このフィラデルフィアと呼ばれる街が、激しい大雨に見舞われた日のことだった。凄まじい落雷や雨風の中を、一台の車が街の北を目指していた。
 車を走らせるのは、この街で絵描きとして仕事をする男。
 私は、彼が描くユニークな動物の絵がとても好きだった。実際の動物と比較すれば、それらはすべてひどくデフォルメされているのだが、なぜか皆生き生きとした表情をしている。
 中でも特に気に入っているのは、薄紅で染め上げられたフラミンゴの絵だった。今やこの街の至るところで、彼のフラミンゴが描かれたビスケットを目にする。名前がついているらしく、その名を呼んで楽しそうにする街の人たちを幾度となく目にした。
 きっと彼は多くの人たちに愛された絵描きだったはずだ。家族はいうに及ばない。街中で愛された、そんな男を連れて行かなくてはならないのは、とても胸が痛む。

 激しい大雨で視界も閉ざされていたのだろう。彼を乗せた車は、走り辛そうにフラフラと蛇行運転をしていた。大通りに入ると突進してくる大型車に衝突されて横転したのち、激しく揺れながらやがて止まった。
 絵描きは運転席から這い出すと、頻《しき》りに車の中を気にする様子をみせた。車内には、彼の二人の子供が乗っていたようで、男はただ彼等の安否を気遣かっていた。
「彼等なら、心配要らない」
 私が声を掛けると、男は振り返った。
「手を貸してくれ! 中に子供がいるんだ!」
 青ざめた顔で、男は何度も助けを求める。
「落ち着くんだ。君の子供なら大丈夫だ。始めから予定にはない」
 そう伝えると、男はようやく私の姿を認めた驚きを思い起こしたかのように、「君は誰だ?」と訊ねた。
「私は死の使い。君を冥界に送り届ける者だ」
 その答えに、絵描きは一瞬固まったように私を見つめ、そして傍らに横転している車の運転席に目をやった。彼自身が座っていたはずのその席には、血まみれになり動かなくなった男の姿。そんな変わり果てた姿を目にしたとき、彼はすべてを理解したのだろう。
「私は、死んだのか……」
 絵描きは力なく呟いた。
「すべてではない。肉体が死んだだけだ」
「あぁ……」
 男は大粒の涙を流し始めた。
「ごめんよ! 二人共、本当にごめんよ!」
 車の中で気を失っている子供たちに向かって、何度も何度も謝り続けた。
 男が車に手を伸ばす。男の叫びと涙の激しさは、このフィラデルフィアを襲った豪雨にも負けないほどだった。
 仕事柄、こんな親子の場面など見慣れている。今までに何千……何億万回と立ち会っているのに、いつも私の心には、言葉では表現できない痛みが走る。
「さぁ、留まってはいられない。君の行くべき場所へ案内するよ」
 いつまでも、その場から離れようとしない男に向かって声を掛けたとき、私はふと、何者かの視線を感じた気がして振り返った。
 道路の向こう側に二人の少女の姿があり、そのうちの一人が明らかに私の姿をその肉眼で捉えているように見えたのだ。
 あの少女……能力者なのか? 
 私はすぐさま男の魂を引き掴むとその場から離れ、彼の魂を冥界へと送り届けた。
 我々の仕事には、絶対的なルールが一つだけ存在する。それは、決して人間には干渉してはならないということだ。
 人間には、定められた寿命が在る。私たちがそれらを引き延ばしたり、縮めたりすることは許されていない。そんなことをすれば、世界は混沌に包まれてしまう。
 しかし、彼等人間たちの中には、極稀に私たちの姿を見ることができる者がいる。先ほどの少女のように、私たちの存在を肉眼で捉えることができる者たちだ。
 私たちは彼等を能力者と呼んだ。発現の仕方は様々で、自分の死期が迫ったときに初めて能力を顕す者もいれば、死期云々に拘わらず、力を発揮する者たちもいた。
 かつて西暦1994年に、私は一度だけ前者の力を持つ能力者に遭遇したことがあった。セントルイスと呼ばれる街から、南西におよそ一八〇マイルほど離れたアーモットと呼ばれる小さな田舎町での出来事だった。

   †

「ジム? ……ジム!」
 夕日を浴びて回る水車小屋を見ていると、同僚のアニーが私の名前を呼び、不思議そうに訊ねた。
「こんな所で何をしてるの?」
「夕日を浴びたこの街の、ここから見る景色が私は好きなんだ……」
 辺り一面に広がるとうもろこし畑と、小さな水車小屋が夕日を浴びて赤く染まっている。フィラデルフィアの有名な絵描きが描いた、美しい風景画のようなこの街のこの景色が、私は大のお気に入りだった。
「まるで人間のようなことを言うのね」
 アニーが一枚のリストを手渡した。
「仕事よ、ジム。この街に住む女性で、名前はヴァレリー・クーパー。近日中にその命を落とすことになっているわ。いつものように、事が終わり次第、速やかに彼女の魂を冥界に案内してちょうだい」
 アニーはそう言い終えると、私の前から立ち去った。

 私はさっそくヴァレリー・クーパーの元へと向かった。私たちは職務として、死んだ人間の魂を冥界へと送り届けるわけだが、彼等が死ぬその正確な日時まではわからない。そのため、リストを受け取ったその瞬間からターゲットに張り付き、行動を共にする必要がある。彼等が死に、その魂が肉体から離れ、勝手に出歩き、道に迷ったりしないようにするためだ。
 ヴァレリーの家に入ると、彼女はリビングのロッキングチェアに腰掛け、ゆらゆらと揺られながら夢への扉を開こうとしているところだった。
 一人暮らしのようだ。他に人の気配はなく、家の中は静かだった。本棚や箪笥のあちこちには、既に亡くなったのであろう、夫らしき人物と寄り添って写る写真や、娘の写真が飾られている。
 外見上の特徴から、見たところまだ五〇歳ほどの彼女の体型は痩せ型で、足が悪いのか、ロッキングチェアの側には杖が立てかけられていた。
 すると、突然ヴァレリーの叫び声が部屋の中に響いた。
「あんた一体誰なの⁉ どこから家に入ったんだい⁉」
 外部の人間の存在を認識したようだ。物取りでも入ったのか? 彼女は凄い剣幕で大声を上げている。しかし室内を見渡しても、彼女以外の気配は私には感じられなかった。
「あんただよ! あんたに言ってんのさ! 家に盗むほどの物なんてありゃしないよ! とっとと出て行ってくれ!」
 どう見ても、私の顔を睨みつけながら叫んでいる。そこで私は、仲間たちの間で噂されていた能力者の話を思い出していた。
「まさか……私が見えているのか?」
 思い切って訊ねると、ヴァレリーは立てかけてあった杖を掲げ、私目掛けて振り下ろした。彼女の杖は、私の体を素通りし、そのまま床を叩きつける。
 この世にあるどんな物も、私たちの体に触れることはできない。空を切って床に叩きつけた杖は彼女の手を離れ、地面に転がった。
 ヴァレリーは、悪魔でも見たような怯えた表情で声を震わせ、「あ……あんたは? 一体何なんだ⁉」と口にすると、腰を抜かし床に座り込んだ。
 怯えるヴァレリーにゆっくり近付くと私は言った。
「恐れることはない、私は死の使いだ。君の肉体はこの数日のうちに死に、君の魂を冥界に送り届けるのが私の仕事さ」
 丁寧に説明してやると、ヴァレリーはさらに恐怖に満ちた表情で震えた。
「アタシは……死……死ぬのかい?」
 そのときだった。一台の車が猛スピードで走ってくると、この家の庭先で停められた。車から降りる人影が見えたかと思うと、それは、慌てて転がり込むように家の中へと入ってくる。
 人影の声が家の中に響いた。
「お母さん! お母さん⁉」
 声の正体はどうやらヴァレリーの娘のようだ。「アァャー! アァャー!」その娘の声に合わせるように、子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。
「お母さん⁉ どこよ!」
 騒々しく走り周りながら、彼女はリビングへと入ってきた。
「ジェシー! 此処よ! 助けて‼」
 ヴァレリーが精一杯の声で叫ぶ。その声は泣き叫ぶ子供の声に掻き消されそうなほどしゃがれていた。
「お母さん⁉」
 リビングに入った娘が、腰を抜かして床に倒れ込んでいる母親を見付けると、慌てて駆け寄った。
「お母さん⁉ 一体どうしたのよ? 何があったの⁉」
 依然として泣き叫び続ける子供を抱きかかえた娘が近付くと、ヴァレリーは私に向かって指をさした。
 ヴァレリーの娘が私の方を見る。
「一体どうしたの⁉ 何もないわ! お母さん!」
 ヴァレリーは自分が指をさした方向を恐る恐る見ると、急に部屋の中を見渡し始めた。私のことが今は見えないようだ。
 もちろん、私は一歩足りともこの場所を動いてはいない。どうやらヴァレリーは、他に意識が削がれると、私を認識できなくなるようだった。怯えつつも、部屋のあちこちを見渡して、私の気配を探している。
「お母さん! 聞いて! 私はこの街を出るわ! お母さんも私と一緒に来て!」
 悲鳴にも似た叫び声は、子供の泣き声にも負けない。
「一体どうしたの? ジェシー。またドニーに暴力を振るわれたのかい?」
 娘の様子が尋常ではないと感じ取ったのだろう。ヴァレリーは慌てて娘に駆け寄ると、突然悲痛な声を上げた。
「こっ……これは⁉」
 娘が抱きかかえる子供はまだ赤ん坊と思えるほど小さく、そしてその左頬は焼ごてでも当てられたような火傷を負っていた。
「あぁ……そんな! 酷い!」
「ドニーよ! 彼ったら、とうとう自分の娘にまで手を挙げたのよ! もう限界! 近くの病院でこの子を手当てしてもらったら、そのまま彼の知らないどこかで暮らすつもりよ! だからお母さんも一緒に来て!」
「あぁジェシー……。なんてこと、おぉ神様」
 彼女たちの話から察すると、どうやらヴァレリーの娘であるジェシーは、夫であるドニーという男に、普段から暴力を振るわれているようだ。その矛先がいよいよ自分の子供にまで達して、この街から姿を消す決意を固めたのだろう。
「とにかく、あなたはケイトを早く病院に連れて行きなさい! ドニーは今どこにいるんだい?」
 ヴァレリーが箪笥から紙幣を取り出し握り締める。そしてそれを娘ジェシーのコートのポケットに捩《ね》じ込み、彼女を玄関まで送った。
「家でお酒を飲んで寝てるわ! ねぇ! お母さんも一緒に来て‼ ここじゃないどこかで三人で暮らしましょ⁉」
 ヴァレリーに押し出されながら娘は泣き叫ぶ。
「ドニーの奴はしつこい男だからね、きっとあんたを探しにここへも来るはずだ! アタシが足止めをするから、ジェシーはその間にケイトを連れてお逃げ!」
 娘を玄関の外まで送り出すと、ヴァレリーは言った。
「お父さんのお墓もこの街にあるし、アタシはここから動けないよ。乗ってきた車は使わずに、納屋にあるお父さんが使ってた車に乗って行きなさい! 落ち着いたら連絡するんだよ!」
 そう言って娘に車の鍵を渡す。
「必ず連絡するわ!」
 娘は涙ながらに鍵を受け取り、車で走り去った。
 ヴァレリーは、走り去る車を寂しそうに見送ると、娘が乗ってきた車を納屋へと戻し、扉を閉めた。納屋から出てきたヴァレリーは再び私を見ると、腰を抜かし倒れ込んだ。
「あ……あんた! また現れたのかい⁉」
 どうやら、他に意識を削ぐものがなくなり、再び私を見ることができるようになったようだ。
「私はずっと君の傍にいたさ。君の娘のジェシーが家に入ってきたときもずっと」
 私の話を聞くと、ヴァレリーは何かを悟ったように肯き、そしてゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、アタシはドニーに殺されるんだね? そうだろ?」
 歩き辛そうに足を引きずると、彼女は納屋から玄関へと歩き出す。
「君がドニーに殺されるかどうかは解らないが、近く、君の魂がその体から離れる事実は決まっている」
 私が後ろをついて歩くと、彼女は苛立ったように私に言った。
「フンッ! 随分と冷たい言い方をするもんだね? 人が一人死ぬって言うのにさ!」
 彼女は私が家に入る前に玄関の扉を閉めるが、私の体は扉をすり抜け彼女について歩いた。すると彼女は何を思ったのか、急に振り返り、こんなことを私に話し出した。
「じゃあ、アタシがドニーに殺される前にどこかに身を隠したら? 例えば、ジェシーについて行って、ドニーに会うことがなければ?」
「さっきも話したように、君がそのドニーという人物によって殺されるかどうかは私には解らない。それに運命からは逃れられないんだ。たとえ場所を変えたとしても、死に方が変わるだけさ。それに……」
 私がつい口を滑らせると、彼女はそれに気付きしつこく迫った。
「それに⁉ それに何だい? じゃああるんだね? 死を逃れる方法が!」
 縋るように迫る彼女に向かって言う。
「運命から逃れる方法などない。もし無理に逃れようとすれば、君に代わり、同等の魂が失われることになる。例えばそれは、君が大切に思う娘や孫の魂になるだろう」
 私がそう答えるとヴァレリーは押し黙り、静かにリビングへと向かった。頼りなくロッキングチェアに腰掛け、ゆらゆらと揺らしながら唱えるように呟く。
「そんなことは絶対に許せない……アタシの死を逸らすために、あの子たちを死なせてしまったら、アタシは生きてる意味などないんだから……」
 ギィギィと軋む床の音が部屋の中に虚しく響き渡った。彼女はそれ以上口を開かなかった。ただ黙ったまま、椅子を揺らしそのまま眠りについた。
 私は傍で彼女のことを見守った。