母さんをそんな場所に誘ったのよ! おばさんがいつも通りに買い物してくれてたら、お母さんはこんな目に遭わなくて済んだのに‼」
おばさんはガタガタと震えながら、「ごめんなさい」と繰り返す。
「おばさんがいくら謝ってもお母さんは治らないのよ‼ お母さんを返してよ‼」
わたしの怒鳴り声に辺りは騒然となり、レイナーさんを引き離していたレイチェルが騒ぎを聞きつけて飛んでくるのが見えると、わたしは車椅子から立ち上がって、その場から逃げ出していた。
どうにもならない状況や、お母さんが眠ったまま目を覚まさない現実が受け入れられずに、まるで悪夢を見て得体の知れない何かから逃げるように、もがきながらその場を逃げ出したんだ。
もしその得体の知れない何かに捕まってしまったら、この最低最悪な現実を受け入れなくちゃならない気がして、逃げるしかないって思えて仕方がなかった。どうしたって必ず捕まってしまうことを、本能で知っていたとしても。
そしてわたしはまた、お母さんがいるICUに逃げ込んでいた。
「お母さん! お願い! 目を覚まして!」
泣きながらお母さんの手を握っても、相変わらずお母さんは呼びかけには応えてくれない。
「お母さん…………」
そのとき、同じ大部屋から誰かの気配があって、そこから啜り泣く声が聞こえてくるのにわたしは気づいた。 声の方に目をやると、カーテンで区切られたそのベッドからは光が漏れ、そこから数人の人影が見えている。
そして、その人影から少し離れた柱の陰には、見覚えのある人物が、その人影を見守るように静かに立っているのが見えた。
暗がりで、顔なんて確認できるはずもないのに、彼の顔だけはどんなに距離が離れていてもなぜかわかってしまう。そう、彼は今日公園で話したジムだった。わたしは彼に近づいていき、そして横から静かに声をかけた。
「ジム? どうしたの? あなたの身内の人もこの病院にいたの?」
声を掛けると、彼は本当に驚いたような表情でわたしを見た。
そして同時にカーテンの内側からも、年老いたおじいさんと白衣を来た先生らしき人、そして女性の看護師が揃ってこちらを振り返り変な顔をすると再びベッドへと視線を戻した。ベッドの上には、お母さんと同じように機械に繋がれたおばあさんが横たわっている。
「ケイト、こっちへ……」
ジムはそういうと、彼等から離れた位置へとわたしを誘った。
「どうした? ケイト? なぜ君がこんな場所にいるんだ?」
ジムが不思議そうな顔をして訊ねる。わたしは再びお母さんのことを思い出して泣いた。
「わたしのお母さんも事故に遭って、眠ったまま目を覚まさないの……あなたのお母さんもそうなの?」
「君の母親⁉ どの人だ?」
自分の母親のことよりも気になるのか、ジムは慌てたように、お母さんを見せてくれと言い出した。ジムをベッドまで案内すると、なぜか彼はお母さんではなく、辺りを見渡してわたしに話す。
「ケイト。君の母親なら大丈夫だ」って。
なぜ彼がそう断言したのかわからなかったけど、その瞬間、「ピー」という機械音のアラームが響いた。
「この音は? どうしたの?」
「時間だ。私は仕事に戻らねばならない、仕事を終えたらまた戻ってくるから、その時に話そう」
そう言うとジムは歩き出し、光の漏れるカーテンの方へと向かった。カーテンの向こう側からは啜り泣く声が微かに聞こえてくる。
しばらくして機械音が止められると、この大部屋には再び、無機質な機械音とおじいさんの啜り泣く声だけが響いていた。
聞き覚えのある声がわたしを呼んでいる。
「ケイト? 起きて」
この声は、マギーおばさんの声?
目を覚ますと知らない部屋だった。お母さんもいない。ここはどこ……? 起きたばかりの頭を持ち上げて周りを見渡すと、沢山のドクターが廊下を行き来している。
「ケイト?」
目の前で心配そうに見つめるマギーおばさんと、そして看護師のレイチェル、さらにもう一人見覚えのない女の人がわたしを取り囲んでいた。
「あぁ! ケイト? 良かったわ。あなたまで目を覚まさなかったら私、一体どうすれば良いか……」
マギーおばさんは青白い顔をして、少し潤んだ目でわたしの両頬をさする。その右足には大きなギプスが巻かれ、両手には細かな擦り傷、そして頭には包帯が巻かれた状態で車椅子に乗っていた。
「おばさん⁉ 無事だったのね⁉ 良かった! その怪我はどうしたの⁉ 大丈夫なの?」
ようやく家族を見つけることができた嬉しさと、おばさんの痛々しい姿に驚いて、息をするのも忘れて質問を浴びせかける。
「落ち着いて、ケイト。私なら大丈夫よ。ここは病院の外科病棟で、レイチェルに頼んであなたをここへ連れて来てもらったの」
「どういうこと? ねぇお母さんは⁉」
目を丸くするわたしにレイチェルが説明してくれた。
「イタリアンマーケットで事故があったのよ。彼女たちは揃ってこの病院に運び込まれて、重篤な状態だったあなたのお母さんはすぐに処置を受けてICUに送られたわ」
マギーおばさんは骨折の整復や傷の処置でたらい回しにされていたらしい。その間もずっとわたしのことを心配し、電話をかけて連絡を取ってくれるよう頻りにお願いしていた。でも覚えているのはアパートの番号だけ。入れ替わりやってくる看護師に頼んで何度もかけてもらっても、既にわたしはアパートを出た後でチク・タクしか留守番はいない。もちろん電話は一向に繋がらないままだった。
「お願い! 彼女の母親と一緒に、私はこの病院に運ばれたから、きっと彼女は凄く不安に思ってるはずよ! 早く彼女に電話して病院に来るように伝えて! 彼女の名前はケイト・クーパーよ! 急いで‼」
涙ながらに訴えていると、丁度傷の処置で訪れたレイチェルがようやくその名前に聞き覚えがあるのに気づいた。
「あなた、ケイトの親族の方? ケイトなら病院に来てるわ! 今、ICUで母親の側にいるのよ」
そういった事情でわたしは今ここにいるらしい。レイチェルの話から状況は理解できたけど、もう一つ、目の前にいる見知らぬ女性のことをわたしは理解できていない。
――この人は誰?
視線を察知したのか、その人が自己紹介を始めた。
「初めまして、ケイト。私は児童家庭局(ACF)のレイナーよ」
レイナーと名乗った小柄な女性は短めの髪に分厚い眼鏡、いかにもお役所で働いていますという感じの暗い色のスーツがなぜかまったく似合っていない。自信に満ちた快活な表情をしている。
――なんで児童家庭局なんか?
わたしがレイチェルを伺い見ると、彼女が言った。
「あなたにいくつか訊きたいことがあるんだって、わかる範囲で良いから質問に答えてあげて」
レイチェルがそう話す傍らで、なぜかマギーおばさんがわたしの手をきつく握っている。
「まずあなたに訊ねたいのは、お母さんの他に誰か身内の人が近くにいるかってことなの」
レイナーさんは、何やら手元のバインダーに挟まれた書類とわたしを見比べながら質問した。まるで美術学生がモデルとスケッチブックを交互に見比べるように。
「マギーおばさんがそうよ。彼女はわたしの親戚なの」
わたしの手を握るおばさんの力が少し強くなる。その真意はわからなかったけど、家族であるわたしを支えてくれてるようでとても心地好かった。
「実はね、ケイト。マギーさんにも話を聞いて調べてみたんだけど、あなたたちとマギーさんは、実際には親戚ではないのよ……」
「そんなこと言われなくたって知ってるわ。でもマギーおばさんは、血の繋がりなんてなくても家族に変わりないんだから」
はっきりそう言い返すと、レイナーさんは肯いて話を続けた。
「そうね。でも気を悪くしないでちょうだい。マギーさん以外に、血の繋がった親族はいるかしら? あなたのお母さんはしばらく病院で治療を受けなくてはならないし、マギーさんについても二、三日は入院が必要なのよ……」
「どういうこと? なにが言いたいの?」
「つまりね、マギーさんが退院するまでの間、あなたの面倒を見てくれる人はいるかしら? ってことなのよ」
――面倒を見る人? それってどういうこと……。
「ケイト。実はね、私の手元にはあなたたちがこの街に越して来てからの資料しかなくて、それ以前の情報が何もないのよ……。それで申し訳ないと思ったけれど、あなたのお母さんの持ち物を調べさせてもらったら、手帳からこの写真が見つかったの」
レイナーさんはそう言うと、黙ったままのわたしに手帳と古ぼけた一枚の写真を手渡した。「これに見覚えはあるかしら」
そこに映る景色に見覚えはなかった。辺り一面に広がるとうもろこし畑と、そのずっと奥に小さな水車小屋が見える――。写真中央には、赤ん坊を抱いた十代くらいの女の子と、その子の母親らしき人が並んで立っている。
「これ! ひょっとして……?」
「ええ、多分あなたたち親子だと思うわ」
レイナーさんが肯く。
わたしは写真の中の女の子に指を添わした。これがお母さん? そして抱かれている赤ん坊がわたし? さらにおばあちゃんまで……。一度も見たことのない写真に驚きで言葉が出てこない。
「何か思い出さない? お父さんのこととか、街のこととか」
「何か……」
お父さんのことで覚えてることがあるとしたら、声が大きかったってことくらい。特に何かをしてもらった記憶もないし、一緒に何かした記憶もない。ぼんやり覚えているのはお父さんはあまり家にいなくて、帰ってくると大きな声をあげて眠りを妨害されたことくらいだ。
「あまり……ただ、お父さんは、わたしが赤ん坊の頃に死んでしまったって聞いたし、おばあちゃんのことはお母さんもあまり話したがらなかったから……」
首を振りながらそう答えると、レイナーさんは相変わらずわたしと資料を交互に睨みつけながら、まるで、わたしが期待ハズレな返答をしたみたいに「そう……」と大きな溜め息をついた。
「それともう一つ、あなたの頬にある火傷の痕のことなんだけど、それは誰にやられたのか知ってる?」
黙ったまま俯くわたしにレイナーさんは質問を続ける。
彼女は一体何が知りたいんだろう? なんて書いてあるかもわからない紙キレと、わたしっていう生身の人間を並べて。大切そうに胸に持つインチキな資料を肯定するために、証言台に立たされてるようでとても不愉快だ。
「これは、まだわたしが小さかった頃に、自分でアイロンを触ってやった怪我です」
「誰にそう聞いたの? お母さん?」
質問ってよりは、何かもっと嫌みで含みのある訊き方。尋問されている気分だった。お母さんやマギーおばさんからわたしを引き離そうと誘導しているようでとても腹が立った。
「だったら何⁉ そんなこと、今は関係ないじゃない!」
「興奮しないで、ケイト。私たちはただ、あなたの助けになりたいだけよ」
レイナーさんの憐れむような言い方が気に入らない。
「興奮しないで? 助けになりたい?」 わたしは抑えきれずに大声を上げる。「わたしには、お母さんもマギーおばさんもいるから、あんたの助けなんて要らないわよ! あんたが見比べてるその書類に一体どんなことが書かれてるのか知らないけど、わたしたち家族を引き離すことなんて絶対にさせやしないから‼」
隣からマギーおばさんの啜り泣きが聞こえ始めた。レイナーさんが非難するような視線でわたしを見つめる。まるで、さもわたしがおばさんを虐めているとでもいうみたいに。
「レイナー。ちょっと良い?」レイチェルが気を利かせて、わたしたちからレイナーさんを遠ざける。二人が離れていくと、マギーおばさんは頻りに、「ごめんなさい」と震えた声で謝り始めた。
「どうしたの? おばさんが謝ることなんてないわよ! 悪いのは、あんな意地の悪い質問ばかりする、あの女なんだから!」
わたしは震えるおばさんを抱きしめた。それでもおばさんは、相変わらず「ごめんなさい」と繰り返すだけだった。
「大丈夫よ! お母さんだってすぐに良くなって、また前みたいに皆で暮らせるようになるわ!」
お母さんのことは不安で堪らなかったけど、それでもおばさんに元気になってもらいたくて、わたしはそう言った。
「違うのよケイト! 私が悪いのよ! 私がマーケットでイタリア風チーズステーキを食べようなんてジェシカを誘わなければ、こんな事故に巻き込まれずに済んだのよ……」
その告白が頭を真っ白にした。そして同時に、今この瞬間までおばさんを守ろうとしていたわたしの気持ちも一変していく。
「どういうこと? チーズステーキはいつもジェノで食べるんでしょ?」
魂が抜け落ちたような声で、わたしは訊いた。
おばさんは首を振りながら、大粒の涙を流して答える。
「違うの。たまには変わった物が食べたくなって、露店に出ていたイタリア風のチーズステーキを食べようって彼女を誘ったの……そしたら突然露店のプロパンガスが爆発して! ……それで……ジェシカは私を庇って! ……」
信じられない言葉だった。
じゃあお母さんがあんな風になってしまったのは、マギーおばさんがお母さんを違う店に誘ったからなんだ! いつものようにマーケットで買い物をして、いつものようにジェノでチーズステーキを食べてたらこんなことにはなっていなかったんだ!
マギーおばさんのせいで、お母さんは……!
今までの不安がすべておばさんへの怒りへと変わっていく。
わたしはおばさんを突き飛ばすと、大声で言った。
「なんでよ! なんでお母さんをそんな場所に誘ったのよ! おばさんがいつも通りに買い物してくれてたら、お母さんはこんな目に遭わなくて済んだのに‼」
おばさんはガタガタと震えながら、「ごめんなさい」と繰り返す。
「おばさんがいくら謝ってもお母さんは治らないのよ‼ お母さんを返してよ‼」
わたしの怒鳴り声に辺りは騒然となり、レイナーさんを引き離していたレイチェルが騒ぎを聞きつけて飛んでくるのが見えると、わたしは車椅子から立ち上がって、その場から逃げ出していた。
どうにもならない状況や、お母さんが眠ったまま目を覚まさない現実が受け入れられずに、まるで悪夢を見て得体の知れない何かから逃げるように、もがきながらその場を逃げ出したんだ。
もしその得体の知れない何かに捕まってしまったら、この最低最悪な現実を受け入れなくちゃならない気がして、逃げるしかないって思えて仕方がなかった。どうしたって必ず捕まってしまうことを、本能で知っていたとしても。
そしてわたしはまた、お母さんがいるICUに逃げ込んでいた。
「お母さん! お願い! 目を覚まして!」
泣きながらお母さんの手を握っても、相変わらずお母さんは呼びかけには応えてくれない。
「お母さん…………」
そのとき、同じ大部屋から誰かの気配があって、そこから啜り泣く声が聞こえてくるのにわたしは気づいた。 声の方に目をやると、カーテンで区切られたそのベッドからは光が漏れ、そこから数人の人影が見えている。
そして、その人影から少し離れた柱の陰には、見覚えのある人物が、その人影を見守るように静かに立っているのが見えた。
暗がりで、顔なんて確認できるはずもないのに、彼の顔だけはどんなに距離が離れていてもなぜかわかってしまう。そう、彼は今日公園で話したジムだった。わたしは彼に近づいていき、そして横から静かに声をかけた。
「ジム? どうしたの? あなたの身内の人もこの病院にいたの?」
声を掛けると、彼は本当に驚いたような表情でわたしを見た。
そして同時にカーテンの内側からも、年老いたおじいさんと白衣を来た先生らしき人、そして女性の看護師が揃ってこちらを振り返り変な顔をすると再びベッドへと視線を戻した。ベッドの上には、お母さんと同じように機械に繋がれたおばあさんが横たわっている。
「ケイト、こっちへ……」
ジムはそういうと、彼等から離れた位置へとわたしを誘った。
「どうした? ケイト? なぜ君がこんな場所にいるんだ?」
ジムが不思議そうな顔をして訊ねる。わたしは再びお母さんのことを思い出して泣いた。
「わたしのお母さんも事故に遭って、眠ったまま目を覚まさないの……あなたのお母さんもそうなの?」
「君の母親⁉ どの人だ?」
自分の母親のことよりも気になるのか、ジムは慌てたように、お母さんを見せてくれと言い出した。ジムをベッドまで案内すると、なぜか彼はお母さんではなく、辺りを見渡してわたしに話す。
「ケイト。君の母親なら大丈夫だ」って。
なぜ彼がそう断言したのかわからなかったけど、その瞬間、「ピー」という機械音のアラームが響いた。
「この音は? どうしたの?」
「時間だ。私は仕事に戻らねばならない、仕事を終えたらまた戻ってくるから、その時に話そう」
そう言うとジムは歩き出し、光の漏れるカーテンの方へと向かった。カーテンの向こう側からは啜り泣く声が微かに聞こえてくる。
しばらくして機械音が止められると、この大部屋には再び、無機質な機械音とおじいさんの啜り泣く声だけが響いていた。