お母さんたちが買い物に出掛ける日、わたしとチク・タクはいつもより遅く起きた。目覚まし時計を止めて柔らかいシーツでたっぷり惰眠をむさぼってから下へ降りると、家の中は静まりかえっていて、お母さんはもう出掛けた後だった。
キッチンへ行き、おやつやフードを入れてあるコンテナを開くと、チク・タクが一番好きなビーフジャーキーの袋が空っぽなのに気づいた。
「あれ、ジャーキー切れてる」
期待して頻りにコンテナに鼻を突っ込むチク・タクに「ごめんごめん」と謝ると、代わりのビスケットを一枚あげてから、キッチンで自分用のシリアルにミルク、それからチク・タク用のシリアルを持って、普段は食事を禁止されているテレビのあるリビングに持ち込む。
ソファーの正面には大きな背の低いローテーブルが置かれている。ラタン製のアジアンテイストな落ち着いた深いブラウンのその脚の上に大きな一枚の硝子板が乗せられていて、わたしもお母さんもとても気に入っている。
チク・タクは、リビングに入るとさっそくテーブルの上に前脚を乗せて、早くシリアルを用意しろって顔でアピールした。
「わかってるから足を降ろしてよ。あんたの足跡がテーブルに付いてたら、ここでテレビ見ながら食事をしてたのがお母さんにバレちゃうでしょ⁉」
チク・タクは、言葉がわからないとばかりに首を傾げる。
「もう、わかんない振りなんかして」
わたしがチク・タクの足を床へ降ろそうと手を伸ばすと、テーブルの上に白い小箱が置かれているのに気がついた。綺麗な包装紙で丁寧にラッピングされている。脇に添えられている封筒を手に取って目を通すと、手紙には短い文面で、こう書かれていた。
『知ってるわよ? 私が帰るまでに、私に気づかれないくらい綺麗に掃除をしておくこと』
わたしは、首を傾げたままのチク・タクに向かって言った。
「バレてたわ。きっとあんたのせいね」
小箱の包装紙を解くと、中から出てきたのは今一番のお気に入り、ストロベリークリームサンドビスケットだった。
「フラミンゴ・ジョージィだ!」
洒落たママの手紙にわたしが喜んでいると、なぜかチク・タクまでが興奮して、尻尾を振ってチャカチャカとテーブルの周りを歩き出す。きっと自分も貰えると思ってるんだ。
「これは駄目よ、でもあんたにはシリアルをあげるわ」
お皿にシリアルとたっぷりのミルクを注ぎ、どっかりとソファーに腰を降ろすと、ローテーブルに足を放り出してテレビのスイッチを入れた。
日曜の朝なんて、たいして見たい番組はないけど、部屋の中が静か過ぎるのが嫌だった。テレビをつけると、画面ではニュースキャスターが難しい言葉を早口言葉のように喋っている。一週間に起こった事項をピックアップする番組なのかな? 次々と脈絡のない出来事を小さな息継ぎさえ感じさせないスピードで話し続けていた。
「なんでキャスターってこんな堅苦しい喋り方するんだろ? ここまで冷静に話されると、逆に胡散臭いよね」
スプーンを口に咥えたまま番組を変えようとすると、突然ギャレット社のストロベリークリームサンドの画像が映し出され、フラミンゴ・ジョージィのCMが流れ始めた。なんだろう、番組中に突然? チャンネルを変えようとしていた手を止めて映像を追っていると、カメラがスタジオに切り替わり、神妙な顔つきをしたキャスターが再び画面中央に配置される。
「全米中で爆発的な人気を誇るギャレット社のビスケット、そのキャラクターであるフラミンゴ、ジョージィをデザインしたイラストレーターのオーウェン・カーヴァー氏が、今週フィラデルフィア市内のフェアマウントアベニューとノース20番通りの交差点で接触事故を起こし亡くなりました。遺族による葬儀はすでに執り行われ、追悼式典はギャレット本社屋にて明日正午より開かれます。ご冥福をお祈り申し上げます……」
訃報が簡単に報じられると、キャスターが次のニュースを読み上げ始めた。わたしは唖然として、手の中にあるストロベリークリームサンドのパッケージを見つめる。そこにプリントされたジョージィは今も愛嬌いっぱいに笑っていた。
ジョージィ・ギャレットを描いたイラストレーターがフィラデルフィアに住んでるって噂は聞いたことがあった。もちろん彼の名前なんて興味もなかったし、その人が他にどんなイラストを描いてるかも知らない。
でも、ストロベリークリームサンドは毎日食べても飽きないくらい大好きだし、ほっぺたを押さえるフラミンゴのジョージィも愛くるしくてお気に入りだった。なによりパラダイスで遭遇したあの大きな自動車事故に、そのイラストレーターが関係してたのがショックだったんだ。もちろん会ったこともないし、顔はおろか、名前さえ今のニュースを聞くまで知らなかったけど、凄く身近な人が亡くなった気がして複雑な気分になる。
食器を洗って部屋を掃除しても憂鬱な気分は晴れないまま。するとチク・タクが首輪とリードを咥えて持ってきた。鼻を鳴らし、わたしの足もとに体を撫でつけて甘える。「散歩にでも出れば、気分も晴れるよ」とでも言いたげな顔で。
「そうね、あんたの言う通りかも?」
大きく息を吸い込み、もやもやを吹き飛ばすような気持ちでそれを一気に吐き出すと、わたしはチク・タクに首輪をはめ、気分転換に散歩に付き合うことにした。
†
アパート前の道を挟んだ向かい側には大きな教会があって、その右手には『グリーンストリート・ドッグパーク』という名称のドッグランがある。その音の響きからは、とても立派な施設をイメージするけど、実際には金網で囲っただけのただの空き地だ。
奥には広い駐車場があり、そのさらに奥には『ロベルト・クレモント・パーク』と呼ばれる大きな公園があった。駐車場はこの公園の一部で、もともとこのドッグランはその駐車場の一区画に金網を張って区切られただけの場所だ。
車の輪止めは撤去されてるけど、コンクリートの割れ目からは草は伸び放題だし、水道栓もなければ、腰掛けるベンチもない。それどころか日光を遮る日陰すらない。おまけに夜になると、どこからか野良猫たちが集まってきて集会を開いてる荒れ果てた空き地だ。
そんな場所だから、ここで犬を遊ばせてる人は滅多にいない。
当然よね? だって、野良猫たちは勝手にその場所で集会を開いて、そして用を足して帰っていく。飼い主はいないから、誰も彼等の糞を持って帰る人なんていないんだから。
でもチク・タクにしてみればここは絶好の穴場らしい。他に利用する犬も滅多に来ないから貸し切り状態。コンクリートに爪音をチャカチャカ響かせては、嬉しそうに走り回った。
チク・タクがドッグランを歩き回る頃、暇を持て余したわたしはふと駐車場の奥に見える公園に目をやって息を飲んだ。
ドッグランから駐車場を挟んだ公園の人影なんて、一体誰が誰だか区別もつかないはずなのに、わたしの目ははっきりと捉えていた。パラダイスで見た事故で自動車のすぐ傍に立っていたレインコートの男のことを。
「チク・タク? すぐ戻るからここで待ってて!」
なぜだかわからないけど、とにかくあの人と話をしなくちゃって思った。それはきっと朝に見たニュースのせい。あの男の人はきっとフラミンゴのイラストレーターの友人か何かなんだって……。とにかく慌ててドッグランを出ると、わたしは大急ぎでロベルト・クレモント・パークへと走った。
公園内は子供たちのはしゃぎ声や、付き添いの大人たちの声でいっぱいだった。バスケットコートでは高校生くらいの男の子たちがスリー・オン・スリーに夢中だし、野球場もローティーンの男の子たちで賑わっている。
ドッグランから男が見えた場所へ駆けつけると、レインコートの男はまだ同じ場所に立っていた。遠目から遊具で遊ぶ子供たちの様子を見ている。きっとあのなかに、彼の子供がいるんだ――そう思いながら、わたしは後ろから声を掛けた。
「ハーイ……」
しかし男は呼び声に反応せずに、黙ったまま子供たちを見つめている。わたしは男の正面に回ってもう一度声を掛けた。
「あの……こんにちは……」
遠くから見たのとまったく印象の変わらない黒っぽいレインコートに黒髪、そして瞳の色はブルー。風貌だけ言えば、どこにでもいそうな中年のおじさんといった感じだけど、でもその表情は、とても深い悲しみに包まれているように見えた。
正面に立っているわたしに気づくと、彼はとても驚いた顔をして、辺りを見渡してからもう一度こちらを向き、目を丸くして言った。
「私か?」
「突然話しかけてごめんなさい、あの、わたし……前におじさんのこと、見掛けたんです。大雨の日の車の衝突現場で……」
ぎこちなく肯くわたしの前で、彼は突然何かを思い出したような顔をする。「それで? 私に何か用か?」
何か怒ってるのか? それともただ機嫌が悪いだけなのか? 冷たいトーンで淡々と話す様子が何だか怖く感じられる。
「ごめんなさい、ただ……あのイラストレーターの人の友達かと思って……わたしも彼のイラストが大好きだったから……」
ポケットからストロベリークリームサンドを取り出して見せると、彼は突然おかしなことをつぶやいた。
「その絵描きのことで君が何か知ってることがあるなら、私に教えてくれないか?」
「わたしが?」
今度はわたしが驚いて目を丸くする番だった。
「あぁ。なんでも構わない」
この男こそが事故にあったイラストレーターの友人だと思っていたのにこの口ぶりだと勘違いみたいだ。
「ごめんなさい……あの、わたしも彼のことはあまり知らなくて……名前だって今朝のニュースで知ったくらいだから……」
男がイラストレーターについて情報を知りたがってるのは伝わってきたけど、相変わらずの仏頂面で、無機質な喋り方をするこの男に何だか気味が悪くなって、わたしはその場を立ち去ろうとした。
「それじゃ……」
さよならの挨拶をはぐらかせて、軽く手を挙げその場を離れようとするけど、彼はまだわたしをじっと見つめたまま返事を待っているようだった。
この会話の流れで手を挙げてみせれば、誰だって普通は、「あぁ……そうか、それじゃ」とか、「変なこと訊いて悪かったね」とか言うものよね? そうでなくたって、せめて「ご機嫌よう」くらい。
でも男の反応はそのどれにも当てはまらなかった。ただ黙ったまま、わたしの目をじっと見つめて次の言葉を待っている。
「あの……まだ何か?」
無言のプレッシャーに負けてわたしが口を開くと、彼の仏頂面が少しだけ緩み、微笑んだように見えた。
「実は君に訊ねたいことがあるんだ」男は芝生にいる一組の家族を指差す。「あそこの二人の親が、自分たちの子供に向かって言うんだ。この公園は『坊主の公園』だと。君はなぜこの公園が『坊主の公園』と呼ばれるのか、その訳を知らないか?」
「坊主の公園って?」
言ってることも意味不明なら、聞きたいことも意味不明。でも彼の表情は真剣そのものだった。冗談か何かでからかってるかと思ったのに。
「ひょっとして、おじさんは観光客か何か? 『坊主の公園』なんて名前の公園は知らないわ。この公園はロベルト・クレモント・パークって呼ばれてるよ」
それを聞くと、彼は一瞬だけ難しい顔で考え込んだ後、みるみるその表情を緩ませ、すばらしい笑顔で訳のわからないことを口走った。
「そうか! そう言うことだったのか! それで『坊主の公園』なんだ!」
さっきまでの仏頂面が嘘みたいに無邪気に笑っている。
難しい謎掛けが解けた子供みたいな顔をして、こんな良い歳したおじさんが満面の笑みで喜んでいる。普通なら気味が悪いを通り越して頭でも打ったのかしら? って思うところだけど、不思議とそんなことは思わなかった。
「ありがとう。君のお陰で……なんと言うか……その……」
おじさんは少し冷静さを取り戻したのか、言葉を詰まらせながら胸の辺りを手でさすり始めた。その間抜けな仕草と、その仕草にまるで似合わない崩れかけた仏頂面を見ていると、思わず笑いそうになる。
「ひょっとして、すっきりしたってことなの?」
笑いを堪えながらそう訊くと、おじさんは「それだ」とつぶやいて、小刻みに何度も肯きを繰り返した。
さっきまでひどく気難しそうな顔で、言ってることは外国人みたいに意味不明だったのに、今ではわたしを尊敬するみたいに見つめてくる。そんな様子が可笑しくてなんとなく親近感を覚えたわたしはすっかり警戒心を解き始めていた。
「私の名前はジムだ。良かったら君の名前を教えてくれないか?」
おじさんは落ち着きを取り戻したのか抑揚のない声に戻るとそう訊いた。自己紹介のことなんて忘れていたわたしは慌てて答える。
「あぁごめんなさい、わたしの名前はケイトよ。この辺りのグリーン通り沿いのアパートに、お母さんと弟と住んでるの」
そのとき、わたしはドッグランに残してきたチク・タクのことをすっかり忘れていたことを思い出した。
「いけない! すっかり忘れてたわ! わたし、チク・タクを置いてきたままだった! 迎えに行かないと……」
「チク・タク? それが君の弟の名前か? 随分と変わった名前なんだな」
おじさんが気難しそうな顔で訊ねる。チク・タクのことを人間の弟と勘違いしたらしい。確かにわたしの説明が下手だったかも。
「ごめんなさい! 会えてよかったわ! またね!」
だけどそれを説明するよりも、置いてきた犬の弟のことが気になって、その誤解は解かないままジムと別れて公園を飛び出した。
駐車場を走り抜けて、やがて見えてくるドッグランの金網にしがみつくと金網の外から名前を呼んだ。
「チク・タク! どこ? チク・タク!」
一人で寂しい思いをしてたのか、わたしの声が届いた瞬間、彼が茂みから飛び出してくるのが見えた。「チク・タク! こっちよ!」
普段は目覚まし時計にしか吠えない彼が、大きな声を上げながら走ってくる。
「ごめんね、チク・タク。忘れるつもりはなかったけど、すっかり忘れてたわ!」
言葉が通じてるのかどうかわからないけど、チク・タクは勢いよく駆け寄ると、いつもみたいにチャカチャカ足踏みしながら尻尾を振った。
キッチンへ行き、おやつやフードを入れてあるコンテナを開くと、チク・タクが一番好きなビーフジャーキーの袋が空っぽなのに気づいた。
「あれ、ジャーキー切れてる」
期待して頻りにコンテナに鼻を突っ込むチク・タクに「ごめんごめん」と謝ると、代わりのビスケットを一枚あげてから、キッチンで自分用のシリアルにミルク、それからチク・タク用のシリアルを持って、普段は食事を禁止されているテレビのあるリビングに持ち込む。
ソファーの正面には大きな背の低いローテーブルが置かれている。ラタン製のアジアンテイストな落ち着いた深いブラウンのその脚の上に大きな一枚の硝子板が乗せられていて、わたしもお母さんもとても気に入っている。
チク・タクは、リビングに入るとさっそくテーブルの上に前脚を乗せて、早くシリアルを用意しろって顔でアピールした。
「わかってるから足を降ろしてよ。あんたの足跡がテーブルに付いてたら、ここでテレビ見ながら食事をしてたのがお母さんにバレちゃうでしょ⁉」
チク・タクは、言葉がわからないとばかりに首を傾げる。
「もう、わかんない振りなんかして」
わたしがチク・タクの足を床へ降ろそうと手を伸ばすと、テーブルの上に白い小箱が置かれているのに気がついた。綺麗な包装紙で丁寧にラッピングされている。脇に添えられている封筒を手に取って目を通すと、手紙には短い文面で、こう書かれていた。
『知ってるわよ? 私が帰るまでに、私に気づかれないくらい綺麗に掃除をしておくこと』
わたしは、首を傾げたままのチク・タクに向かって言った。
「バレてたわ。きっとあんたのせいね」
小箱の包装紙を解くと、中から出てきたのは今一番のお気に入り、ストロベリークリームサンドビスケットだった。
「フラミンゴ・ジョージィだ!」
洒落たママの手紙にわたしが喜んでいると、なぜかチク・タクまでが興奮して、尻尾を振ってチャカチャカとテーブルの周りを歩き出す。きっと自分も貰えると思ってるんだ。
「これは駄目よ、でもあんたにはシリアルをあげるわ」
お皿にシリアルとたっぷりのミルクを注ぎ、どっかりとソファーに腰を降ろすと、ローテーブルに足を放り出してテレビのスイッチを入れた。
日曜の朝なんて、たいして見たい番組はないけど、部屋の中が静か過ぎるのが嫌だった。テレビをつけると、画面ではニュースキャスターが難しい言葉を早口言葉のように喋っている。一週間に起こった事項をピックアップする番組なのかな? 次々と脈絡のない出来事を小さな息継ぎさえ感じさせないスピードで話し続けていた。
「なんでキャスターってこんな堅苦しい喋り方するんだろ? ここまで冷静に話されると、逆に胡散臭いよね」
スプーンを口に咥えたまま番組を変えようとすると、突然ギャレット社のストロベリークリームサンドの画像が映し出され、フラミンゴ・ジョージィのCMが流れ始めた。なんだろう、番組中に突然? チャンネルを変えようとしていた手を止めて映像を追っていると、カメラがスタジオに切り替わり、神妙な顔つきをしたキャスターが再び画面中央に配置される。
「全米中で爆発的な人気を誇るギャレット社のビスケット、そのキャラクターであるフラミンゴ、ジョージィをデザインしたイラストレーターのオーウェン・カーヴァー氏が、今週フィラデルフィア市内のフェアマウントアベニューとノース20番通りの交差点で接触事故を起こし亡くなりました。遺族による葬儀はすでに執り行われ、追悼式典はギャレット本社屋にて明日正午より開かれます。ご冥福をお祈り申し上げます……」
訃報が簡単に報じられると、キャスターが次のニュースを読み上げ始めた。わたしは唖然として、手の中にあるストロベリークリームサンドのパッケージを見つめる。そこにプリントされたジョージィは今も愛嬌いっぱいに笑っていた。
ジョージィ・ギャレットを描いたイラストレーターがフィラデルフィアに住んでるって噂は聞いたことがあった。もちろん彼の名前なんて興味もなかったし、その人が他にどんなイラストを描いてるかも知らない。
でも、ストロベリークリームサンドは毎日食べても飽きないくらい大好きだし、ほっぺたを押さえるフラミンゴのジョージィも愛くるしくてお気に入りだった。なによりパラダイスで遭遇したあの大きな自動車事故に、そのイラストレーターが関係してたのがショックだったんだ。もちろん会ったこともないし、顔はおろか、名前さえ今のニュースを聞くまで知らなかったけど、凄く身近な人が亡くなった気がして複雑な気分になる。
食器を洗って部屋を掃除しても憂鬱な気分は晴れないまま。するとチク・タクが首輪とリードを咥えて持ってきた。鼻を鳴らし、わたしの足もとに体を撫でつけて甘える。「散歩にでも出れば、気分も晴れるよ」とでも言いたげな顔で。
「そうね、あんたの言う通りかも?」
大きく息を吸い込み、もやもやを吹き飛ばすような気持ちでそれを一気に吐き出すと、わたしはチク・タクに首輪をはめ、気分転換に散歩に付き合うことにした。
†
アパート前の道を挟んだ向かい側には大きな教会があって、その右手には『グリーンストリート・ドッグパーク』という名称のドッグランがある。その音の響きからは、とても立派な施設をイメージするけど、実際には金網で囲っただけのただの空き地だ。
奥には広い駐車場があり、そのさらに奥には『ロベルト・クレモント・パーク』と呼ばれる大きな公園があった。駐車場はこの公園の一部で、もともとこのドッグランはその駐車場の一区画に金網を張って区切られただけの場所だ。
車の輪止めは撤去されてるけど、コンクリートの割れ目からは草は伸び放題だし、水道栓もなければ、腰掛けるベンチもない。それどころか日光を遮る日陰すらない。おまけに夜になると、どこからか野良猫たちが集まってきて集会を開いてる荒れ果てた空き地だ。
そんな場所だから、ここで犬を遊ばせてる人は滅多にいない。
当然よね? だって、野良猫たちは勝手にその場所で集会を開いて、そして用を足して帰っていく。飼い主はいないから、誰も彼等の糞を持って帰る人なんていないんだから。
でもチク・タクにしてみればここは絶好の穴場らしい。他に利用する犬も滅多に来ないから貸し切り状態。コンクリートに爪音をチャカチャカ響かせては、嬉しそうに走り回った。
チク・タクがドッグランを歩き回る頃、暇を持て余したわたしはふと駐車場の奥に見える公園に目をやって息を飲んだ。
ドッグランから駐車場を挟んだ公園の人影なんて、一体誰が誰だか区別もつかないはずなのに、わたしの目ははっきりと捉えていた。パラダイスで見た事故で自動車のすぐ傍に立っていたレインコートの男のことを。
「チク・タク? すぐ戻るからここで待ってて!」
なぜだかわからないけど、とにかくあの人と話をしなくちゃって思った。それはきっと朝に見たニュースのせい。あの男の人はきっとフラミンゴのイラストレーターの友人か何かなんだって……。とにかく慌ててドッグランを出ると、わたしは大急ぎでロベルト・クレモント・パークへと走った。
公園内は子供たちのはしゃぎ声や、付き添いの大人たちの声でいっぱいだった。バスケットコートでは高校生くらいの男の子たちがスリー・オン・スリーに夢中だし、野球場もローティーンの男の子たちで賑わっている。
ドッグランから男が見えた場所へ駆けつけると、レインコートの男はまだ同じ場所に立っていた。遠目から遊具で遊ぶ子供たちの様子を見ている。きっとあのなかに、彼の子供がいるんだ――そう思いながら、わたしは後ろから声を掛けた。
「ハーイ……」
しかし男は呼び声に反応せずに、黙ったまま子供たちを見つめている。わたしは男の正面に回ってもう一度声を掛けた。
「あの……こんにちは……」
遠くから見たのとまったく印象の変わらない黒っぽいレインコートに黒髪、そして瞳の色はブルー。風貌だけ言えば、どこにでもいそうな中年のおじさんといった感じだけど、でもその表情は、とても深い悲しみに包まれているように見えた。
正面に立っているわたしに気づくと、彼はとても驚いた顔をして、辺りを見渡してからもう一度こちらを向き、目を丸くして言った。
「私か?」
「突然話しかけてごめんなさい、あの、わたし……前におじさんのこと、見掛けたんです。大雨の日の車の衝突現場で……」
ぎこちなく肯くわたしの前で、彼は突然何かを思い出したような顔をする。「それで? 私に何か用か?」
何か怒ってるのか? それともただ機嫌が悪いだけなのか? 冷たいトーンで淡々と話す様子が何だか怖く感じられる。
「ごめんなさい、ただ……あのイラストレーターの人の友達かと思って……わたしも彼のイラストが大好きだったから……」
ポケットからストロベリークリームサンドを取り出して見せると、彼は突然おかしなことをつぶやいた。
「その絵描きのことで君が何か知ってることがあるなら、私に教えてくれないか?」
「わたしが?」
今度はわたしが驚いて目を丸くする番だった。
「あぁ。なんでも構わない」
この男こそが事故にあったイラストレーターの友人だと思っていたのにこの口ぶりだと勘違いみたいだ。
「ごめんなさい……あの、わたしも彼のことはあまり知らなくて……名前だって今朝のニュースで知ったくらいだから……」
男がイラストレーターについて情報を知りたがってるのは伝わってきたけど、相変わらずの仏頂面で、無機質な喋り方をするこの男に何だか気味が悪くなって、わたしはその場を立ち去ろうとした。
「それじゃ……」
さよならの挨拶をはぐらかせて、軽く手を挙げその場を離れようとするけど、彼はまだわたしをじっと見つめたまま返事を待っているようだった。
この会話の流れで手を挙げてみせれば、誰だって普通は、「あぁ……そうか、それじゃ」とか、「変なこと訊いて悪かったね」とか言うものよね? そうでなくたって、せめて「ご機嫌よう」くらい。
でも男の反応はそのどれにも当てはまらなかった。ただ黙ったまま、わたしの目をじっと見つめて次の言葉を待っている。
「あの……まだ何か?」
無言のプレッシャーに負けてわたしが口を開くと、彼の仏頂面が少しだけ緩み、微笑んだように見えた。
「実は君に訊ねたいことがあるんだ」男は芝生にいる一組の家族を指差す。「あそこの二人の親が、自分たちの子供に向かって言うんだ。この公園は『坊主の公園』だと。君はなぜこの公園が『坊主の公園』と呼ばれるのか、その訳を知らないか?」
「坊主の公園って?」
言ってることも意味不明なら、聞きたいことも意味不明。でも彼の表情は真剣そのものだった。冗談か何かでからかってるかと思ったのに。
「ひょっとして、おじさんは観光客か何か? 『坊主の公園』なんて名前の公園は知らないわ。この公園はロベルト・クレモント・パークって呼ばれてるよ」
それを聞くと、彼は一瞬だけ難しい顔で考え込んだ後、みるみるその表情を緩ませ、すばらしい笑顔で訳のわからないことを口走った。
「そうか! そう言うことだったのか! それで『坊主の公園』なんだ!」
さっきまでの仏頂面が嘘みたいに無邪気に笑っている。
難しい謎掛けが解けた子供みたいな顔をして、こんな良い歳したおじさんが満面の笑みで喜んでいる。普通なら気味が悪いを通り越して頭でも打ったのかしら? って思うところだけど、不思議とそんなことは思わなかった。
「ありがとう。君のお陰で……なんと言うか……その……」
おじさんは少し冷静さを取り戻したのか、言葉を詰まらせながら胸の辺りを手でさすり始めた。その間抜けな仕草と、その仕草にまるで似合わない崩れかけた仏頂面を見ていると、思わず笑いそうになる。
「ひょっとして、すっきりしたってことなの?」
笑いを堪えながらそう訊くと、おじさんは「それだ」とつぶやいて、小刻みに何度も肯きを繰り返した。
さっきまでひどく気難しそうな顔で、言ってることは外国人みたいに意味不明だったのに、今ではわたしを尊敬するみたいに見つめてくる。そんな様子が可笑しくてなんとなく親近感を覚えたわたしはすっかり警戒心を解き始めていた。
「私の名前はジムだ。良かったら君の名前を教えてくれないか?」
おじさんは落ち着きを取り戻したのか抑揚のない声に戻るとそう訊いた。自己紹介のことなんて忘れていたわたしは慌てて答える。
「あぁごめんなさい、わたしの名前はケイトよ。この辺りのグリーン通り沿いのアパートに、お母さんと弟と住んでるの」
そのとき、わたしはドッグランに残してきたチク・タクのことをすっかり忘れていたことを思い出した。
「いけない! すっかり忘れてたわ! わたし、チク・タクを置いてきたままだった! 迎えに行かないと……」
「チク・タク? それが君の弟の名前か? 随分と変わった名前なんだな」
おじさんが気難しそうな顔で訊ねる。チク・タクのことを人間の弟と勘違いしたらしい。確かにわたしの説明が下手だったかも。
「ごめんなさい! 会えてよかったわ! またね!」
だけどそれを説明するよりも、置いてきた犬の弟のことが気になって、その誤解は解かないままジムと別れて公園を飛び出した。
駐車場を走り抜けて、やがて見えてくるドッグランの金網にしがみつくと金網の外から名前を呼んだ。
「チク・タク! どこ? チク・タク!」
一人で寂しい思いをしてたのか、わたしの声が届いた瞬間、彼が茂みから飛び出してくるのが見えた。「チク・タク! こっちよ!」
普段は目覚まし時計にしか吠えない彼が、大きな声を上げながら走ってくる。
「ごめんね、チク・タク。忘れるつもりはなかったけど、すっかり忘れてたわ!」
言葉が通じてるのかどうかわからないけど、チク・タクは勢いよく駆け寄ると、いつもみたいにチャカチャカ足踏みしながら尻尾を振った。