どれくらいおばさんに寄り添っていただろう。気づけば病院の中は随分と落ち着きを取り戻していた。
「そう言えば、レイナーさんはどこへ行ったのかしらね?」
「写真の町の情報を集めているのよ。町の名前はアーモット」
おばさんは驚いて目を丸くした。
「なぜ、あなたが町の名前を知っているの? 誰に、その町の名前を聞いたの?」
わたしはマギーおばさんの向かいの椅子に座り直すと、彼女の目をしっかりと見ながらこれまでのことを説明した。お母さんが、わたしに向かって大事な話をするときと同じように。
「にわかには信じられないけど、あなたが嘘なんて言わないことも、私は良く知ってるわ。その、ジムという人物は今も近くにいるの?」
「えぇ、いるわ。ちょうど今、おばさんが座る後ろに立ってる」
マギーおばさんは少しビクッと体を震わせると、ゆっくりと後ろを振り返るけど、やっぱり彼女の目には誰の姿も映ってはいないようだった。
「ジェシカの命に心配がないのは、私たちにとってこれ以上ないほどに嬉しいニュースだけど、じゃあなぜ彼は、今もあなたと一緒にいるの?」
おばさんの質問を、そのままジムへ渡すように視線を投げると、ジムは思い詰めたような表情でしばらく黙ったままだった。
「ケイト? 彼はなんて言ったの?」
おばさんが催促するように訊ねる。
「……ジム?」
わたしが呼びかけると、ジムはようやく口を開いた。
「隠していても、直に君は気づくだろう……そして、私の存在が見える君にはそれを知る権利がある。ヴァレリー・クーパーと同じように……」
彼がそう話し始めたとき、わたしは彼の言いたいことがすべて理解できた。つまり、ジムは……。
「私の次のターゲットは君なんだ。ケイト」
そう話す彼の表情は、明らかに悲しそうなものだった。パラダイスで初めて彼を見たときと同じ顔。
「ケイト? どうしたの?」
おばさんが不安そうに、彼の言葉を聞かせてくれとせがむと、わたしは咄嗟に嘘をついた。
「あぁ! ごめんなさい。彼ったら堅苦しい言葉使いで、それでいて話が長いから、かみ砕いて話すのが大変なの!」
慌てて釈明すると、おばさんは「それで?」と訊ねた。
「今、彼は休暇中みたいよ? それで、アーモットの田舎から、このフィラデルフィアに観光に来てるんだって!」
適当な作り話に、おばさんは一瞬固まるとクスクスと笑い出す。
「死の使いといっても、まるで人間のようにバカンスを楽しむのね」
わたしは嘘が見破られたかと思ってヒヤヒヤしたけど、おばさんは如何にも楽しそうに笑った。
やがて、資料を調べていたレイナーさんが戻って来ると、彼女の手元にあるバインダーの厚みはさっきの倍ほどにも増している。
「あったわ! ケイト! あなたの言った通り、あなたたちの出身はアーモットと呼ばれる町だったわ」
膨れ上がった資料をペラペラとめくりながら彼女は続ける。
「ケイト。二人で話せるかしら? この情報は、あなたたち親子にとって、とてもプライベートな情報よ」
相変わらず手元の資料ばかり気にして、こちらなどほとんど見ようとしないレイナーさんにわたしは苛立った。
「なぜ? マギーおばさんは大事な家族だわ。話ならおばさんのいる所でしてください」
こちらへ顔を向けようとしない彼女への反発心から、わたしが必要以上にレイナーさんを睨むように見つめると、彼女は軽くため息をついた。
「わかったわ。あなたがそれで良いと言うのなら、彼女にも同席してもらいましょう」
レイナーさんは椅子に腰掛けると話し始めた。
「あなたのお祖母さんであるヴァレリー・クーパーは既に亡くなっていて、アーモットには死亡証明が出されているわ。殺害したのは、ドニー・スコイットという男――」
レイナーさんの口から殺害という言葉が出ると、マギーおばさんは痛々しそうに表情を歪め、口を手で覆った。
「彼は、事件当日に保安官に連行され、今は州の刑務所に入っている。そしてケイト、あなたの本名はケイト・スコイットというの……」
レイナーさんの顔は真剣そのものだった。
「あなたたちの資料について、私が知っていることを話すわ」
アーモットに残るわたしの診療記録には、虐待の可能性有りと書かれていたこと。そして、お母さんの診療記録にも同様に、夫による暴力の疑いがあることが記載されていたことなどをレイナーさんは話した。
話を聞く前にもジムからおおよその話は聞いて知っていた。でも、こうして実際に資料を手にした彼女から当時のことを聞かされると、妙に生々しくて苦しくなる。
わたしとマギーおばさんは、ずっとお互いの手を握りあって話を聞いていた。
「私が調べたところでは、ジェシカの父親――つまりあなたのお祖父さんも若い頃に病死しているの。だから結局のところ、あなたと血縁関係のある人物は見つけられなかったのよ」
「今さら、会ったことも覚えてないような親族なんて捜さなくても……だってわたしにはお母さんだって、マギーおばさんだっているんだから。それに、おばさんが退院する二、三日の間だけでしょ? それくらいならわたし一人でもアパートで生活することができるわ」
わたしがそう言うと、レイナーさんが顔色を変えた。
「ケイト、これはできるできないの話ではないのよ? お母さんやマギーさんが入院している間も、あなたは学校に行かなくちゃならないし、子供一人で生活するには危険過ぎるわ」
「じゃあ、どうすれば良いんですか?」
融通の効かないレイナーさんに苛立ちつつも、わたしはおばさんを心配させないよう、精一杯我慢しながら訊ねた。
「里親登録をしている家庭に、少しの間あなたの面倒を見てもらうか、施設への短期入所という手もあるわ。それならどうかしら?」
そんなこと言われたって、どちらも行きたくない場所には違いがなかった。
「ケイト。本当にごめんなさい、でも心配しないで! すぐに退院して、あなたを必ず連れ戻すから! だから大丈夫よ」
マギーおばさんが悲しそうな目でわたしの両肩をさする。おばさんが嘘をついたことなんて今まで一度もない。だから、おばさんのことは信用できる。
本当は、どこにもやらないで! って縋りつきたい思いでいっぱいだけど、目の前で、すぐに連れ戻すと約束してくれているおばさんにそれ以上何も言えず、わたしは言葉を失ってしまった。
ただひとつ心配なのは、自分に残されている時間があとどれくらいなのかってことだけ……。
「ねぇ、レイナーさん? お母さんやおばさんに会いに、毎日病院には来て良いの……?」
「もちろんよ! そうすべきだわ。じゃあ、決まりで良いわね?」
わたしは渋々肯いた。今はとにかく、マギーおばさんに余計な心配をかけたくない。それにここでいくら議論してたって、お母さんと過ごす時間が減るだけで、何の得もないって感じたから。
「じゃあさっそく、着替えや学校で使う持ち物をあなたの家に取りに行きましょう」
早々と支度を始めるレイナーさんにわたしは言った。
「あの……その前に、もう一度お母さんの顔を見に行っても良いですか?」
「えぇもちろんよ。わかったわ、じゃあ私は地下の駐車場にいるから、挨拶をすませたら降りてきて」
レイナーさんはそう答えると、エレベーターホールへと歩いていった。
「ケイト。こんな思いをさせて本当にごめんね。退院したら、あなたのために部屋を大掃除しなくてはね」
おばさんは物を捨てられなくて片付けられないのが唯一の欠点。いつもはそんなこと絶対に言わないおばさんが珍しいことを言った。
誰にだって欠点はある。たとえばお母さんは、少しこだわりが強くて潔癖症でわたしに甘いところ。わたしはガサツで短気だし、お母さんのことになると見境がつかなくなって殴り合いの喧嘩までしてしまったりするところ……。
皆、それぞれに欠点があるけど、お母さんもマギーおばさんもそんな欠点を含めて丸ごと愛してくれる。もちろんわたしだってそうだ。
「ありがとう、マギーおばさん。わたしも大掃除を手伝うわ!」
わたしはおばさんの頬にキスをして、心の中でつぶやいた。
――明日もしまだわたしが生きてたら、また会いに来るねって。
エレベーターの中で、ジムが話しかける。
「なぜ、彼女に本当のことを言わなかったんだ?」
わたしはフロア表示のライトを見上げながらつぶやいた。
「話したところで、わたしが近々死んでしまうのは変わらないんでしょ? それなら話さない方が良いわ。そんなことを話せば、マギーおばさんはきっと、大人しく入院なんてしていてくれないもの……」
同情してるのか、ジムはそれ以上何も訊ねなかった。
ICUに入る。わたしは丸椅子に腰掛けてお母さんの手を握り、その頬にキスをした。
自分が近い将来死んでしまうという現実――。死んでしまったら、もうお母さんに会えなくなる。それは心が切り裂かれるほどに寂しいことだけれど、でも自分のことなんかより、今は大切なお母さんが大丈夫だとわかったことの方が重要で、不思議とずっと落ち着けた。
だってわたしは、極度の母親依存症だから……。
「お母さん、必ず良くなるよ。だから心配しないで、今はゆっくり体を休めてね」
お母さんの呼吸を助ける機械の音と、他の装置のアラームが規則正しく聞こえて、返事の代わりをしてくれているようだった。わたしはもう一度お母さんの頬にキスをすると立ち上がり、病室を出る。
「ケイト。残念だが君の肉体の死は回避することはできない。しかし、その死に方は、君のこれからの行動で変わるんだ」
エレベーターホールで、レイナーさんが待つ地下へのエレベーターを待っている間に、ジムはそう話した。
「それならば、その最後の時間まで家族と過ごすのが、君の望みに合っているんじゃないのか?」
確かにこのまま病院にいれば、残りの時間をお母さんやおばさんと一緒に過ごせるんだろう。でも自分が死ぬところをお母さんやおばさんには見せたくない。
わたしは、マギーおばさんが若い頃に飼っていたという猫の話を思い出した。片方の瞳の色だけが青色の真っ白な雄猫で、おばさんはその子を「オッド」って呼んでたんだって。
やっぱりその子も散歩中に公園で見つけた猫で、おばさんが拾って飼うことになったと言っていた。そう考えると、おばさんは昔から動物の救世主のような人だ。オッドはとても懐いていて、賢い猫だったらしい。随分長生きしたけど歳をとってからは寝てばかりで、あまり動かなくなったんだって。
そんなオッドが、ある日、おばさんに凄く甘えてきたかと思うと、家の人が帰ってきた瞬間を見計らって、玄関のドアから逃げてしまったんだって。おばさんは慌てて外に探しに出たけど、とうとうオッドは見つからなかった。
おばさんは、後にそのときのことをこう話してくれた。
「オッドはきっと、自分の死期が近いことを知ってたのね。だから、大好きな私を悲しませないために家を出て行ったんだわ。自分が死ぬところを見せたくなかったのよ」って。
そのときは理解できなかったけど、今なら良くわかる。振り返りジムの目を見たとき、わたしは彼の疑問に対する答えが見つかったような気がした。おばあちゃんがなぜお母さんと一緒に逃げなかったのかってこと。
「ジム! あなたの疑問の答えが見つかったかもしれないわ!」
ジムは混乱したようにこちらを見た。
「私の……疑問? ヴァレリー・クーパーのことか?」
わたしは肯いた。おばあちゃんが逃げなかった理由。それはきっと『愛』だ。最愛の娘を追いかけてくるドニーを捕まえておきたいという『愛』に、自分の死に目など絶対に娘に見せまいという『愛』。
その二つは、共にとても強い意思だ。願いでもある。
一言で『愛』と言ってしまえば簡単だけど、目で見える何かで表現しようとすれば、それはとても大きな箱のような物だと思う。その箱の中には、さらに色々なブロック――大きさや形、色も様々なかたまりのような物がつまっていて、それら一つ一つもきっと『愛』って呼ぶ。
箱の中の、どんな形の、大きさの、どんな色のブロックを大切にするかなんてのはきっと千差万別。たとえ一つしかなくても、両手に抱えきれないほど沢山持っていても、それは自由なんだ。
おばあちゃんが死んでも手放したくなかった『愛』という名のブロック。それはきっと、お母さんやわたしのことだったはず。
「きっと、あなたの疑問の答えは『愛』なんだと思うわ」
すると、彼は復唱するようにつぶやいた。
「愛……」そして、わたしを見上げると彼は言った。
「ヴァレリー・クーパーは私に言ったんだ。私の疑問の答えは、『あんたも人の親になればわかる』と……。その答えが愛か?」
独り言のようなジムのつぶやきに、わたしは黙って肯いた。
彼もしばらく黙ったまま何か考えているようだったけど、その表情はとても清々しく見えた。まるで雑誌の裏表紙にあるプレゼント付きのクロスワードを解いたときみたいに。
「そう言えば、レイナーさんはどこへ行ったのかしらね?」
「写真の町の情報を集めているのよ。町の名前はアーモット」
おばさんは驚いて目を丸くした。
「なぜ、あなたが町の名前を知っているの? 誰に、その町の名前を聞いたの?」
わたしはマギーおばさんの向かいの椅子に座り直すと、彼女の目をしっかりと見ながらこれまでのことを説明した。お母さんが、わたしに向かって大事な話をするときと同じように。
「にわかには信じられないけど、あなたが嘘なんて言わないことも、私は良く知ってるわ。その、ジムという人物は今も近くにいるの?」
「えぇ、いるわ。ちょうど今、おばさんが座る後ろに立ってる」
マギーおばさんは少しビクッと体を震わせると、ゆっくりと後ろを振り返るけど、やっぱり彼女の目には誰の姿も映ってはいないようだった。
「ジェシカの命に心配がないのは、私たちにとってこれ以上ないほどに嬉しいニュースだけど、じゃあなぜ彼は、今もあなたと一緒にいるの?」
おばさんの質問を、そのままジムへ渡すように視線を投げると、ジムは思い詰めたような表情でしばらく黙ったままだった。
「ケイト? 彼はなんて言ったの?」
おばさんが催促するように訊ねる。
「……ジム?」
わたしが呼びかけると、ジムはようやく口を開いた。
「隠していても、直に君は気づくだろう……そして、私の存在が見える君にはそれを知る権利がある。ヴァレリー・クーパーと同じように……」
彼がそう話し始めたとき、わたしは彼の言いたいことがすべて理解できた。つまり、ジムは……。
「私の次のターゲットは君なんだ。ケイト」
そう話す彼の表情は、明らかに悲しそうなものだった。パラダイスで初めて彼を見たときと同じ顔。
「ケイト? どうしたの?」
おばさんが不安そうに、彼の言葉を聞かせてくれとせがむと、わたしは咄嗟に嘘をついた。
「あぁ! ごめんなさい。彼ったら堅苦しい言葉使いで、それでいて話が長いから、かみ砕いて話すのが大変なの!」
慌てて釈明すると、おばさんは「それで?」と訊ねた。
「今、彼は休暇中みたいよ? それで、アーモットの田舎から、このフィラデルフィアに観光に来てるんだって!」
適当な作り話に、おばさんは一瞬固まるとクスクスと笑い出す。
「死の使いといっても、まるで人間のようにバカンスを楽しむのね」
わたしは嘘が見破られたかと思ってヒヤヒヤしたけど、おばさんは如何にも楽しそうに笑った。
やがて、資料を調べていたレイナーさんが戻って来ると、彼女の手元にあるバインダーの厚みはさっきの倍ほどにも増している。
「あったわ! ケイト! あなたの言った通り、あなたたちの出身はアーモットと呼ばれる町だったわ」
膨れ上がった資料をペラペラとめくりながら彼女は続ける。
「ケイト。二人で話せるかしら? この情報は、あなたたち親子にとって、とてもプライベートな情報よ」
相変わらず手元の資料ばかり気にして、こちらなどほとんど見ようとしないレイナーさんにわたしは苛立った。
「なぜ? マギーおばさんは大事な家族だわ。話ならおばさんのいる所でしてください」
こちらへ顔を向けようとしない彼女への反発心から、わたしが必要以上にレイナーさんを睨むように見つめると、彼女は軽くため息をついた。
「わかったわ。あなたがそれで良いと言うのなら、彼女にも同席してもらいましょう」
レイナーさんは椅子に腰掛けると話し始めた。
「あなたのお祖母さんであるヴァレリー・クーパーは既に亡くなっていて、アーモットには死亡証明が出されているわ。殺害したのは、ドニー・スコイットという男――」
レイナーさんの口から殺害という言葉が出ると、マギーおばさんは痛々しそうに表情を歪め、口を手で覆った。
「彼は、事件当日に保安官に連行され、今は州の刑務所に入っている。そしてケイト、あなたの本名はケイト・スコイットというの……」
レイナーさんの顔は真剣そのものだった。
「あなたたちの資料について、私が知っていることを話すわ」
アーモットに残るわたしの診療記録には、虐待の可能性有りと書かれていたこと。そして、お母さんの診療記録にも同様に、夫による暴力の疑いがあることが記載されていたことなどをレイナーさんは話した。
話を聞く前にもジムからおおよその話は聞いて知っていた。でも、こうして実際に資料を手にした彼女から当時のことを聞かされると、妙に生々しくて苦しくなる。
わたしとマギーおばさんは、ずっとお互いの手を握りあって話を聞いていた。
「私が調べたところでは、ジェシカの父親――つまりあなたのお祖父さんも若い頃に病死しているの。だから結局のところ、あなたと血縁関係のある人物は見つけられなかったのよ」
「今さら、会ったことも覚えてないような親族なんて捜さなくても……だってわたしにはお母さんだって、マギーおばさんだっているんだから。それに、おばさんが退院する二、三日の間だけでしょ? それくらいならわたし一人でもアパートで生活することができるわ」
わたしがそう言うと、レイナーさんが顔色を変えた。
「ケイト、これはできるできないの話ではないのよ? お母さんやマギーさんが入院している間も、あなたは学校に行かなくちゃならないし、子供一人で生活するには危険過ぎるわ」
「じゃあ、どうすれば良いんですか?」
融通の効かないレイナーさんに苛立ちつつも、わたしはおばさんを心配させないよう、精一杯我慢しながら訊ねた。
「里親登録をしている家庭に、少しの間あなたの面倒を見てもらうか、施設への短期入所という手もあるわ。それならどうかしら?」
そんなこと言われたって、どちらも行きたくない場所には違いがなかった。
「ケイト。本当にごめんなさい、でも心配しないで! すぐに退院して、あなたを必ず連れ戻すから! だから大丈夫よ」
マギーおばさんが悲しそうな目でわたしの両肩をさする。おばさんが嘘をついたことなんて今まで一度もない。だから、おばさんのことは信用できる。
本当は、どこにもやらないで! って縋りつきたい思いでいっぱいだけど、目の前で、すぐに連れ戻すと約束してくれているおばさんにそれ以上何も言えず、わたしは言葉を失ってしまった。
ただひとつ心配なのは、自分に残されている時間があとどれくらいなのかってことだけ……。
「ねぇ、レイナーさん? お母さんやおばさんに会いに、毎日病院には来て良いの……?」
「もちろんよ! そうすべきだわ。じゃあ、決まりで良いわね?」
わたしは渋々肯いた。今はとにかく、マギーおばさんに余計な心配をかけたくない。それにここでいくら議論してたって、お母さんと過ごす時間が減るだけで、何の得もないって感じたから。
「じゃあさっそく、着替えや学校で使う持ち物をあなたの家に取りに行きましょう」
早々と支度を始めるレイナーさんにわたしは言った。
「あの……その前に、もう一度お母さんの顔を見に行っても良いですか?」
「えぇもちろんよ。わかったわ、じゃあ私は地下の駐車場にいるから、挨拶をすませたら降りてきて」
レイナーさんはそう答えると、エレベーターホールへと歩いていった。
「ケイト。こんな思いをさせて本当にごめんね。退院したら、あなたのために部屋を大掃除しなくてはね」
おばさんは物を捨てられなくて片付けられないのが唯一の欠点。いつもはそんなこと絶対に言わないおばさんが珍しいことを言った。
誰にだって欠点はある。たとえばお母さんは、少しこだわりが強くて潔癖症でわたしに甘いところ。わたしはガサツで短気だし、お母さんのことになると見境がつかなくなって殴り合いの喧嘩までしてしまったりするところ……。
皆、それぞれに欠点があるけど、お母さんもマギーおばさんもそんな欠点を含めて丸ごと愛してくれる。もちろんわたしだってそうだ。
「ありがとう、マギーおばさん。わたしも大掃除を手伝うわ!」
わたしはおばさんの頬にキスをして、心の中でつぶやいた。
――明日もしまだわたしが生きてたら、また会いに来るねって。
エレベーターの中で、ジムが話しかける。
「なぜ、彼女に本当のことを言わなかったんだ?」
わたしはフロア表示のライトを見上げながらつぶやいた。
「話したところで、わたしが近々死んでしまうのは変わらないんでしょ? それなら話さない方が良いわ。そんなことを話せば、マギーおばさんはきっと、大人しく入院なんてしていてくれないもの……」
同情してるのか、ジムはそれ以上何も訊ねなかった。
ICUに入る。わたしは丸椅子に腰掛けてお母さんの手を握り、その頬にキスをした。
自分が近い将来死んでしまうという現実――。死んでしまったら、もうお母さんに会えなくなる。それは心が切り裂かれるほどに寂しいことだけれど、でも自分のことなんかより、今は大切なお母さんが大丈夫だとわかったことの方が重要で、不思議とずっと落ち着けた。
だってわたしは、極度の母親依存症だから……。
「お母さん、必ず良くなるよ。だから心配しないで、今はゆっくり体を休めてね」
お母さんの呼吸を助ける機械の音と、他の装置のアラームが規則正しく聞こえて、返事の代わりをしてくれているようだった。わたしはもう一度お母さんの頬にキスをすると立ち上がり、病室を出る。
「ケイト。残念だが君の肉体の死は回避することはできない。しかし、その死に方は、君のこれからの行動で変わるんだ」
エレベーターホールで、レイナーさんが待つ地下へのエレベーターを待っている間に、ジムはそう話した。
「それならば、その最後の時間まで家族と過ごすのが、君の望みに合っているんじゃないのか?」
確かにこのまま病院にいれば、残りの時間をお母さんやおばさんと一緒に過ごせるんだろう。でも自分が死ぬところをお母さんやおばさんには見せたくない。
わたしは、マギーおばさんが若い頃に飼っていたという猫の話を思い出した。片方の瞳の色だけが青色の真っ白な雄猫で、おばさんはその子を「オッド」って呼んでたんだって。
やっぱりその子も散歩中に公園で見つけた猫で、おばさんが拾って飼うことになったと言っていた。そう考えると、おばさんは昔から動物の救世主のような人だ。オッドはとても懐いていて、賢い猫だったらしい。随分長生きしたけど歳をとってからは寝てばかりで、あまり動かなくなったんだって。
そんなオッドが、ある日、おばさんに凄く甘えてきたかと思うと、家の人が帰ってきた瞬間を見計らって、玄関のドアから逃げてしまったんだって。おばさんは慌てて外に探しに出たけど、とうとうオッドは見つからなかった。
おばさんは、後にそのときのことをこう話してくれた。
「オッドはきっと、自分の死期が近いことを知ってたのね。だから、大好きな私を悲しませないために家を出て行ったんだわ。自分が死ぬところを見せたくなかったのよ」って。
そのときは理解できなかったけど、今なら良くわかる。振り返りジムの目を見たとき、わたしは彼の疑問に対する答えが見つかったような気がした。おばあちゃんがなぜお母さんと一緒に逃げなかったのかってこと。
「ジム! あなたの疑問の答えが見つかったかもしれないわ!」
ジムは混乱したようにこちらを見た。
「私の……疑問? ヴァレリー・クーパーのことか?」
わたしは肯いた。おばあちゃんが逃げなかった理由。それはきっと『愛』だ。最愛の娘を追いかけてくるドニーを捕まえておきたいという『愛』に、自分の死に目など絶対に娘に見せまいという『愛』。
その二つは、共にとても強い意思だ。願いでもある。
一言で『愛』と言ってしまえば簡単だけど、目で見える何かで表現しようとすれば、それはとても大きな箱のような物だと思う。その箱の中には、さらに色々なブロック――大きさや形、色も様々なかたまりのような物がつまっていて、それら一つ一つもきっと『愛』って呼ぶ。
箱の中の、どんな形の、大きさの、どんな色のブロックを大切にするかなんてのはきっと千差万別。たとえ一つしかなくても、両手に抱えきれないほど沢山持っていても、それは自由なんだ。
おばあちゃんが死んでも手放したくなかった『愛』という名のブロック。それはきっと、お母さんやわたしのことだったはず。
「きっと、あなたの疑問の答えは『愛』なんだと思うわ」
すると、彼は復唱するようにつぶやいた。
「愛……」そして、わたしを見上げると彼は言った。
「ヴァレリー・クーパーは私に言ったんだ。私の疑問の答えは、『あんたも人の親になればわかる』と……。その答えが愛か?」
独り言のようなジムのつぶやきに、わたしは黙って肯いた。
彼もしばらく黙ったまま何か考えているようだったけど、その表情はとても清々しく見えた。まるで雑誌の裏表紙にあるプレゼント付きのクロスワードを解いたときみたいに。