「いや、肉体の死は決定事項だ。たとえ彼女がドニーから逃げおおせても、また別の事柄で、彼女は命を失っただろう」
 私は彼女の質問に答え、そして彼女の返答を待つ。
 彼女は本当に優しい人間だ。今、この瞬間もケイトの頭の中では様々な憶測が飛び交い、私の問いに答えるべく最も相応しい答えを探しているのだろう。
 そう考えると、私は彼女の優しさに言葉では言い表せない胸の熱さを感じていた。
「ごめんね、ジム。どうやらわたしは、あなたの疑問の答えを持ってないみたい」
 ケイトが申し訳なさそうに呟くが、私はそれでも満足だった。
「それならそれで構わないさ。それよりも、今こうして君と言葉を交わせることの方が、私には喜びだから」
 ケイトは少しだけ微笑んで肯くと、母親を優しい目で見つめ、黙ったままその手を撫でていた。しばらく思いを馳せた様子でいたが、突然、思い出したようにぽつりと呟いた。
「わたし、マギーおばさんに謝らなきゃ……」
 目覚めない母親の傍らで、これほどまでに神経を尖らせている彼女が、そんな最中でさえも謝らなくてはならないと思う事柄とはなにか。その理由まではわからなかったが、私は彼女を心配して言った。
「その……マギーおばさんという人物に、君は何か謝らなくてはならないような失敗をしたのか?」
 私の問い掛けに対して、ケイトはその理由を説明をしようとはしなかったが、私はそれで良いと思った。それは彼女が私の言葉を聞いていなかったからではなく、私の言葉を聞いた上で、自分の頭の中で整理し、その問題点をはっきりと自覚したように私には思えたからだ。
 そしてケイトは、説明する代わりに、清々しい表情で私に答えた。
「えぇ、とても大きな失敗よ。許してもらえるかどうかはわからないけど、とにかくわたしはマギーおばさんに謝りたいって思う」
 彼女は、本当に思慮深く聡明な人間だ。私が打ち明けなくても、彼女はいつか私の使命に気付くだろう。私はケイトの思考や行動に対して、深い興味を持ち始めていた。それだけに、私の使命を彼女に打ち明けることが躊躇われ、なかなか切り出すことができなかった。
 彼女が謝らなくてはならない相手、マギーという人物はどうやら同じ病院の建物内にいるようだった。同行させてもらえるよう願い出ると、ケイトは条件付きで承諾した。
「それは構わないけど、あなたのことをマギーおばさんにも話して良い? この写真の場所がアーモットだとわかった理由を、おばさんはきっと気にするはずだから」
 無理はない。ケイトのように家族を大切に思う者ならば、家族に隠し事などしたくはないだろうし、ましてや私たちのような存在は、特殊な能力を持った者でなければその目で捉えることができない。
 ケイトが知り得ないはずの事実をマギーという人物に伝え、それを彼女に信じてもらうためには、包み隠さずすべてを話した方が良いと私も考えた。
 どのみち私は既に、死の使いとしての掟を破っている。
 決して人間に干渉してはならないという掟を。
「構わない。君に同行させてくれ」
 私が返事をすると、ケイトは眠る母親の耳元で何かを囁き、そしてICUと呼ばれる部屋を出ていった。

 マギーという人物のもとへ向かうため、昇降機に乗り、別のフロアへと降り立つ。正直言って私にはどのフロアもすべて同じに見え、明確な違いなどわからなかった。
 昇降機から降りると、視界の先に二人の人物が見えた。一人は足が悪いのか、車椅子に乗った白髪の女性で、もう一人はまるで服に着せられているといった小柄な女性だった。
 こちらに気づいたらしき小柄な女性が駆け寄ると、ケイトは話し出した。
「写真の場所を思い出したんです。町の名前はアーモット。セントルイスから一八〇マイルほど離れた場所だって、昔お母さんが言ってたのを思い出したわ」
 私は初め、この女性がケイトの言うマギーだと思っていたが、会話の内容を聞く限り、どうやら車椅子に乗った白髪の人物がマギーだということがわかった。
 小柄な女性が立ち去った後、ケイトはまっすぐに車椅子の女性を見据えて震えていた。
「大丈夫か?」
 心配した私が訊ねると、ケイトは小さく肯いて、車椅子の女性に向かって歩き出した。

 ケイトは謝らなければならないといっていたが、マギーという人物は、ケイトが心配するほど怒りをあらわにしている様子はなかった。むしろケイトと同じように、不安な表情を浮かべながら彼女が歩み寄って来るのを待っているように見えた。
「マギーおばさん……あの……」
 ケイトが切り出すと、マギーは涙を流し、彼女の声を掻き消すように叫んだ。
「あぁ……ケイト! 本当にごめんなさい……」
 今にも車椅子から飛び出してしまいそうになるほど、彼女は両手を広げてケイトを求めた。ケイトもそれに応え、両手を広げて彼女を抱きしめた。
 二人はお互いに涙を流しながら謝罪を重ねた。
 正確に言うなら、二人はあまり言葉は交わしていない。しかし、二人だけに通じ合う何かがあるのだろう、言葉は少なくても、お互いの気持ちは確実に理解しあっているように私の目には見えた。
 この二人が特別なのか? 
 それとも、家族であるその絆が特別なのか? 
 それはわからなかったが、とにかく二人のやり取りを見ていると、私の胸はいいようのない清々しさに見舞われていた。

 しばらくの間、二人はその場で体を寄せ合い黙ったままだった。マギーが何かを訊ねると、ケイトは語り出した。
 ケイトが真剣な眼差しで、アーモットの出来事や私の存在を語っている間、マギーはそんな彼女に応えるように、同じく真剣な眼差しで話を聞いた。
 ケイトがすべてを話し終わった後、マギーは口を開いた。
「にわかには信じられない。でもあなたが嘘なんて言わないことも、私は良く知ってるわ。そのジムという人物は今も近くにいるの?」
 マギーはそういうと、私の存在をその目で捉えようと辺りを見渡した。
「えぇ、いるわ。ちょうど今、おばさんが座る後ろに立ってる」
 ケイトが私の居場所を告げると、マギーは恐る恐る振り返った。
 マギーはこちらに顔を向けた。焦点は合っておらず、私を目認できている様子はなかったが、彼女は意外にも核心をついた疑問を投げ掛けた。
「ジェシカの命に心配がないのは、私たちにとって、これほどまでにない嬉しいニュースだけど、じゃあなぜ、彼は今もあなたと一緒にいるの?」
 ケイトは視線を私に向ける。まるでマギーの疑問をそのまま私へと投げ掛ける(パスする)ように。
 予想していなかった訳じゃない。いずれはケイトに勘づかれるとは思っていた。だがまさか本人ではなくマギーに突かれたことに私は驚き、言葉を失っていた。しかし冷静に考えてみれば、これも予期できたことだったのかもしれない。
 彼女たちは常に自分以外の家族の身を案じている。とにかく、マギーの質問が、単なる好奇心からなのか、それとも本当に訝しんでのことなのかはわからなかったが、私はこのタイミングで、ケイトに打ち明けることにした。
「隠していても、じきに君は気付くだろう……そして、私の存在が見える君には、それを知る権利がある。ヴァレリー・クーパーと同じように……」
 私が話し始めると、ケイトは途端にすべてを理解したように瞼を静かに閉じた。
「私の次のターゲットは君なんだ。ケイト」
 はっきりと言葉にしたとき、私は胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。伝えなくてはならない事実を内に留めておくことと、それらをすべて打ち明けることに、これほどまでに痛みの差を感じるとは思ってもみないことだった。
 ケイトは黙り込んだ。あまりに突然のことで、頭の中が真っ白になるほど驚いているんだろう。
「ケイト? どうしたの?」
 心配したマギーが声をかけると、ケイトが口を開く。
「今、彼は休暇中みたいよ? それで、アーモットの田舎から、このフィラデルフィアに観光に来てるんだって!」
 明らかな嘘をついた彼女に対し、私はただケイトを見守るだけだった。ケイトがマギーに対し、敢えて嘘をついたのには必ず訳があるはずだからだ。
 そんななか、ケイトにアーモットの情報を与えられ、立ち去ったはずの小柄な女性が、大量の資料を抱えながら駆け寄ってくると、ケイトやマギーの前で、その資料を読み上げた。
 彼女の抱えた資料には、私がケイトに話したアーモットでの詳細な記録や、細かい情報が書かれていた。
 事前に私から聞いて、おおよその出来事は知っていたはずの二人だったが、やはり人間が人間のために記録した詳細な内容から得る感情は異なるのか、ケイトとマギーは小刻みに震えながら、お互いの手をきつく握り合った。私から聞いた話の裏付けとなり、まるで彼女たち自身があの日の出来事を追体験したような錯覚を覚えさせるのだろう。

 私は黙ったまま彼女たちの話を聞いていたが、どうやら話の本筋はケイトの今後の処遇についてのようだった。
 ケイトにとって唯一の家族である母親とマギーが、彼女の面倒を見ることができない間必要となるケイトの身柄の置場。
 ケイト本人は、どこにも行かずに二人が戻るまで住み慣れた現在のアパートでの生活を望んでいるようだが、どうやらそれを拒むのは同じ人間が作ったルールのようだ。
 結局、マギーの強い説得もあり、渋々別の場所での「一時的な」生活を了承したケイトではあったが、心なしか、彼女の本心はもっと別のところへと向けられているように私は感じた。
「じゃあさっそく、着替えや学校で使う持ち物をあなたの家に取りに行きましょう」
 話が纏まったかと思うと、小柄な女性はさっそくケイトを別の場所へ移動させるための支度を始めた。しかしケイトは渋るようにもう一度母親の顔を見たいと言い出したため、小柄な女性はその申し出を快く受け入れた。
 ケイトはマギーに別れを告げる。しかしどこかその心の裏側には、切なさと深い悲しみ、そして大きな覚悟のようなものが感じられた。そしてその感情は、ケイト自身の命の終わりまでの時間と深く関係していることを私は理解していた。
 マギーの前では気丈に振る舞っていたケイトだったが、その理由は単に気にしていないのでもなく、気にしても無意味だと思っている訳でもなかった。彼女をそうさせる理由は一つ。短い期間だが、彼女のような人間と接することで、私は少しずつケイトという個人を理解しつつあった。
 マギーと別れ、母親のいるフロアへ向かう。私は自分の中では確信を持ちつつも、自分の答えと照らし合わせるため、敢えてケイトに訊ねた。
「なぜ、彼女に本当のことを言わなかったんだ?」
 昇降機の中で、ケイトはぼんやりと空を仰ぎながら答えてくれた。
「話したところで、わたしが近々死んでしまうのは変わらないんでしょ? それなら話さない方が良いわ。そんなことを話せば、マギーおばさんはきっと大人しく入院なんてしてくれないもの……」
 やはり私が思った通り、彼女の行動の指針となるものはすべて家族によるものだ。それ故に、そんなケイトの健気な姿勢に、私はまた胸を痛め、それ以上何も訊ねることができなかった。