それから一週間ほど経った十月の始め頃、その日は朝から肌寒くて、薄曇りの空は今にも雨を降らせそうな気配だった。
「今日はきっと土砂降りよ、傘を持って行きなさい」
手渡された傘を持って、お母さんと一緒にアパートを出る。玄関では、チク・タクが尻尾を大きく揺らし、元気に送り出してくれた。
わたしだって、いつも男の子相手に喧嘩ばかりしてる訳じゃない。たまには女の子らしいことだってする。例えばウィンドウショッピングをしたり、友達同士で流行っている小さなステッカーを交換しあったり、あまり得意じゃないけどボーリングに行ったり。
授業中、窓に当たるパツパツという音に目を向けると、お母さんが今朝話していたように雨が降り出している。そのときわたしの携帯電話がメールを受信した。差出人は真後ろの席にいるジュリアン。本文にはただ一言、「パラダイス」と書かれている。振り返ると、ジュリアンがクスクス笑いながら声を潜めて言った。
「ねぇ! 良いでしょ? 帰りに付き合ってよ」
パラダイスなんて、バーとかクラブみたいな名前だけど、正式には《アイス・パラダイス》といって、アイスクリーム屋さんの名前だ。
ジュリアンはパラダイスが大好きで、よく学校帰りにわたしを誘う。わたしもあそこのアイスクリームは好きだけど、何もこんな雨の降る肌寒い日に食べに行かなくたって良いのにと思いながらも、結局いつだって付き合うことになる。
アイス・パラダイスは、スプリング通りや、アパートのあるグリーン通りよりももっと北。フェアマウントアベニューと呼ばれる大通りと、ノース20番通りの交差点の角にあるアイスクリーム屋にしては割と大きなお店だ。
お店の入口には、ニット帽を被ったペンギンらしき奇妙な造形物が立っていて、両手にアイスクリームを持って舌を出してウインクしている。あれならまだ、絵心のまるっきりないわたしがデザインしたほうが、遥かにペンギンっぽく見えるんじゃないかしら?
それでもあのペンギンは、この辺りに住む人なら誰でも知ってるマスコットキャラクター、パラダイス君だった。
真夏の暑い日には溢れるほど混み合うこのお店も、今日みたいに雨が降っていて、しかも肌寒いなんて日にはガラガラ。お客さんは、わたしたちを含めても数人しかいなかった。
「ハーイ、ご注文は?」
中央カウンターから店員が声を掛けると、ジュリアンはメニューも見ずに、秘密のパスワードを暗唱するみたいにスラスラと答えた。
「アイスクリームフレーバーのダブルで、マンゴーとオレンジ、それにトッピングでカットバナナとキウイにチョコミントチップ。その上からたっぷりのストロベリーソースをかけてちょうだい」
この特殊な注文は、彼女曰く『ジュリアン特製フルーツ・スペシャル』だそうだ。
「ストロベリーソースはたっぷりよ!」
ジュリアンはさらにそういって念を押す。
わたしもつられて、この「フルーツ・スペシャル」を注文したことがあるけど、食べ始めは美味しくても、後半は溶けたアイスが混ざりに混ざって、何だかよくわからない味になってしまい結局食べたのは一度きりだ。
ジュリアンの注文を受けた店員が手慣れた様子でアイスをカップに盛りながら、わたしに顔を傾ける。
「わたしは……ウォーターアイスのパッションフルーツをお願い」
メニューを見ながらあれこれ悩んだ末、わたしはそう注文した。
「ハーイ、おまたせ」
カップから垂れるほどストロベリーソースがたっぷりかかったアイスを受け取ってテーブルに着くまでに、ジュリアンは待ちきれないのかさっそくフルーツ・スペシャルを口に運んでいる。
「冷たい! 寒い! 美味しい!」
目を輝かせながら、少し震った声で寒そうに叫ぶのが堪らなく可笑しかった。
「そりゃそうよ。だって今日はこんなに寒いのよ? こんな日に青白い顔してアイスを食べるなんて、クールじゃないわ」
わたしが笑うと、ジュリアンは誇らしげに言った。
「いいえ、クールなのは間違いないでしょ?」
これにはやられた。確かにクールには違いなかった。
アイスクリームも溶けかけてきたころ、ジュリアンはおもむろにバックパックの中からゴソゴソと何かを取り出した。
彼女が取り出したのは、今アメリカ中で大人気のギャレット社のストロベリークリームサンドビスケットで、袋にはお茶目なフラミンゴのイラストがプリントされている。クラスの誰かが言ってたんだけど、どうやらこのキャラクターをデザインしたのは、このフィラデルフィア出身のイラストレーターらしい。
テレビCMでは、画面中央でビスケットを食べてる色鮮やかなフラミンゴの群れに、真っ白でお腹を空かせてよろけながらやって来る一羽のフラミンゴ。
群れの中の一羽が白いフラミンゴにビスケットを差し出すと、差し出されたビスケットを口の中に含んだ瞬間、目をキラキラと輝かせながら大きく見開いて、両手で頬っぺたを押さえるフラミンゴの体の色が見る見るピンク色に染まっていき、群れと一緒に大空へと跳び上がっていく。
最近じゃ、このテレビCMを見ない日はないくらい。
ジュリアンはビスケットを袋から一枚取り出すと、溶けかけのアイスクリームにたっぷり浸して口の中に放り込んだ。
「幸せ……」
ジュリアンがうっとりと目を細める。彼女のそんな表情が羨ましくなってねだると、ジュリアンは無言でカップを差し出した。
ビスケットを一枚もらい、アイスが垂れるほどにたっぷりと掬いとってひと口で放り込む。テレビCMのフラミンゴの真似をして、目を大きく見開き両手で頬っぺたを押さえてみせると、ジュリアンはお腹を抱えて大笑いした。
「あははは! フラミンゴ・ジョージィ・ギャレットだ! 似てる!」
笑い合っていると、外で車のクラクションが大きく鳴り、ものすごい衝突音が店の中にまで届いてきた。
「事故かな⁉」
「行ってみよう!」
わたしとジュリアンは席を立った。
店を出ると、外はまるでバケツをひっくり返したような土砂降りで、時折ゴロゴロと雷が燻る音も聞こえてくる。大雨のせいで視界も悪く、霧にでも包まれている感じだった。
《パラダイス》のあるフェアマウントアベニューと、それに交差するノース20番通りの交差点の真ん中に、大きなダンプカーが停まっていた。
そこから数十フィートほど先に、グチャグチャに変形した乗用車が横向きにひっくり返ったまま転がっている。
中に誰かいたならとても無事とは思えない惨状だった。
「あちゃー……。あの乗用車の人はきっともう駄目ね」
ジュリアンが痛々しそうにつぶやく。
辺りには、騒ぎを聞きつけた人々が集まり始め、誰かが呼んだレスキューのサイレンがもう聴こえた。豪雨とも呼べる雨音に掻き消されそうになりながらも、徐々に交差点へと近づいてくる。
「ケイト、もう帰ろう」事の終わりまで見ないまま、ジュリアンが居心地悪そうに言った。「私ってこういうの駄目なの……人が倒れてたり、血を流してたりするのを見ると力が抜けちゃって……」
「それにしてもすごい雨ね。とても前が見えないわ……」
フラフラと歩き出すジュリアンに言葉をかけながら、ふと気になってもう一度事故現場を振り返ると、横転した車の傍に人影があるのが見えた。
事故の惨状を眺める人だかりは、一定の距離を保って遠巻きにしているだけだ。台風の目みたいに中心は閑散としてるのに、どうしてあんなすぐ傍に人が立っているんだろう? そんな違和感からわたしは目を凝らした。
「ケイト? どうしたの?」
この降り注ぐ槍のような大雨のせいで不明瞭な視界のなか、はっきりとは見えないはずなのに、そこに立つ人物の姿が浮かび上がった気がした。とても悲しげな表情で、黒っぽいレインコートを羽織った黒髪の男性が車の中をじっと見つめている……。
「いま、あそこの乗用車の傍に――」
ジュリアンに話をしようと一瞬目を離してもう一度振り返ると、いつの間にか男の姿はどこにも見当たらなくなっていた。
「ケイト?」ジュリアンが顔を覗き込む。
「あ、あぁごめん。……なんでもない、行こう」
なぜその男の話をジュリアンに伝えなかったのか。とにかくわたしは慌てて彼女に謝ると、再び歩き出した。
†
その日の夕方、お母さんが仕事から帰ってくると、わたしは交差点で見た大きな事故の話をした。
「それで? 乗用車に乗っていた人はどうだったの? ケイト、お皿を出してくれるかしら」
夕飯用に買ってきた冷凍のピザを温めながらわたしの話に耳を傾ける。
「結局、ジュリアンが途中で帰ろうって言い出したからわからないけど……多分、助からないって思ったよ。車なんてグチャグチャになってたし」
あの惨劇の状況を思い起こしながら話すうちに、わたしは車の傍に立っていたレインコートを着た男のことを思い出していた。大雨で視界も悪く、あんなに離れた場所から見ただけなのに、もの凄く悲しそうな表情をしてることが一目でわかってしまったあの男の人のことを。
お母さんが温めたピザをお皿に移しテーブルに置く。
「あの辺りはアムトラックの駅までの抜け道で、スピードを出す人も多いから……。それにこの記録的な大雨だったし、残念だけど、大きな事故が起こってしまっても仕方ないかもね」
お母さんが用意したサラダボウルの中に適当にちぎった野菜とスライスしたトマトを混ぜ込み、フォークとナイフといったカトラリーを黄色のクロスの上に並べて置く。にこやかにかけられる声に相づちを返しながら、合間にチク・タクの掛け声も合わさると、すぐに我が家の夕食はすべてが整ってテーブルの上に並べられた。
よく学校の友達には、「まるで朝食のような夕飯ね」なんてからかわれたりするけど、朝から冷凍のピザなんて食べる家庭はないでしょ? せいぜいシリアルに、フルーツを付けるくらいで、それ以上食べていたら、学校には完全に遅刻。それに、チク・タクなんて毎食シリアルだけど、文句一つ言わずに美味しそうに平らげるんだから。とても立派な食事よ。
「ねぇお母さん、その車の横にね、黒い服を着た背の高い男の人が立ってたのよ。とても不思議な感じに見えたわ」
サラダのクレソンをピザに乗せてぱくつきながら、車の前に立っていたレインコートの男の話をすると、お母さんは苦い顔で、口に含んだピザをゆっくりと飲み込む。
「やだ……それって、ひょっとして幽霊だったんじゃないわよね?」
そう言い終わった瞬間、食事を終わらせたチク・タクが急にチャカチャカと歩き出すものだから、わたしたちは驚いて、顔を見合わせて笑った。
「もう、チク・タクったら、折角ケイトを怖い話で驚かせようと思ったのに! あなたに美味しいところを持っていかれたわ」
お母さんが叱るけど、チク・タクはそんなことお構いなしに尻尾を振って歩き回る。床に響く足音がわたしたちを喜ばせることを知っていて、自慢げに演奏し続けてるようだった。
いつもとまったく変わらない明るいチク・タクのお陰で、結局あの事故現場で見たレインコートの男の件はそれ以上話すことはなかった。
†
アイス・パラダイスで大きな自動車事故を見たその週末、お母さんはわたしに留守番を頼んだ。
「明日はマギーとイタリアンマーケットに行ってくるわ! ふたりで思いっきりショッピングを楽しむのよ」
お母さんがおばさんと一緒にマーケットに繰り出すなんて、両手で数え足りないくらいカジュアルな出来事なはずなのにすごくうきうきしている。
「ランチには、いつものように『ジェノ』でチーズステーキをお腹いっぱい食べるんだから。ハーイ、チク・タク? 明日は我が家のお姫様のお世話とお留守番をよろしくね」
「ママ、ひどいよ。世話をするのはわたしなんだから!」
「うふふ、そうよねえ?」
「もう! マギーおばさんによろしくね。夕ご飯は一緒よね?」
イタリアンマーケットは、その名の通り、イタリア食材なんかを扱うお店が立ち並んでいる場所で、市民にも人気のマーケットだ。わたしたちが住むスプリングガーデン地区よりもずっと南東の方角で、センターシティよりも南。
サウス9番通りを軸に、大体クリスチャン通りからワシントンアベニューと呼ばれる大通りまでがイタリアンマーケットと呼ばれている。
その辺りはごちゃごちゃとしていて、あんまり綺麗といえるエリアではないんだけど、独特で色鮮やかな建物や、賑わって活気のある市場の雰囲気が二人は大好きらしい。
そして最後にジェノでチーズステーキを食べて帰ってくるのがお決まりのコースだった。
ジェノはフィラデルフィア名物、チーズステーキのお店。チーズステーキとは薄切りの牛肉と野菜を炒めた物にチーズを絡めて、アロモソって呼ばれる細長いパンで挟んだサンドイッチのこと。
わたしも何度かついていったことがあるんだけど、イタリアンマーケットに入った二人は、会話に花を咲かせながらサウス9番通りを軸に市場を巡っていく。ろくに商品も見ないで店内をウロウロしたり、必要のない店に入ったと思ったらすぐに出てきたり……。
驚きなのは、その間ずっとお互いの顔を見合ったまま、夢中で話し続けてることだ。
ワシントンアベニューを通り過ぎて、イタリアの面影などとっくに感じなくなっても、ひたすらお喋りに没頭しながらサウス9番通りを南下していく。
そうしてようやく会話が途切れ始める頃、目の前に現れるのがジェノだった。
「ねぇ、ジェシカ。そろそろお腹空かない?」
こうして喋り通しだった二人は、迷うことなくジェノに入り、牛肉とチーズがたっぷりのチーズステーキを頬張ると、再び元気を取り戻して、また会話に花を咲かせながら地下鉄に乗って帰っていく。
大人の女同士の会話なんだろうか? それともおばあちゃんくらいの歳のマギーおばさんに、母親の姿を重ねているんだろうか? とにかくこんなときのお母さんはとても生き生きとしていて楽しそうだった。
わたしはおばあちゃんのことを殆ど知らない。お母さんはわたしに、お父さんの話はもちろん、おばあちゃんの話もあまりしてくれなかったから。
おじいちゃんは、お母さんがまだ幼い頃に病気で亡くなったらしい。でもおばあちゃんのことになると途端に口を閉ざし、微笑んだまま悲しそうに笑うだけ。
「あなたのおばあちゃんはね、ヴァレリーというの。厳しい人だったけれど、とても子供想いの愛に溢れた人だったわ」
そういって、それ以上は語ろうとしない。あまり話したくないと思っているのが子供心にも伝わってきて、背中に腕を回してにっこり微笑むお母さんによくわからない笑顔を返すことしかできなかった。
いつもなんとなく話は切り上げられてしまい、おばあちゃんが生きているのかそれとも既に死んでしまっているのかさえ、わたしにはわからなかった。
ただ一つはっきりしているのは、お父さんのことと同様に、おばあちゃんの話になると、お母さんはとても悲しそうな顔をするってこと。お父さんの話と同じように、あれこれおばあちゃんの話を聞き出そうとは思わない。いつかわたしが大人になったら、きっと話してくれると思うから。
どんなことだって、きっと話をするのに相応しいタイミングってのはあるんだってこの二人を見ているとそう感じる。
みんなで揃ってショッピングツアーに参加してるのに、わたしそっちのけで二人が会話を弾ませているのはすごく腹立たしいけど、たまにはわたしのことを忘れて大人の女性同士、楽しいおしゃべりに思いっきり羽を伸ばすのはとても大切だって感じるわ。
それ以来、わたしはイタリアンマーケット・ショッピングツアーには参加していない。行ったってどうせ構ってもらえないし、なによりあんなに歩き回ったら足が棒になってしまう。
それに大好物のジェノのチーズステーキだけはちゃんとテイクアウトしてきてくれるから、留守番してる方が好都合だったりもする。なぜだか二人にも感謝されるし、仲間外れにされて寂しい思いをする心配もないしね。
「今日はきっと土砂降りよ、傘を持って行きなさい」
手渡された傘を持って、お母さんと一緒にアパートを出る。玄関では、チク・タクが尻尾を大きく揺らし、元気に送り出してくれた。
わたしだって、いつも男の子相手に喧嘩ばかりしてる訳じゃない。たまには女の子らしいことだってする。例えばウィンドウショッピングをしたり、友達同士で流行っている小さなステッカーを交換しあったり、あまり得意じゃないけどボーリングに行ったり。
授業中、窓に当たるパツパツという音に目を向けると、お母さんが今朝話していたように雨が降り出している。そのときわたしの携帯電話がメールを受信した。差出人は真後ろの席にいるジュリアン。本文にはただ一言、「パラダイス」と書かれている。振り返ると、ジュリアンがクスクス笑いながら声を潜めて言った。
「ねぇ! 良いでしょ? 帰りに付き合ってよ」
パラダイスなんて、バーとかクラブみたいな名前だけど、正式には《アイス・パラダイス》といって、アイスクリーム屋さんの名前だ。
ジュリアンはパラダイスが大好きで、よく学校帰りにわたしを誘う。わたしもあそこのアイスクリームは好きだけど、何もこんな雨の降る肌寒い日に食べに行かなくたって良いのにと思いながらも、結局いつだって付き合うことになる。
アイス・パラダイスは、スプリング通りや、アパートのあるグリーン通りよりももっと北。フェアマウントアベニューと呼ばれる大通りと、ノース20番通りの交差点の角にあるアイスクリーム屋にしては割と大きなお店だ。
お店の入口には、ニット帽を被ったペンギンらしき奇妙な造形物が立っていて、両手にアイスクリームを持って舌を出してウインクしている。あれならまだ、絵心のまるっきりないわたしがデザインしたほうが、遥かにペンギンっぽく見えるんじゃないかしら?
それでもあのペンギンは、この辺りに住む人なら誰でも知ってるマスコットキャラクター、パラダイス君だった。
真夏の暑い日には溢れるほど混み合うこのお店も、今日みたいに雨が降っていて、しかも肌寒いなんて日にはガラガラ。お客さんは、わたしたちを含めても数人しかいなかった。
「ハーイ、ご注文は?」
中央カウンターから店員が声を掛けると、ジュリアンはメニューも見ずに、秘密のパスワードを暗唱するみたいにスラスラと答えた。
「アイスクリームフレーバーのダブルで、マンゴーとオレンジ、それにトッピングでカットバナナとキウイにチョコミントチップ。その上からたっぷりのストロベリーソースをかけてちょうだい」
この特殊な注文は、彼女曰く『ジュリアン特製フルーツ・スペシャル』だそうだ。
「ストロベリーソースはたっぷりよ!」
ジュリアンはさらにそういって念を押す。
わたしもつられて、この「フルーツ・スペシャル」を注文したことがあるけど、食べ始めは美味しくても、後半は溶けたアイスが混ざりに混ざって、何だかよくわからない味になってしまい結局食べたのは一度きりだ。
ジュリアンの注文を受けた店員が手慣れた様子でアイスをカップに盛りながら、わたしに顔を傾ける。
「わたしは……ウォーターアイスのパッションフルーツをお願い」
メニューを見ながらあれこれ悩んだ末、わたしはそう注文した。
「ハーイ、おまたせ」
カップから垂れるほどストロベリーソースがたっぷりかかったアイスを受け取ってテーブルに着くまでに、ジュリアンは待ちきれないのかさっそくフルーツ・スペシャルを口に運んでいる。
「冷たい! 寒い! 美味しい!」
目を輝かせながら、少し震った声で寒そうに叫ぶのが堪らなく可笑しかった。
「そりゃそうよ。だって今日はこんなに寒いのよ? こんな日に青白い顔してアイスを食べるなんて、クールじゃないわ」
わたしが笑うと、ジュリアンは誇らしげに言った。
「いいえ、クールなのは間違いないでしょ?」
これにはやられた。確かにクールには違いなかった。
アイスクリームも溶けかけてきたころ、ジュリアンはおもむろにバックパックの中からゴソゴソと何かを取り出した。
彼女が取り出したのは、今アメリカ中で大人気のギャレット社のストロベリークリームサンドビスケットで、袋にはお茶目なフラミンゴのイラストがプリントされている。クラスの誰かが言ってたんだけど、どうやらこのキャラクターをデザインしたのは、このフィラデルフィア出身のイラストレーターらしい。
テレビCMでは、画面中央でビスケットを食べてる色鮮やかなフラミンゴの群れに、真っ白でお腹を空かせてよろけながらやって来る一羽のフラミンゴ。
群れの中の一羽が白いフラミンゴにビスケットを差し出すと、差し出されたビスケットを口の中に含んだ瞬間、目をキラキラと輝かせながら大きく見開いて、両手で頬っぺたを押さえるフラミンゴの体の色が見る見るピンク色に染まっていき、群れと一緒に大空へと跳び上がっていく。
最近じゃ、このテレビCMを見ない日はないくらい。
ジュリアンはビスケットを袋から一枚取り出すと、溶けかけのアイスクリームにたっぷり浸して口の中に放り込んだ。
「幸せ……」
ジュリアンがうっとりと目を細める。彼女のそんな表情が羨ましくなってねだると、ジュリアンは無言でカップを差し出した。
ビスケットを一枚もらい、アイスが垂れるほどにたっぷりと掬いとってひと口で放り込む。テレビCMのフラミンゴの真似をして、目を大きく見開き両手で頬っぺたを押さえてみせると、ジュリアンはお腹を抱えて大笑いした。
「あははは! フラミンゴ・ジョージィ・ギャレットだ! 似てる!」
笑い合っていると、外で車のクラクションが大きく鳴り、ものすごい衝突音が店の中にまで届いてきた。
「事故かな⁉」
「行ってみよう!」
わたしとジュリアンは席を立った。
店を出ると、外はまるでバケツをひっくり返したような土砂降りで、時折ゴロゴロと雷が燻る音も聞こえてくる。大雨のせいで視界も悪く、霧にでも包まれている感じだった。
《パラダイス》のあるフェアマウントアベニューと、それに交差するノース20番通りの交差点の真ん中に、大きなダンプカーが停まっていた。
そこから数十フィートほど先に、グチャグチャに変形した乗用車が横向きにひっくり返ったまま転がっている。
中に誰かいたならとても無事とは思えない惨状だった。
「あちゃー……。あの乗用車の人はきっともう駄目ね」
ジュリアンが痛々しそうにつぶやく。
辺りには、騒ぎを聞きつけた人々が集まり始め、誰かが呼んだレスキューのサイレンがもう聴こえた。豪雨とも呼べる雨音に掻き消されそうになりながらも、徐々に交差点へと近づいてくる。
「ケイト、もう帰ろう」事の終わりまで見ないまま、ジュリアンが居心地悪そうに言った。「私ってこういうの駄目なの……人が倒れてたり、血を流してたりするのを見ると力が抜けちゃって……」
「それにしてもすごい雨ね。とても前が見えないわ……」
フラフラと歩き出すジュリアンに言葉をかけながら、ふと気になってもう一度事故現場を振り返ると、横転した車の傍に人影があるのが見えた。
事故の惨状を眺める人だかりは、一定の距離を保って遠巻きにしているだけだ。台風の目みたいに中心は閑散としてるのに、どうしてあんなすぐ傍に人が立っているんだろう? そんな違和感からわたしは目を凝らした。
「ケイト? どうしたの?」
この降り注ぐ槍のような大雨のせいで不明瞭な視界のなか、はっきりとは見えないはずなのに、そこに立つ人物の姿が浮かび上がった気がした。とても悲しげな表情で、黒っぽいレインコートを羽織った黒髪の男性が車の中をじっと見つめている……。
「いま、あそこの乗用車の傍に――」
ジュリアンに話をしようと一瞬目を離してもう一度振り返ると、いつの間にか男の姿はどこにも見当たらなくなっていた。
「ケイト?」ジュリアンが顔を覗き込む。
「あ、あぁごめん。……なんでもない、行こう」
なぜその男の話をジュリアンに伝えなかったのか。とにかくわたしは慌てて彼女に謝ると、再び歩き出した。
†
その日の夕方、お母さんが仕事から帰ってくると、わたしは交差点で見た大きな事故の話をした。
「それで? 乗用車に乗っていた人はどうだったの? ケイト、お皿を出してくれるかしら」
夕飯用に買ってきた冷凍のピザを温めながらわたしの話に耳を傾ける。
「結局、ジュリアンが途中で帰ろうって言い出したからわからないけど……多分、助からないって思ったよ。車なんてグチャグチャになってたし」
あの惨劇の状況を思い起こしながら話すうちに、わたしは車の傍に立っていたレインコートを着た男のことを思い出していた。大雨で視界も悪く、あんなに離れた場所から見ただけなのに、もの凄く悲しそうな表情をしてることが一目でわかってしまったあの男の人のことを。
お母さんが温めたピザをお皿に移しテーブルに置く。
「あの辺りはアムトラックの駅までの抜け道で、スピードを出す人も多いから……。それにこの記録的な大雨だったし、残念だけど、大きな事故が起こってしまっても仕方ないかもね」
お母さんが用意したサラダボウルの中に適当にちぎった野菜とスライスしたトマトを混ぜ込み、フォークとナイフといったカトラリーを黄色のクロスの上に並べて置く。にこやかにかけられる声に相づちを返しながら、合間にチク・タクの掛け声も合わさると、すぐに我が家の夕食はすべてが整ってテーブルの上に並べられた。
よく学校の友達には、「まるで朝食のような夕飯ね」なんてからかわれたりするけど、朝から冷凍のピザなんて食べる家庭はないでしょ? せいぜいシリアルに、フルーツを付けるくらいで、それ以上食べていたら、学校には完全に遅刻。それに、チク・タクなんて毎食シリアルだけど、文句一つ言わずに美味しそうに平らげるんだから。とても立派な食事よ。
「ねぇお母さん、その車の横にね、黒い服を着た背の高い男の人が立ってたのよ。とても不思議な感じに見えたわ」
サラダのクレソンをピザに乗せてぱくつきながら、車の前に立っていたレインコートの男の話をすると、お母さんは苦い顔で、口に含んだピザをゆっくりと飲み込む。
「やだ……それって、ひょっとして幽霊だったんじゃないわよね?」
そう言い終わった瞬間、食事を終わらせたチク・タクが急にチャカチャカと歩き出すものだから、わたしたちは驚いて、顔を見合わせて笑った。
「もう、チク・タクったら、折角ケイトを怖い話で驚かせようと思ったのに! あなたに美味しいところを持っていかれたわ」
お母さんが叱るけど、チク・タクはそんなことお構いなしに尻尾を振って歩き回る。床に響く足音がわたしたちを喜ばせることを知っていて、自慢げに演奏し続けてるようだった。
いつもとまったく変わらない明るいチク・タクのお陰で、結局あの事故現場で見たレインコートの男の件はそれ以上話すことはなかった。
†
アイス・パラダイスで大きな自動車事故を見たその週末、お母さんはわたしに留守番を頼んだ。
「明日はマギーとイタリアンマーケットに行ってくるわ! ふたりで思いっきりショッピングを楽しむのよ」
お母さんがおばさんと一緒にマーケットに繰り出すなんて、両手で数え足りないくらいカジュアルな出来事なはずなのにすごくうきうきしている。
「ランチには、いつものように『ジェノ』でチーズステーキをお腹いっぱい食べるんだから。ハーイ、チク・タク? 明日は我が家のお姫様のお世話とお留守番をよろしくね」
「ママ、ひどいよ。世話をするのはわたしなんだから!」
「うふふ、そうよねえ?」
「もう! マギーおばさんによろしくね。夕ご飯は一緒よね?」
イタリアンマーケットは、その名の通り、イタリア食材なんかを扱うお店が立ち並んでいる場所で、市民にも人気のマーケットだ。わたしたちが住むスプリングガーデン地区よりもずっと南東の方角で、センターシティよりも南。
サウス9番通りを軸に、大体クリスチャン通りからワシントンアベニューと呼ばれる大通りまでがイタリアンマーケットと呼ばれている。
その辺りはごちゃごちゃとしていて、あんまり綺麗といえるエリアではないんだけど、独特で色鮮やかな建物や、賑わって活気のある市場の雰囲気が二人は大好きらしい。
そして最後にジェノでチーズステーキを食べて帰ってくるのがお決まりのコースだった。
ジェノはフィラデルフィア名物、チーズステーキのお店。チーズステーキとは薄切りの牛肉と野菜を炒めた物にチーズを絡めて、アロモソって呼ばれる細長いパンで挟んだサンドイッチのこと。
わたしも何度かついていったことがあるんだけど、イタリアンマーケットに入った二人は、会話に花を咲かせながらサウス9番通りを軸に市場を巡っていく。ろくに商品も見ないで店内をウロウロしたり、必要のない店に入ったと思ったらすぐに出てきたり……。
驚きなのは、その間ずっとお互いの顔を見合ったまま、夢中で話し続けてることだ。
ワシントンアベニューを通り過ぎて、イタリアの面影などとっくに感じなくなっても、ひたすらお喋りに没頭しながらサウス9番通りを南下していく。
そうしてようやく会話が途切れ始める頃、目の前に現れるのがジェノだった。
「ねぇ、ジェシカ。そろそろお腹空かない?」
こうして喋り通しだった二人は、迷うことなくジェノに入り、牛肉とチーズがたっぷりのチーズステーキを頬張ると、再び元気を取り戻して、また会話に花を咲かせながら地下鉄に乗って帰っていく。
大人の女同士の会話なんだろうか? それともおばあちゃんくらいの歳のマギーおばさんに、母親の姿を重ねているんだろうか? とにかくこんなときのお母さんはとても生き生きとしていて楽しそうだった。
わたしはおばあちゃんのことを殆ど知らない。お母さんはわたしに、お父さんの話はもちろん、おばあちゃんの話もあまりしてくれなかったから。
おじいちゃんは、お母さんがまだ幼い頃に病気で亡くなったらしい。でもおばあちゃんのことになると途端に口を閉ざし、微笑んだまま悲しそうに笑うだけ。
「あなたのおばあちゃんはね、ヴァレリーというの。厳しい人だったけれど、とても子供想いの愛に溢れた人だったわ」
そういって、それ以上は語ろうとしない。あまり話したくないと思っているのが子供心にも伝わってきて、背中に腕を回してにっこり微笑むお母さんによくわからない笑顔を返すことしかできなかった。
いつもなんとなく話は切り上げられてしまい、おばあちゃんが生きているのかそれとも既に死んでしまっているのかさえ、わたしにはわからなかった。
ただ一つはっきりしているのは、お父さんのことと同様に、おばあちゃんの話になると、お母さんはとても悲しそうな顔をするってこと。お父さんの話と同じように、あれこれおばあちゃんの話を聞き出そうとは思わない。いつかわたしが大人になったら、きっと話してくれると思うから。
どんなことだって、きっと話をするのに相応しいタイミングってのはあるんだってこの二人を見ているとそう感じる。
みんなで揃ってショッピングツアーに参加してるのに、わたしそっちのけで二人が会話を弾ませているのはすごく腹立たしいけど、たまにはわたしのことを忘れて大人の女性同士、楽しいおしゃべりに思いっきり羽を伸ばすのはとても大切だって感じるわ。
それ以来、わたしはイタリアンマーケット・ショッピングツアーには参加していない。行ったってどうせ構ってもらえないし、なによりあんなに歩き回ったら足が棒になってしまう。
それに大好物のジェノのチーズステーキだけはちゃんとテイクアウトしてきてくれるから、留守番してる方が好都合だったりもする。なぜだか二人にも感謝されるし、仲間外れにされて寂しい思いをする心配もないしね。