アニーから受け取ったリストの名前はロベルト・ハモンド。スプリングガーデンと呼ばれるエリアに住んでいる三歳になったばかりの男児の名前だった。
 彼には健康的な両親と六歳離れた姉がいる。たった三年という短い期間で死を迎えるということは、病気が原因か、それとも不慮の事故によるものか?
 どちらにしろ、彼の寿命が残り僅かなのは間違いない。
 私は、彼等の住まいの中に入り、ロベルトの側で監視を続けた。彼等は夕食の最中だったが、ロベルトは目を擦りながら、今にも眠ってしまいそうに前後に頭を揺らしている。
「ロベルトの奴、今日は随分と眠そうじゃないか?」
 今にも眠りそうな息子の姿を見ながら、父親が嬉しそうに妻へと話しかけた。
「そうよ! なにせ、今日はずっと大雨が降ってたでしょ? だから、いつも行く公園にも行けず、お昼寝もしてくれなくって。お陰であたしは一日中、ロベルトのお絵かきを手伝ったり、絵本を読まされたりでクタクタよ!」
 彼の母親も、その言葉の持つ意味合いとは裏腹に、とても幸せそうな笑顔で息子の頬を指でなぞっている。これが幸福な家庭の食事風景というものなんだろうか? 
 六つ離れた彼の姉は、弟の話題ばかりで構ってもらえない苛立ちを食事にぶつけているが、彼の両親は、そんな娘の態度にも愛情に溢れた眼差しで、優しく諭しているように見えた。
「ロベルト? ほら、起きなさい。沢山食べないと、パパみたいに大きくなれないぞ?」
 優しく揺すり起こし、父親はスプーンにすくった食事をロベルトの口へと運んだ。ロベルトはそれを煩わしそうに口の中に含むと、また眠そうに目を擦り、頭を揺らす。
「いつもは公園で遊んだ後にお昼寝するのだけれど、今日はずっと起きていたから……」
 母親が小さな声で父親へと話しかける。
「それにお絵かきにすごく熱中していたから、きっといつもより疲れてるんだわ」
 母親は優しく彼を抱き上げると、「ベッドに寝かせて来るわね」と言って寝室へ向かった。
 父親は、連れていかれる息子の姿を寂しそうに見つめ、息子のためにスプーンにすくった食事のかけらを自分の口の中にほうり込んで苦い顔をしていた。
 母親に抱かれてロベルトが部屋に入る。まだほんのりとペンキの香りが漂っている、青色で丁寧に塗られた部屋だった。真ん中にベッドが用意されており、その中には奇妙な形の人形がたくさん並んでいた。
 壁には大きな本棚があり、立派な図鑑がギッシリと詰まっていた。まだ読み書きもできないロベルトには早過ぎるだろう。隣に置かれた小さな棚には、子供のロベルトが見るのに相応しい絵本が、やはり窮屈そうに身を寄せあっている。
 野球のミット、バスケットボールにサッカーボール、壁にかけられた小さなブレザー――それらはみな新品で、やがて成長したロベルトが使用することを見越して用意されたものだろうが、これらすべての道具はまもなく無用の長物となる。
 彼が一切その手を触れぬままにこの世を去ろうとしていることなど、この家に住む誰も予測していないだろう。
 暗い室内で、母親は子守唄を唄い、ロベルトの体を優しく揺らした。やがてゆっくりと動きを止め、歌を唄うのをやめると、息子をベッドの中に滑り込ませ、愛しそうに頬に口づけをする。ベッド脇に置かれたオルゴールを手に取ってネジを巻いてから、そっとテーブルに戻す。立ち上がり、部屋から出てそっと扉を閉めると立ち去っていった。
 明かりの灯らないひっそりとした部屋に、オルゴールの音色が響いている。私は暫くの間、その美しい音色に耳を傾けながら目を閉じた。
「なぁ? やがて君の魂がその肉体から出ていくとき、彼等は君に対して、一体どんな感情を抱くんだろうか?」
 私は独り言のようにロベルトに訊ねた。もちろん、彼には私の声は聞こえないし、彼が私の質問に答えるはずもないことを承知の上でだ。
「そして、君自身は、彼等に対してどんな感情を抱くんだろうか?」
 やがて、回転を続けていたオルゴールのネジがゆっくりと止まる。美しい音色はこの部屋から取り払われて、静寂と暗闇だけがこの小さな部屋に残った。

   †

 翌日、大雨はすっかり上がり、外は気持ちの良い青空が広がっていた。
「ロベルトー? ロベルトー?」
 朝鳥が楽し気に囀《さえず》るような心地よい音で名を呼びながら母親が部屋へと入ってくる。ロベルトの頬にキスをして、彼をベッドから抱え上げた。
「さぁ、気持ちの良い朝よ。どうしてもお前の顔を見なくちゃ、パパが仕事に行きたくない! って言うから、愛想笑いで構わないからしてやって」
 母親は、ロベルトを抱きあげると部屋を出ていった。
「おぉ! 起きてくれたか、坊主! お前が起きないから、今から会社に電話して、パパ、仕事を辞めるところだったよ」
 本気なのか冗談なのかは解らないが、とにかく彼の父親は、豪快に笑いながら母親からロベルトを奪い取ると、母親と同じように頬にキスをする。
「あらあら。あなたのお陰で、パパも新たな職探しをしなくてすみそうよ」
 笑いながら、母親はロベルトの頭を愛しそうに撫でた。どうやら本気だったようだ。
「さぁ、次はあなたの番よ、パパにキスしてあげて」
 母親が娘に向かって優しく言うと、娘は父親に歩み寄り、彼の頬にキスをした。
 人間の愛情表現には、幾つかの仕草が在るのだが、キスやハグといった類はその代表のようだ。異性や同性、年代に関わらず、親から子へ、子から親へ、恋人同士や、親しい友人にも、彼等はそうした皮膚や言葉の接触によって相手に思いを伝える。
 こうした行動は人間に限った特別なものではない。この世界に生きる者たちすべてが持っている。中には種族の壁すら乗り越えて、愛情を示す者もいる。
「ロベルト、今日の予定は?」
 父親が愛しそうに彼の頭を撫でながら訊ねると、まだ言葉を話せない彼の代わりに母親が答えた。
「今日こそは、公園に行って遊ぶのよね? あなたの大好きな公園に」
 母親は、父親に抱かれたままのロベルトの両手をつかみ、操り人形のように彼の手を操った。
「あぁ! 坊主の公園のことだな? しっかり遊んで、しっかり昼寝して、今日こそはパパと一緒に風呂に入ろうな!」
 このエリアに、そのような名前を持つ公園があっただろうか。『坊主の公園』と呼ばれる公園は聞いたことがなかったが、会話の内容は私にも理解できた。
「じゃあ、行って来るよ」
 父親は、母親の腕に息子を優しく戻すと、彼女に口づけし、娘と共に家を出ていった。母親はロベルトに食事を与えてから、暫く彼を休ませ、自分も身支度を整えると、彼を連れて家を出た。『坊主の公園』と呼ばれる場所へ行くんだろう。
 彼等について公園に到着する。水遊び場に遊具の数々、バスケットコートに野球場。確かに広々とはしていたが、街にある他の公園との大差はなく、何かこれといった特徴があるようには見えなかった。
 広場では、幼い子供たちが楽しそうに遊んでいる。母親と呼ばれる世代も様々で、まだ年若い者から老いた者まで。しかし、その誰もが子供たちを愛しそうな目で見つめ、見守っていた。
「さぁ! ロベルト。今日はどこから行く? 砂場? ブランコ? それとも滑り台?」
 母親の腕から降ろされたロベルトが、おぼつかない足取りでヨタヨタと歩き出す。母親はそんな息子を後ろからゆっくりと追った。ロベルトの意見を尊重し、彼が選んだ遊具で遊ばせるのが目的だろう。
 ロベルトが水の音色に誘われるように噴水に向かって歩き出すと、母親は、
「水遊びは、まだ少し寒いんじゃないかしら? 風邪でも引いたら大変よ」
 とロベルトの進路を遮り、他の遊具で遊ぶように促した。
 ロベルトの日常は、単調で単純なものだった。毎朝、母親か父親のどちらかが彼をベッドから抱き上げ、そして娘と父親が家を出ると、彼は母親の助けを得て食事をとり、昼前には『坊主の公園』へと向かう。昼過ぎに家に戻ると、再び母親の助けを借りて食事を済まし、昼寝をする。
 その繰り返しの中で、ロベルトは莫大な量の知識や経験を積み重ねる。そのたびに、彼は刺激によってひどく泣いたり笑ったりをした。砂場の砂を口に入れると不快だということ、芝生の上を裸足で歩くのは心地好いこと、虫を触った時の感触が楽しかったり、いつも自分の側にいる母親に注目されたいと願ったりすること。
 とにかく見る物、触る物、感じる物すべてが、膨大な知識や経験となり、彼の頭の中に流れ込んでいた。毎日同じような一日でも、彼にとっては毎日がまるで違う新鮮な日々だった。

 その日は、朝から誰一人として忙しなく家の中を歩き回らない休日だった。いつもよりも遅く起きた父親が、娘と共にロベルトの部屋へとやって来ると、彼を抱き上げ、食卓へと向かった。
 食事中、父親が閃いたような顔つきで嬉しそうに話す。
「今日は皆で坊主の公園に行かないか? その後、イタリアンマーケットでランチを取るのはどうだ?」
 父親の申し出に、娘は喜んだ。それを見たロベルトも、意味も解らずに嬉しそうに手を叩いて喜んでいた。
「よかったわね、ロベルト! 今日は皆で公園にお出かけよ」
 支度を整えた彼等は車に乗り込み、『坊主の公園』へと向かった。到着し、車を降りると、その日の公園は人で溢れていた。どうやら、平日よりも休日の方がはるかに利用者が多いようだ。
 父親の手を握ってロベルトは歩き回った。砂場で、姉と山を作ってトンネルを掘った。それらの作業は、彼にとってとても刺激的だったし、父親に背中を押されるブランコでは、母親に押される時では見られないほど、遠くの景色が見られた。
 普段、母親とは絶対に遊ぶことのないシーソーに母親と一緒に乗ったとき、初めてこの遊具の遊び方を知ったし、お尻に感じた衝撃も、彼にはまた特別な経験だった。
 毎日通う公園なのに、なぜか彼の頭の中では、普段自分が遊んでいる公園じゃないような錯覚に陥るほど、彼は興奮し、そしてその違いを探し始める。
 普段、この場所では見掛けない家族の顔。
 普段、一人で夢中になって遊ぶ遊具に、家族と一緒になって遊べる幸せ。
 彼の家族にとって、ロベルトの存在は特別な物だったのは変わりないが、ロベルトにとって、家族という存在が、特別だと認識し始めたのは、今日が初めての日だ。
 もちろん、これらのことが彼の頭の中で理解され整理されている訳ではないが、彼が感じる感覚だけは、彼を通して、私も感じることができる。
 だが、彼や彼のその家族はまだ知らない。
 ロベルトに残された時間が残り僅かなことを。
 私は少し離れた場所から彼のことを見守っていた。
「ハーイ……」
 傍から子供の声が聞こえたが、私は初め、その声が私に向けられたものだとは認識できなかった。すると、一人の少女が私の正面に現れ、明らかに私の顔を見ながら言葉を発したように見えた。
「あの……こんにちは……」
 不意を突かれた気分になり、私は慌てた。自分の近くに、私と同じくらいの背丈の人間がいるのではないかと辺りを見渡したが、やはり、私以外には誰もいなかった。
 彼女は一体何者なのか?
 私たちと同じ死の使いか、それともまた別の存在なのか? 
 半信半疑で少女に訊ねる。
「私か?」
 少女は戸惑った顔をしながら肯くと、恐る恐る口を開いた。
「突然話しかけてごめんなさい、あの、わたし……前におじさんのこと、見掛けたんです。大雨の日の車の衝突現場で……」
 少女が私に向かってそう話した瞬間、私は、あの大雨の日に冥界へと魂を送った絵描きのことを思い出した。そして、あのとき、私に向けられていた少女の視線。
 そう、彼女はあの時の能力者だった。
「それで? 私に何か用か?」
 私たちの仕事に存在する、絶対的なルール。
 決して人間に干渉してはならない。
 この言葉が、私の脳裏に激しく響いていたが、私は私自身の好奇心を抑えられずに言葉を返していた。
 彼女はどことなく落ち着かない様子で、やはり怯えた目で私を見ながら話した。
「ごめんなさい、ただ……あのイラストレーターの友達の人かと思って……わたしも彼のイラストが大好きだったから……」
 落ち着かない感じでそう話すと、彼女はあの絵描きの残した、フラミンゴのイラストが入ったビスケットの袋を私に見せた。