「ロベルト!!」
すっかり変わり果てた息子をきつくその腕に抱きしめる父親の姿を私は直視することができず、目を背けたままその場に立っていた。
ルカの魂を冥界に送ったアニーが戻ってくると、「ジム! まだ此処にいたの?」とすっかり呆れた様子で言った。
「すまない、彼をなかなか説得できなくて……」
「ジム。説得など無用よ。一体どうしたと言うの? あなたらしくもない」
アニーの反応は当然と言えた。私たちの仕事は彼等の魂を冥界へ送り届けることだ。説得などしなくとも、強引に冥界へ届ける方法などいくらでもある。
「あなたがやらないのならば、後は私が引き受けるわ」
アニーはそう言うと、嫌がって暴れるロベルトの魂を強引に引き掴んだ。
「離してよ! 僕はパパたちから離れたくないんだ! 放っておいてよ!」
「ジム。あなたは私の代わりに、この街のディランシー総合病院という場所に行きなさい!」
自分の次のターゲットリストを私に手渡すと、アニーは有無を言わさずロベルトの魂を連れ去った。
アニーとロベルトが去った後も、私はしばらく何もできずにロベルトの父親を見ていただけだった。
変わり果てた我が子を抱きながら、その場に座り込んで冷たくなっていくその体を必死に暖めている。やがて騒ぎを聞き付けた母親と娘、さらに救急隊員や野次馬の群れで、辺りは騒然としていた。
「ロベルト!! ああっ……!! ああ!」
もはや彼はこの場にいないため、家族の声はロベルトに届かない。依然として息子の体に寄り添い泣き叫ぶ家族の姿に、私は胸が締め付けられる思いだ。
いたたまれなくなった私は、その場から逃げ出すように立ち去った。
アニーから指示を受けた病院へと赴く。マーケットで負傷した者たちが次々と担ぎ込まれ、病院内も事故現場と変わらないほど騒然としていた。
「やぁ、ジム。君のターゲットもこの病院に運ばれたのか?」
救急外傷室と書かれた部屋の前で同僚のスタンリーが話しかけてきた。
「いや、私のターゲットはあの場所で死んだよ。ここへ来たのは次のターゲットのためだ」
「人間の医療技術とやらの進歩のおかげで、私たちの仕事もスムーズには終わらなくなったよ。まぁ、彼に残された時間は、それほど長くないとは思うがね」
診療台に乗せられた血まみれのターゲットを見ながらスタンリーは呟いた。その周りを大勢の医者や看護師が取り囲み、慌ただしく処置をしている。
ターゲットは、必ずしも私たちの監視に入ってからすぐに死ぬ訳ではなかった。人間は医療分野での努力を怠らない。とくに救命には力を入れているようで専門の部署もあるほどだ。その恩恵か弊害か、おかげで既に肉体は死を迎えても、延命措置によって肉体から魂が出ることができないケースも最近では多々あることだ。
アニーから与えられたターゲットもその一人のようだ。こう言った場合、ターゲットにつきっきりとなり、長い期間身動きが取れなくなることもある。
私はリストに書かれたサマンサという名前の人物を目指した。彼女はICUと呼ばれる薄暗い部屋で、もはや自力での呼吸ができない状態に陥っていた。ベッドの周りには、自発呼吸を手助けするための管や、様々な装置が配置されている。まるで機械に覆いかぶされた肉の塊のように私の目には見えた。
ベッドのすぐ側には、彼女を痛々しい表情で見つめて立ち尽くす一人の年老いた男の姿があった。
サマンサの夫だろうか? 彼女を見る彼の目は、どこか激しい葛藤の中で、一つの決断を迫ろうという者のような目つきだった。
未だ肉体から離れないサマンサの魂に、私は直接呼びかける。
「サマンサ。聞こえるか? 私は死の使いだ。君の肉体はやがて死に、その時は私が君の魂を冥界へと送る」
私が呼びかけると、彼女の魂はゆっくりとその肉体から上半身を起こした。
「予想はしていたわ。ようやく、わたしも此処を離れる時が来たのね」
サマンサは私を見ると、ゆっくりとその視線を、自分を見つめる夫の方へと移した。
「辛くて長い闘病生活だったわ。薬の副作用で髪の毛もすべて抜けてしまったし、具合が悪くて、何日も眠れない日も続いた……」
闘病の辛さは私には判断しようがないが、彼女の眼の曇りからは、どれほど彼女が苦痛の中をもがき苦しんできたかは理解できた。
「では、君がまだその肉体にしがみついている理由は、やはり彼が原因か?」
私が訊ねると、彼女は照れ臭そうに笑って首を振った。
「彼というよりは、むしろわたしね。ジョーは今も悩んでいるわ……わたしをどうするべきかって」
私は彼女の言うことが理解できず、再び訊ねた。
「君はどうしたいんだ?」
すると彼女は、機械に囲まれて、ベッドで横たわる自分の肉体を見ながら話し始めた。
「わたしも、ジョーと同じだわ。決めかねてるの。彼から離れたくないという気持ちと、この闘病生活から早く解放されたいという気持ちで」
さらに彼女は再び夫の方へ目をやると、とても愛しそうな目で彼を見ながら話す。
「ずっと寄り添って、一緒に歩み続けた人生だった。彼なしの人生など考えられないほどに。だからこそ、迷ってしまうのよ。先が見えていても……きっと、ジョーも同じ気持ちなんだと思うわ」
人間の別れの際には、様々なものがある。ヴァレリー・クーパーのような場合も、絵描きのオーウェン・カーヴァーの場合も、そしてロベルト・ハモントの場合も。
突然襲い掛かる肉体の死に対しては、どう足掻いたところで、それを先伸ばすこともできずに、現実を受け入れるしかない。
しかしサマンサの場合は、既に肉体は死を迎える段階にあり、本人もその自覚はあるものの、人間の医療技術の進歩の恩恵なのか、未だに彼女はこの肉体から離れられないでいる。いやむしろ、その最期の判断を決めかねているんだろう。
「わたしは、ずっと彼の判断に従ってきた。彼の持つ哲学や思想に」
「ほう、彼は哲学者なのか?」
私が感心したように呟くと、彼女は笑って答えた。
「そうね、人間は誰もが皆、哲学者であり思想家だわ。わたしは、彼の持つ考え方や、話す言葉一つ一つを、彼と同じくらい愛しているの。そしてその最期の瞬間までも、わたしは彼の考え方に染まったままで終わりたいのよ」
彼女の夫は、やはり黙ったまま、ベッドに横たわるサマンサを見つめているだけだった。やがて、何を思ったのか、彼は彼女の頬に口づけをすると、静かにこの部屋を出ていった。
「彼は一体どこへ行ったんだ?」
そう訊ねる私に彼女は一言だけ、静かに呟いた。
「その時が来たわ」と。
しばらくすると、彼は数人の人間を引き連れて、再び彼女の前に姿を現す。白衣を着た医者と、女の看護師のようだった。
「マクレーンさん。奥さんのサマンサは、末期の悪性腫瘍のため、化学療法中に呼吸不全に陥り、このICUに移されました」
白衣を着た医者が落ち着いた声で説明を始める。その説明が向けられる先は、ジョー・マクレーン。
「それはわかってるんだ。でも、助かる見込みはあるんだろ? 希望はあるんだろ?」
ジョーは小さく言った。震える声で、医者の顔を見ることもなく、ただまっすぐサマンサだけを見続けながら。
「残念なことです。私たちも積極的に治療を続けて来ましたが、反応はあまりみられません。さらに悪いことに、奥さんは急性呼吸窮迫症候群と多臓器不全を合併しつつある状態です」
医者の言葉に、彼は一層思い詰めた表情になり、彼の頬には涙が流れ落ちていた。
「もう、駄目なのか? ほんの一欠けらでも、望みはないのか?」
啜り泣きながら、彼が医者に向かって訊ねると、医者は静かに肯いた。
「奥さんは、延命治療の書類にはサインしていませんでした。このまま、その時が来るまで機械に繋がれたまま、最期の時を迎えるのか、それとも機械を止めて、自然のままに任せて見送るのか、ご主人であるあなたに決めて頂きたいんです」
この薄暗い部屋の中、カーテンで囲われ、光を浴びながら横たわるサマンサの顔を優しく触ったジョーは、医者に向かって肯き、一言だけ呟いた。「楽にしてやってくれ」と。
医者は彼の言葉に肯くと、機械を止めて、彼女の喉奥まで達する管を彼女から引き抜き、そして別の機械で、彼女の様子を監視しているようだ。
「サム、君は十分に頑張ったよ。本当によく闘い抜いた。今まで沢山苦労をかけたね。私のことは気にせず、ゆっくり休めば良いんだよ」
彼がサマンサの頬に手を当て、親指で彼女の閉じた瞼をなぞるとき、突然私のすぐ側で誰かが名前を呼んだ。
「ジム?」
その聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはロベルトの公園で別れたケイトが不安そうに立っていた。
「どうしたの? あなたの身内の人もこの病院にいたの?」
ケイトは私の正体を知らない。だから、彼女が誤解するのには肯けることだが、それ以上に私は、この大きな街の中の、この限られた小さな部屋で、再び彼女に出くわしたことに驚きを隠せなかった。
「あなたのような人にも、訪ねて来る友人がいるのね」
サマンサは未だその肉体から上半身だけを起こしたままで、私に向かって言った。私がサマンサへ目を向けると、彼女は肯いて話した。
「わたしのことは心配要らないわ。どこへ行く理由もないもの」
サマンサの言葉に安心した私はケイトをこの場から離すために、少し移動しながら言う。
「ケイト、こっちへ……」
そして、彼等から少し離れた同じ室内の中、不安そうな眼差しで私の後をついて来るケイトに向かって私は訊ねた。
「どうした? なぜ君がこんな場所にいるんだ」
するとケイトは突然大粒の涙を零し始めた。重苦しい現実に溺れていくような、悲しげな表情だった。
「わたしのお母さんも事故に遭って、眠ったまま目を覚まさないの……あなたのお母さんもそうなの?」
私は自分でも驚くほど感情的になり、ケイトに訊ねた。
「君の母親⁉ どの人だ?」
この部屋に入ったとき、私以外の死の使いの存在は確認していない。しかし、万が一の場合を恐れ、私はケイトに母親のベッドへ案内するように話した。
ケイトは驚いた顔で私を見ると、静かに肯いて、母親のベッドまで私を案内してくれた。
ICUと呼ばれる部屋の一画で、ケイトの母親は、やはりサマンサと同じように沢山の機械に繋がれていた。
私はベッドに横たわる母親を中心起点として、辺りを注意深く探るが、仲間の気配は感じられない。つまりは、ケイトの母親はまだその時ではないということだ。
これはケイトにとって、とても良いニュースだと考えた私は、さっそくその事実を彼女に伝えた。
「ケイト。君の母親なら大丈夫だ」
そう告げたとき、サマンサのベッドがある辺りから、何か異常を訴える機械音が響いた。
「この音は? どうしたの?」
ケイトの声は怯えている。この音が一体何を意味するのか、私には瞬時に理解できた。この音は、つまりサマンサの肉体がその活動をすべて終わらせた知らせなのだということを。
「時間だ。私は仕事に戻らねばならない、仕事を終えたらまた戻ってくるから、その時に話そう」
言い残し、私は急いでサマンサのもとへと向かった。
サマンサの夫ジョーは、溢れ出る涙を拭おうともせず、掠れた声で何度も「愛してる」と呟き、そして横たわる彼女に口づけをする。
「本当に、彼と過ごせた時間は、わたしにとって最高の宝物だったわ」
サマンサは私の隣に進み出て、そしてベッドに横たわる自分と、夫であるジョーの姿を切なそうに見つめた。
すっかり変わり果てた息子をきつくその腕に抱きしめる父親の姿を私は直視することができず、目を背けたままその場に立っていた。
ルカの魂を冥界に送ったアニーが戻ってくると、「ジム! まだ此処にいたの?」とすっかり呆れた様子で言った。
「すまない、彼をなかなか説得できなくて……」
「ジム。説得など無用よ。一体どうしたと言うの? あなたらしくもない」
アニーの反応は当然と言えた。私たちの仕事は彼等の魂を冥界へ送り届けることだ。説得などしなくとも、強引に冥界へ届ける方法などいくらでもある。
「あなたがやらないのならば、後は私が引き受けるわ」
アニーはそう言うと、嫌がって暴れるロベルトの魂を強引に引き掴んだ。
「離してよ! 僕はパパたちから離れたくないんだ! 放っておいてよ!」
「ジム。あなたは私の代わりに、この街のディランシー総合病院という場所に行きなさい!」
自分の次のターゲットリストを私に手渡すと、アニーは有無を言わさずロベルトの魂を連れ去った。
アニーとロベルトが去った後も、私はしばらく何もできずにロベルトの父親を見ていただけだった。
変わり果てた我が子を抱きながら、その場に座り込んで冷たくなっていくその体を必死に暖めている。やがて騒ぎを聞き付けた母親と娘、さらに救急隊員や野次馬の群れで、辺りは騒然としていた。
「ロベルト!! ああっ……!! ああ!」
もはや彼はこの場にいないため、家族の声はロベルトに届かない。依然として息子の体に寄り添い泣き叫ぶ家族の姿に、私は胸が締め付けられる思いだ。
いたたまれなくなった私は、その場から逃げ出すように立ち去った。
アニーから指示を受けた病院へと赴く。マーケットで負傷した者たちが次々と担ぎ込まれ、病院内も事故現場と変わらないほど騒然としていた。
「やぁ、ジム。君のターゲットもこの病院に運ばれたのか?」
救急外傷室と書かれた部屋の前で同僚のスタンリーが話しかけてきた。
「いや、私のターゲットはあの場所で死んだよ。ここへ来たのは次のターゲットのためだ」
「人間の医療技術とやらの進歩のおかげで、私たちの仕事もスムーズには終わらなくなったよ。まぁ、彼に残された時間は、それほど長くないとは思うがね」
診療台に乗せられた血まみれのターゲットを見ながらスタンリーは呟いた。その周りを大勢の医者や看護師が取り囲み、慌ただしく処置をしている。
ターゲットは、必ずしも私たちの監視に入ってからすぐに死ぬ訳ではなかった。人間は医療分野での努力を怠らない。とくに救命には力を入れているようで専門の部署もあるほどだ。その恩恵か弊害か、おかげで既に肉体は死を迎えても、延命措置によって肉体から魂が出ることができないケースも最近では多々あることだ。
アニーから与えられたターゲットもその一人のようだ。こう言った場合、ターゲットにつきっきりとなり、長い期間身動きが取れなくなることもある。
私はリストに書かれたサマンサという名前の人物を目指した。彼女はICUと呼ばれる薄暗い部屋で、もはや自力での呼吸ができない状態に陥っていた。ベッドの周りには、自発呼吸を手助けするための管や、様々な装置が配置されている。まるで機械に覆いかぶされた肉の塊のように私の目には見えた。
ベッドのすぐ側には、彼女を痛々しい表情で見つめて立ち尽くす一人の年老いた男の姿があった。
サマンサの夫だろうか? 彼女を見る彼の目は、どこか激しい葛藤の中で、一つの決断を迫ろうという者のような目つきだった。
未だ肉体から離れないサマンサの魂に、私は直接呼びかける。
「サマンサ。聞こえるか? 私は死の使いだ。君の肉体はやがて死に、その時は私が君の魂を冥界へと送る」
私が呼びかけると、彼女の魂はゆっくりとその肉体から上半身を起こした。
「予想はしていたわ。ようやく、わたしも此処を離れる時が来たのね」
サマンサは私を見ると、ゆっくりとその視線を、自分を見つめる夫の方へと移した。
「辛くて長い闘病生活だったわ。薬の副作用で髪の毛もすべて抜けてしまったし、具合が悪くて、何日も眠れない日も続いた……」
闘病の辛さは私には判断しようがないが、彼女の眼の曇りからは、どれほど彼女が苦痛の中をもがき苦しんできたかは理解できた。
「では、君がまだその肉体にしがみついている理由は、やはり彼が原因か?」
私が訊ねると、彼女は照れ臭そうに笑って首を振った。
「彼というよりは、むしろわたしね。ジョーは今も悩んでいるわ……わたしをどうするべきかって」
私は彼女の言うことが理解できず、再び訊ねた。
「君はどうしたいんだ?」
すると彼女は、機械に囲まれて、ベッドで横たわる自分の肉体を見ながら話し始めた。
「わたしも、ジョーと同じだわ。決めかねてるの。彼から離れたくないという気持ちと、この闘病生活から早く解放されたいという気持ちで」
さらに彼女は再び夫の方へ目をやると、とても愛しそうな目で彼を見ながら話す。
「ずっと寄り添って、一緒に歩み続けた人生だった。彼なしの人生など考えられないほどに。だからこそ、迷ってしまうのよ。先が見えていても……きっと、ジョーも同じ気持ちなんだと思うわ」
人間の別れの際には、様々なものがある。ヴァレリー・クーパーのような場合も、絵描きのオーウェン・カーヴァーの場合も、そしてロベルト・ハモントの場合も。
突然襲い掛かる肉体の死に対しては、どう足掻いたところで、それを先伸ばすこともできずに、現実を受け入れるしかない。
しかしサマンサの場合は、既に肉体は死を迎える段階にあり、本人もその自覚はあるものの、人間の医療技術の進歩の恩恵なのか、未だに彼女はこの肉体から離れられないでいる。いやむしろ、その最期の判断を決めかねているんだろう。
「わたしは、ずっと彼の判断に従ってきた。彼の持つ哲学や思想に」
「ほう、彼は哲学者なのか?」
私が感心したように呟くと、彼女は笑って答えた。
「そうね、人間は誰もが皆、哲学者であり思想家だわ。わたしは、彼の持つ考え方や、話す言葉一つ一つを、彼と同じくらい愛しているの。そしてその最期の瞬間までも、わたしは彼の考え方に染まったままで終わりたいのよ」
彼女の夫は、やはり黙ったまま、ベッドに横たわるサマンサを見つめているだけだった。やがて、何を思ったのか、彼は彼女の頬に口づけをすると、静かにこの部屋を出ていった。
「彼は一体どこへ行ったんだ?」
そう訊ねる私に彼女は一言だけ、静かに呟いた。
「その時が来たわ」と。
しばらくすると、彼は数人の人間を引き連れて、再び彼女の前に姿を現す。白衣を着た医者と、女の看護師のようだった。
「マクレーンさん。奥さんのサマンサは、末期の悪性腫瘍のため、化学療法中に呼吸不全に陥り、このICUに移されました」
白衣を着た医者が落ち着いた声で説明を始める。その説明が向けられる先は、ジョー・マクレーン。
「それはわかってるんだ。でも、助かる見込みはあるんだろ? 希望はあるんだろ?」
ジョーは小さく言った。震える声で、医者の顔を見ることもなく、ただまっすぐサマンサだけを見続けながら。
「残念なことです。私たちも積極的に治療を続けて来ましたが、反応はあまりみられません。さらに悪いことに、奥さんは急性呼吸窮迫症候群と多臓器不全を合併しつつある状態です」
医者の言葉に、彼は一層思い詰めた表情になり、彼の頬には涙が流れ落ちていた。
「もう、駄目なのか? ほんの一欠けらでも、望みはないのか?」
啜り泣きながら、彼が医者に向かって訊ねると、医者は静かに肯いた。
「奥さんは、延命治療の書類にはサインしていませんでした。このまま、その時が来るまで機械に繋がれたまま、最期の時を迎えるのか、それとも機械を止めて、自然のままに任せて見送るのか、ご主人であるあなたに決めて頂きたいんです」
この薄暗い部屋の中、カーテンで囲われ、光を浴びながら横たわるサマンサの顔を優しく触ったジョーは、医者に向かって肯き、一言だけ呟いた。「楽にしてやってくれ」と。
医者は彼の言葉に肯くと、機械を止めて、彼女の喉奥まで達する管を彼女から引き抜き、そして別の機械で、彼女の様子を監視しているようだ。
「サム、君は十分に頑張ったよ。本当によく闘い抜いた。今まで沢山苦労をかけたね。私のことは気にせず、ゆっくり休めば良いんだよ」
彼がサマンサの頬に手を当て、親指で彼女の閉じた瞼をなぞるとき、突然私のすぐ側で誰かが名前を呼んだ。
「ジム?」
その聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはロベルトの公園で別れたケイトが不安そうに立っていた。
「どうしたの? あなたの身内の人もこの病院にいたの?」
ケイトは私の正体を知らない。だから、彼女が誤解するのには肯けることだが、それ以上に私は、この大きな街の中の、この限られた小さな部屋で、再び彼女に出くわしたことに驚きを隠せなかった。
「あなたのような人にも、訪ねて来る友人がいるのね」
サマンサは未だその肉体から上半身だけを起こしたままで、私に向かって言った。私がサマンサへ目を向けると、彼女は肯いて話した。
「わたしのことは心配要らないわ。どこへ行く理由もないもの」
サマンサの言葉に安心した私はケイトをこの場から離すために、少し移動しながら言う。
「ケイト、こっちへ……」
そして、彼等から少し離れた同じ室内の中、不安そうな眼差しで私の後をついて来るケイトに向かって私は訊ねた。
「どうした? なぜ君がこんな場所にいるんだ」
するとケイトは突然大粒の涙を零し始めた。重苦しい現実に溺れていくような、悲しげな表情だった。
「わたしのお母さんも事故に遭って、眠ったまま目を覚まさないの……あなたのお母さんもそうなの?」
私は自分でも驚くほど感情的になり、ケイトに訊ねた。
「君の母親⁉ どの人だ?」
この部屋に入ったとき、私以外の死の使いの存在は確認していない。しかし、万が一の場合を恐れ、私はケイトに母親のベッドへ案内するように話した。
ケイトは驚いた顔で私を見ると、静かに肯いて、母親のベッドまで私を案内してくれた。
ICUと呼ばれる部屋の一画で、ケイトの母親は、やはりサマンサと同じように沢山の機械に繋がれていた。
私はベッドに横たわる母親を中心起点として、辺りを注意深く探るが、仲間の気配は感じられない。つまりは、ケイトの母親はまだその時ではないということだ。
これはケイトにとって、とても良いニュースだと考えた私は、さっそくその事実を彼女に伝えた。
「ケイト。君の母親なら大丈夫だ」
そう告げたとき、サマンサのベッドがある辺りから、何か異常を訴える機械音が響いた。
「この音は? どうしたの?」
ケイトの声は怯えている。この音が一体何を意味するのか、私には瞬時に理解できた。この音は、つまりサマンサの肉体がその活動をすべて終わらせた知らせなのだということを。
「時間だ。私は仕事に戻らねばならない、仕事を終えたらまた戻ってくるから、その時に話そう」
言い残し、私は急いでサマンサのもとへと向かった。
サマンサの夫ジョーは、溢れ出る涙を拭おうともせず、掠れた声で何度も「愛してる」と呟き、そして横たわる彼女に口づけをする。
「本当に、彼と過ごせた時間は、わたしにとって最高の宝物だったわ」
サマンサは私の隣に進み出て、そしてベッドに横たわる自分と、夫であるジョーの姿を切なそうに見つめた。