それは私が気に入っていた絵描きの、その中でも私が最も好きだったフラミンゴのイラストだった。――それに気づいたとき、私は彼女に言い知れぬ親近感を覚え、自分に課せられた掟のことなどすっかり忘れ去った。絵描きについて彼女が知っていることをすべて聞きたいと思わず口をついた。
「その絵描きのことで何か知ってることがあるなら、私に教えてくれないか?」
彼女は目を丸くし、ひどく戸惑う様子を見せた。私の思い違いだったのだろうか。
「ごめんなさい……あの、わたしも彼のことはあまり知らなくて……名前だって今朝のニュースで知ったくらいだから……」
どうやら彼女も、私と同じ程度にしか知らないようだった。
私が落胆にも似た気持ちで黙っていると、彼女は、「それじゃ……」と呟き、私に向かって手を挙げた。何やら落ち着かない表情をしている。
何か心配事でもあるのか?
それともまた別の理由で落ち着かないのか?
私は、かつて出会った能力者、ヴァレリー・クーパーの初めての反応を思い起こしていた。この少女も、今はまだ能力に気が付いてないようだが、もしかすると彼女の本能が私という存在への違和感に警鐘を鳴らしているのかもしれない。
折角、人間と会話をする幸運に恵まれたというのに、私の正体を知れば、彼女もヴァレリーと同じように私との会話を拒絶してしまうだろう。
実際、私は人間という生物にとても興味があったし、彼等の思想や行動にも興味があった。しかしそれらを知るためには、やはり人間から話を聞く意外に解決策は見出せないと感じている。
私は注意深く彼女を観察し、そしてなるべく彼女を刺激しないように、次の言葉を待った。
「あの……まだ何か?」
少女が続く言葉を口にしてくれたとき、私はとても嬉しく思えた。
「実は君に訊ねたいことがあるんだ」
私がもっとも解らないのは、ロベルトが毎日過ごすこの公園のことだ。彼の父親はなぜ、街の他の公園と代わり映えもしないこの公園を、『彼の公園』、つまりは『坊主の公園』と表現するのか。
ロベルト自身がこの公園を気に入ってるからなのか? それとも、この公園そのものが、息子のために両親が与えた公園なのか?
とにかく、何かしらのロベルトに対する愛情表現なのだろうが、私にはそれが理解できないでいる。それを解することができれば、いつしかヴァレリー・クーパーが私に言ったあの言葉の意味が隠されている部屋の扉くらいは開けることができるような気がした。
私はさっそく、芝生の上でくつろぐロベルトの家族を指差し、期待を胸に、少女に訊ねた。
「あそこの二人の両親が、自分たちの子供に向かって言うんだ。この公園は『坊主の公園』だと。君はなぜこの公園が『坊主の公園』と呼ばれるのか、その訳を知らないか?」
すると彼女は少し戸惑った顔で私を見ると、口を開いた。
「ひょっとして、おじさんは観光客か何か?」
どうやら彼女は、私のことを土地勘のない旅行者だと勘違いしている。そしてさらに続けた。
「『坊主の公園』なんていう公園は知らないけど、この公園はロベルト・クレモント・パークって名前よ」
その答えを耳にしたその瞬間、私の中にあった疑問はすべて解決した気分になった。例えるなら、真っ黒で分厚い雲のような塊が、一瞬で消し飛んで行くような爽快感だった。
「そうか! そう言うことだったのか! それで『坊主の公園』なんだ!」
私自身も驚くほど、私は人間のように興奮し、そして喜んでいる。
『坊主の公園』それはつまり、ロベルトの公園。そして彼女が教えてくれた、この公園の名前が『ロベルト・クレモント・パーク』
ロベルトの公園だったのだ。息子と同じ名前の公園を、両親も息子と同じように愛情を持ってそう呼んでいた訳だ。
「ありがとう。君のお陰で……なんと言うか……その……」
まだ少し興奮し落ち着かなかったが、とにかくこの少女に感謝の気持ちを伝えたかった。しかし、いざそれらを言葉にしようとすると、言葉に詰まり、表現したい言葉が見つからない。
「ひょっとして、すっきりしたってこと?」
私の慌てる様子が可笑しかったのか、彼女は首を傾げ、微笑みながら私の言いたかった気持ちを彼女なりの言葉で見事に表現してくれた。
「それだ」
私は小さく肯き、彼女がするのと同じように微笑みを返した。
死の使いとしての掟に背いて彼女と言葉を交わしただけで、私は言葉にならないほどの喜びを覚え、自分の中の何かが変わっていくのを感じる。
アダムが口にした禁断の果実のように、この少女との関わりが私に何を与え、そして何を失わせていくのか? そう考えると、私は人間が持つ〝不安〟という感情が自分の中に芽生えていたことを知る。
人間の魂が自らの肉体から剥がれ落ちる時に伝わってくるあの感覚。――それが恐怖心というものだ。彼等の魂に触れるたび、私は何度もそれを体験してきた。
それでも、私が彼等のことを理解したいという気持ちは渇いていくばかり。目の前の少女は、いつの間にか私への警戒心をすっかり解いたような笑顔で私のことを見ていた。
「私の名前はジムだ。良かったら君の名前を教えてくれないか?」
目の前の少女は、きっと、私の知りたい答えを持っているに違いない。そう感じた私は、自ら歩み寄り彼女に訊いた。
「あぁごめんなさい、わたしの名前はケイトよ。この辺りのグリーン通り沿いのアパートに、お母さんと弟と住んでるの」
ケイトがそう説明した瞬間、彼女は突然何かを思い出したように慌て始め、そわそわと落ち着かないそぶりで大きな声を出す。
「いけない! すっかり忘れてたわ! わたし、チク・タクを置いてきたままだった! 迎えに行かないと……」
話し終わらないうちに、彼女は既に走り出していた。
息子にチク・タクなどという名前をつけるなんて、なんとも変わった親だとは思ったが、ケイトは最後の私の問い掛けなど、最早、心此処に在らずで、聞こえてすらいなかったのだろう。
公園の芝生の上を、ものすごい勢いで走っていくケイトの姿がみるみる小さくなっていく。チク・タクなんていう名前の弟にも会ってみたかったが、私は今、勤めを果たす最中で、ロベルトから離れることはできない。
私はケイトの姿が見えなくなるまで見送ると、振り返って再びロベルトを見守った。
普段、遊び慣れない遊具や、普段一緒に来ることのない父親や姉の存在にはしゃぎ疲れたのか、ロベルトは生い茂る緑の芝生の上、父親の腕の中でぐっすりと眠り込んでいる。
陽の光が木々の隙間をかい潜って彼の顔を照らすと、ロベルトは眩しそうに光を手で追い払う仕草を見せ、さらに父親の胸に顔を埋めて眠った。
「坊主が眠ってる間に、マーケットに移動しようか?」
父親の呼びかけに、それぞれは立ち上がって、乗って来た車を停めた駐車場へと歩き出した。
彼等が次の目的地であるイタリアンマーケットと呼ばれる場所に到着したのは、『坊主の公園』から車でおよそ30分ほど行った所だった。
大きな通りの脇にある料理店の駐車場に車を停めた彼等は、その料理店には入らず、そのまま脇道へと歩き出す。脇道を抜けた先には、数々の店が窮屈そうに建ち並び、マーケットに訪れる大勢の客たちの歩みを止めていた。
マーケット内に響く雑踏と熱気、人々の騒ぐ声の中でも、ロベルトは子守唄でも聞いているように、すやすやと穏やかな顔で父親の腕に抱かれたままだ。
「日曜にもなると、やっぱり凄い人ね」
人の波にさらわれないよう、母親は娘の手をしっかりと握りマーケット内の品物をじっくりと見回している。
「こりゃ、車を停めたイタリア料理店でランチをとるのが無難だったかもな?」
彼らはロベルトを気遣いながらマーケットの奥へと進んでいった。
マーケット内の道路は狭く、無造作に駐車された車と、道路へとはみ出して歩く通行人、車から鳴るラッパの音と、マーケット内の客の罵声で、こちらも賑わいを見せている。
マーケット内に駐車された車の中には、綿飴を売る車や、ドーナツを売る車。日本からやって来たというテリヤキ・ボールと言う名前の菓子を売る車にも人々の群れが押し寄せていた。
「ねぇ! ママ! あのお店!」
突然娘が目を輝かせながら母親の手を引っ張り、一軒の小さな店を指差した。その店の軒先には、ガラス細工の小物や、革細工などが所狭しと並べられている。
「あら素敵、イタリアの雑貨屋さんね」
母親は娘の手を引いて、吸い寄せられるように、人混みの中から飛び出していった。父親は、そんな彼女たちを見て不服そうに口を尖らせた。
「おいおい⁉ 俺たちはもう腹ぺこだよ? そんなの後回しで良いじゃないか」
「ごめん! 少しよ? 少し。ちょっと見てすぐに戻ってくるから、その辺りで待ってて!」
旦那の不満など特に気にも留めない様子で、母親と娘は楽しそうに店内へと消えていった。
「まったく、うちの女どもときたら。なぁ?」
父親は眠るロベルトの頬を撫でた。しばらくその場で待っていると、やがて目を覚ましたロベルトが父親の頬をパチパチと叩きながらぐずつき、地面へと降ろされる。
「おはよう、坊主! ぐっすり眠ってたな?」
綻んだ笑顔でロベルトを見つめながら、暇を持て余していた父親は嬉しそうに話しかける。
公園で遊び疲れて眠りから覚めると、公園とは違う場所にいる――大勢の賑わう人々、そしてどこからか漂って来る美味しそうな匂いに、ロベルトは興奮した様子で父親に訴える。
「パパ! ごはん! パパ!」
「そうだよな! 俺たちは腹ぺこだよな! よし! 女どもが勝手に楽しくショッピングするなら、俺たちは男同士で勝手に腹ごしらえだ!」
父親が自分の腹を軽快に叩くと、ロベルトも嬉しそうに父親の真似をして腹を叩いた。ロベルトが父親に両腕を伸ばす。再び抱き上げられ、肩車をしてもらったロベルトは、大きな大人たちよりも一つ頭の出た見晴らしの良い景色にさらに興奮してはしゃいでいた。
「さて、ロベルト艦長? まずはどこから進撃いたしますか?」
二人は人混みの中を掻き分けながら進む。喜ぶロベルトに応えて人の波を巧みにすり抜けるその姿は、正に航海するロベルトの船のようだった。
どこからか漂ってきて、彼の嗅覚を刺激する匂いに反応するロベルトは、父親の髪の毛を掴みながら奇声をあげると、父親は堪らず足を止めて言った。
「痛い! 痛い! ロベルト。そんなに引っ掴んだら、俺の残り僅かな髪の毛がなくなっちまうよ」
「パパ! ごはん! あっちあっち! たべる!」
嬉しそうに叫ぶロベルトの指差す方向には色鮮やかなイタリアカラーの露店が大勢の客に取り囲まれていた。
「さすが俺の息子だけあるな! 美味そうな物の匂いを嗅ぎ分ける天才だ」
ロベルトを肩車しながら、父親は色鮮やかなイタリアカラーの露店へと歩き出した。石造りの歩道にある、縁石の上から人だかりをかい潜るように露店の中を覗き込むと、中にはイタリア人らしい男性店員が忙しそうに、狭いテントの中を動き回っている。
「何だろうな? 何を食わせてくれる店かな? 海老の良い匂いはしてくるんだけどな?」
父親はロベルトに訊ねるようにぶつぶつとつぶやいた。父親はロベルトを肩から降ろし、縁石の上に座らせると、列に並んでいた二人の女性客に話しかけた。
「あの、すみません。この店は何を売っている店ですか?」
訊ねるが、ふたりの女性は弾ませた会話を続けることに夢中で、なかなか彼の声に気付かない。
「あの……」
再びロベルトの父親が口を開こうとすると、女性客の一人が呼び掛けに気が付いた。
「あら? ごめんなさいね。私たち、すっかり会話に夢中になってしまって」
振り返った女性客のうち、一人は若い女性、もう一人は母親ほど歳の離れた女性だった。
「こちらこそ、すみません。ところで、このお店は一体何を売ってるんですか?」
「なんでも、イタリア風チーズステーキだそうですよ。珍しいから、娘のお土産に一つ買って行こうと思いまして」
若い方の女性がそう説明すると、今度は年老いた女性が補足するように続けた。
「私たちも、普段はこの道をまっすぐに行った『ジェノ』でチーズステーキを食べるんですけど、イタリア風チーズステーキなんて珍しいでしょ? だから今日は彼女と話し合って、このお店でランチを取ろうって話になったんですよ」
女性客の話を聞いてすっかりチーズステーキが食べたくなったのか、父親は縁石に座らせたロベルトに向かって笑いながら話しかけた。
「聞いたか? 坊主! イタリア風チーズステーキだってさ。よし、俺たちも食べてみようじゃないか!」
「その絵描きのことで何か知ってることがあるなら、私に教えてくれないか?」
彼女は目を丸くし、ひどく戸惑う様子を見せた。私の思い違いだったのだろうか。
「ごめんなさい……あの、わたしも彼のことはあまり知らなくて……名前だって今朝のニュースで知ったくらいだから……」
どうやら彼女も、私と同じ程度にしか知らないようだった。
私が落胆にも似た気持ちで黙っていると、彼女は、「それじゃ……」と呟き、私に向かって手を挙げた。何やら落ち着かない表情をしている。
何か心配事でもあるのか?
それともまた別の理由で落ち着かないのか?
私は、かつて出会った能力者、ヴァレリー・クーパーの初めての反応を思い起こしていた。この少女も、今はまだ能力に気が付いてないようだが、もしかすると彼女の本能が私という存在への違和感に警鐘を鳴らしているのかもしれない。
折角、人間と会話をする幸運に恵まれたというのに、私の正体を知れば、彼女もヴァレリーと同じように私との会話を拒絶してしまうだろう。
実際、私は人間という生物にとても興味があったし、彼等の思想や行動にも興味があった。しかしそれらを知るためには、やはり人間から話を聞く意外に解決策は見出せないと感じている。
私は注意深く彼女を観察し、そしてなるべく彼女を刺激しないように、次の言葉を待った。
「あの……まだ何か?」
少女が続く言葉を口にしてくれたとき、私はとても嬉しく思えた。
「実は君に訊ねたいことがあるんだ」
私がもっとも解らないのは、ロベルトが毎日過ごすこの公園のことだ。彼の父親はなぜ、街の他の公園と代わり映えもしないこの公園を、『彼の公園』、つまりは『坊主の公園』と表現するのか。
ロベルト自身がこの公園を気に入ってるからなのか? それとも、この公園そのものが、息子のために両親が与えた公園なのか?
とにかく、何かしらのロベルトに対する愛情表現なのだろうが、私にはそれが理解できないでいる。それを解することができれば、いつしかヴァレリー・クーパーが私に言ったあの言葉の意味が隠されている部屋の扉くらいは開けることができるような気がした。
私はさっそく、芝生の上でくつろぐロベルトの家族を指差し、期待を胸に、少女に訊ねた。
「あそこの二人の両親が、自分たちの子供に向かって言うんだ。この公園は『坊主の公園』だと。君はなぜこの公園が『坊主の公園』と呼ばれるのか、その訳を知らないか?」
すると彼女は少し戸惑った顔で私を見ると、口を開いた。
「ひょっとして、おじさんは観光客か何か?」
どうやら彼女は、私のことを土地勘のない旅行者だと勘違いしている。そしてさらに続けた。
「『坊主の公園』なんていう公園は知らないけど、この公園はロベルト・クレモント・パークって名前よ」
その答えを耳にしたその瞬間、私の中にあった疑問はすべて解決した気分になった。例えるなら、真っ黒で分厚い雲のような塊が、一瞬で消し飛んで行くような爽快感だった。
「そうか! そう言うことだったのか! それで『坊主の公園』なんだ!」
私自身も驚くほど、私は人間のように興奮し、そして喜んでいる。
『坊主の公園』それはつまり、ロベルトの公園。そして彼女が教えてくれた、この公園の名前が『ロベルト・クレモント・パーク』
ロベルトの公園だったのだ。息子と同じ名前の公園を、両親も息子と同じように愛情を持ってそう呼んでいた訳だ。
「ありがとう。君のお陰で……なんと言うか……その……」
まだ少し興奮し落ち着かなかったが、とにかくこの少女に感謝の気持ちを伝えたかった。しかし、いざそれらを言葉にしようとすると、言葉に詰まり、表現したい言葉が見つからない。
「ひょっとして、すっきりしたってこと?」
私の慌てる様子が可笑しかったのか、彼女は首を傾げ、微笑みながら私の言いたかった気持ちを彼女なりの言葉で見事に表現してくれた。
「それだ」
私は小さく肯き、彼女がするのと同じように微笑みを返した。
死の使いとしての掟に背いて彼女と言葉を交わしただけで、私は言葉にならないほどの喜びを覚え、自分の中の何かが変わっていくのを感じる。
アダムが口にした禁断の果実のように、この少女との関わりが私に何を与え、そして何を失わせていくのか? そう考えると、私は人間が持つ〝不安〟という感情が自分の中に芽生えていたことを知る。
人間の魂が自らの肉体から剥がれ落ちる時に伝わってくるあの感覚。――それが恐怖心というものだ。彼等の魂に触れるたび、私は何度もそれを体験してきた。
それでも、私が彼等のことを理解したいという気持ちは渇いていくばかり。目の前の少女は、いつの間にか私への警戒心をすっかり解いたような笑顔で私のことを見ていた。
「私の名前はジムだ。良かったら君の名前を教えてくれないか?」
目の前の少女は、きっと、私の知りたい答えを持っているに違いない。そう感じた私は、自ら歩み寄り彼女に訊いた。
「あぁごめんなさい、わたしの名前はケイトよ。この辺りのグリーン通り沿いのアパートに、お母さんと弟と住んでるの」
ケイトがそう説明した瞬間、彼女は突然何かを思い出したように慌て始め、そわそわと落ち着かないそぶりで大きな声を出す。
「いけない! すっかり忘れてたわ! わたし、チク・タクを置いてきたままだった! 迎えに行かないと……」
話し終わらないうちに、彼女は既に走り出していた。
息子にチク・タクなどという名前をつけるなんて、なんとも変わった親だとは思ったが、ケイトは最後の私の問い掛けなど、最早、心此処に在らずで、聞こえてすらいなかったのだろう。
公園の芝生の上を、ものすごい勢いで走っていくケイトの姿がみるみる小さくなっていく。チク・タクなんていう名前の弟にも会ってみたかったが、私は今、勤めを果たす最中で、ロベルトから離れることはできない。
私はケイトの姿が見えなくなるまで見送ると、振り返って再びロベルトを見守った。
普段、遊び慣れない遊具や、普段一緒に来ることのない父親や姉の存在にはしゃぎ疲れたのか、ロベルトは生い茂る緑の芝生の上、父親の腕の中でぐっすりと眠り込んでいる。
陽の光が木々の隙間をかい潜って彼の顔を照らすと、ロベルトは眩しそうに光を手で追い払う仕草を見せ、さらに父親の胸に顔を埋めて眠った。
「坊主が眠ってる間に、マーケットに移動しようか?」
父親の呼びかけに、それぞれは立ち上がって、乗って来た車を停めた駐車場へと歩き出した。
彼等が次の目的地であるイタリアンマーケットと呼ばれる場所に到着したのは、『坊主の公園』から車でおよそ30分ほど行った所だった。
大きな通りの脇にある料理店の駐車場に車を停めた彼等は、その料理店には入らず、そのまま脇道へと歩き出す。脇道を抜けた先には、数々の店が窮屈そうに建ち並び、マーケットに訪れる大勢の客たちの歩みを止めていた。
マーケット内に響く雑踏と熱気、人々の騒ぐ声の中でも、ロベルトは子守唄でも聞いているように、すやすやと穏やかな顔で父親の腕に抱かれたままだ。
「日曜にもなると、やっぱり凄い人ね」
人の波にさらわれないよう、母親は娘の手をしっかりと握りマーケット内の品物をじっくりと見回している。
「こりゃ、車を停めたイタリア料理店でランチをとるのが無難だったかもな?」
彼らはロベルトを気遣いながらマーケットの奥へと進んでいった。
マーケット内の道路は狭く、無造作に駐車された車と、道路へとはみ出して歩く通行人、車から鳴るラッパの音と、マーケット内の客の罵声で、こちらも賑わいを見せている。
マーケット内に駐車された車の中には、綿飴を売る車や、ドーナツを売る車。日本からやって来たというテリヤキ・ボールと言う名前の菓子を売る車にも人々の群れが押し寄せていた。
「ねぇ! ママ! あのお店!」
突然娘が目を輝かせながら母親の手を引っ張り、一軒の小さな店を指差した。その店の軒先には、ガラス細工の小物や、革細工などが所狭しと並べられている。
「あら素敵、イタリアの雑貨屋さんね」
母親は娘の手を引いて、吸い寄せられるように、人混みの中から飛び出していった。父親は、そんな彼女たちを見て不服そうに口を尖らせた。
「おいおい⁉ 俺たちはもう腹ぺこだよ? そんなの後回しで良いじゃないか」
「ごめん! 少しよ? 少し。ちょっと見てすぐに戻ってくるから、その辺りで待ってて!」
旦那の不満など特に気にも留めない様子で、母親と娘は楽しそうに店内へと消えていった。
「まったく、うちの女どもときたら。なぁ?」
父親は眠るロベルトの頬を撫でた。しばらくその場で待っていると、やがて目を覚ましたロベルトが父親の頬をパチパチと叩きながらぐずつき、地面へと降ろされる。
「おはよう、坊主! ぐっすり眠ってたな?」
綻んだ笑顔でロベルトを見つめながら、暇を持て余していた父親は嬉しそうに話しかける。
公園で遊び疲れて眠りから覚めると、公園とは違う場所にいる――大勢の賑わう人々、そしてどこからか漂って来る美味しそうな匂いに、ロベルトは興奮した様子で父親に訴える。
「パパ! ごはん! パパ!」
「そうだよな! 俺たちは腹ぺこだよな! よし! 女どもが勝手に楽しくショッピングするなら、俺たちは男同士で勝手に腹ごしらえだ!」
父親が自分の腹を軽快に叩くと、ロベルトも嬉しそうに父親の真似をして腹を叩いた。ロベルトが父親に両腕を伸ばす。再び抱き上げられ、肩車をしてもらったロベルトは、大きな大人たちよりも一つ頭の出た見晴らしの良い景色にさらに興奮してはしゃいでいた。
「さて、ロベルト艦長? まずはどこから進撃いたしますか?」
二人は人混みの中を掻き分けながら進む。喜ぶロベルトに応えて人の波を巧みにすり抜けるその姿は、正に航海するロベルトの船のようだった。
どこからか漂ってきて、彼の嗅覚を刺激する匂いに反応するロベルトは、父親の髪の毛を掴みながら奇声をあげると、父親は堪らず足を止めて言った。
「痛い! 痛い! ロベルト。そんなに引っ掴んだら、俺の残り僅かな髪の毛がなくなっちまうよ」
「パパ! ごはん! あっちあっち! たべる!」
嬉しそうに叫ぶロベルトの指差す方向には色鮮やかなイタリアカラーの露店が大勢の客に取り囲まれていた。
「さすが俺の息子だけあるな! 美味そうな物の匂いを嗅ぎ分ける天才だ」
ロベルトを肩車しながら、父親は色鮮やかなイタリアカラーの露店へと歩き出した。石造りの歩道にある、縁石の上から人だかりをかい潜るように露店の中を覗き込むと、中にはイタリア人らしい男性店員が忙しそうに、狭いテントの中を動き回っている。
「何だろうな? 何を食わせてくれる店かな? 海老の良い匂いはしてくるんだけどな?」
父親はロベルトに訊ねるようにぶつぶつとつぶやいた。父親はロベルトを肩から降ろし、縁石の上に座らせると、列に並んでいた二人の女性客に話しかけた。
「あの、すみません。この店は何を売っている店ですか?」
訊ねるが、ふたりの女性は弾ませた会話を続けることに夢中で、なかなか彼の声に気付かない。
「あの……」
再びロベルトの父親が口を開こうとすると、女性客の一人が呼び掛けに気が付いた。
「あら? ごめんなさいね。私たち、すっかり会話に夢中になってしまって」
振り返った女性客のうち、一人は若い女性、もう一人は母親ほど歳の離れた女性だった。
「こちらこそ、すみません。ところで、このお店は一体何を売ってるんですか?」
「なんでも、イタリア風チーズステーキだそうですよ。珍しいから、娘のお土産に一つ買って行こうと思いまして」
若い方の女性がそう説明すると、今度は年老いた女性が補足するように続けた。
「私たちも、普段はこの道をまっすぐに行った『ジェノ』でチーズステーキを食べるんですけど、イタリア風チーズステーキなんて珍しいでしょ? だから今日は彼女と話し合って、このお店でランチを取ろうって話になったんですよ」
女性客の話を聞いてすっかりチーズステーキが食べたくなったのか、父親は縁石に座らせたロベルトに向かって笑いながら話しかけた。
「聞いたか? 坊主! イタリア風チーズステーキだってさ。よし、俺たちも食べてみようじゃないか!」