恋とは、自分が楽しかったとき、嬉しかったとき、綺麗なものを見たとき、相手と共有したいと思う事らしい。

 それが本当ならば、僕は今――恋をしている。


「……何、読んでるのかな」

 僕が通う、私立高等学校があるのは田舎の何の変哲のない街である。
 都会と違ってお洒落なカフェもないけれど、自然が多くて、季節の感じられる素敵なところだ。
 一番有名なのは、夏祭りの花火。
 この街出身の花火師が造るものは、ほかで類を見ない美しい桜色が打ちあがる。
 夏になるとわざわざ遠方から多くの人が訪れて、ニュースでもその様子が流れる。

 お祭りの会場近くには大きな橋があり、下には一級河川が流れていた。

 その河川敷に、僕の好きな人が座っている。

「…………」

 彼女は放課後、よくここで読書をしている。
 いつも声を掛けようと思っているけれど、何もできずただ見ているだけの日が続いていた。

 名前は藤崎梨央さん。同じ高校二年生で、隣のクラスの女の子だ。

 心優しい、気遣いのある人。

 一年の二学期に東京から転校してきたそうだ。
 お洒落で凄く綺麗だし、髪の毛は少し明るくて、でも派手ってわけでもない。
 周りの子たちより垢抜けていて、大人びた印象だった。

 僕と彼女はただ同じ学校に通っている、というだけの共通点しかない。
 強いて言えば、同じ読書好きなところか。
 それを知っているのは、僕だけだけれど。

 どうしよう。なんて声をかけよう。やっぱり、あの時はありがとう、かな。
 そんなことを考えていたら彼女は立ち上がり、自転車に乗って去っていってしまった。

 空を見上げれば夕日で赤く染まっている。
 はあ、今日もダメだった。

 僕は少し焦っていた。その理由は、橋に立てかけられた看板に書いてある。

 来週の日曜日、夏祭りがある。そして、20時からの花火大会。

 僕は彼女を夏祭りに誘おうと思っている。
 この街で一番誇れる花火を彼女と一緒に見たい。
 彼女の笑っている顔、喜んでいる姿を隣で見たい。
 そんな願望を抱いていた。

 でも、このままでは夏祭りに誘うどころか声をかけることもできない。
 僕は情けなく思いながら、重い足取りで家まで帰った。

 明日こそは声をかけようと考えを巡らせる。
 そしていい案を思いついた。
 あらかじめ河川敷に座って本を読んでいたら、話すきっかけになるのではないだろうか。

 ただ、僕が持っていく本が、彼女がまったく読まないものだったら?
 会話が盛り上がらないまま、気まずい雰囲気になるかもしれない。
 
 恋愛系だろうか。それともミステリー? いや、ホラーかも。
 自室の本棚を眺めながら、一つの本で手が止まった。

 飾る必要はないか。
 自分の一番好きな本を、持っていこう。


 翌日の放課後、僕は急いで河川敷に行き、いつも彼女が座っている場所に腰を下ろす。
 ここに来るのは初めてだったが、風が心地よくて、川のせせらぎが集中力を高めてくれそうだ。

 凄いな。彼女は僕よりもこの街の事を知っているのかも。



『ねえ、ちょっと待ってて』

 藤崎さんと会話をしたのは一回だけ。
 体育祭、僕はリレーのメンバーに選ばれていた。
 
 特別走るのが得意なわけじゃない。それでも選ばれたからには頑張らなければと、毎日必死に練習していた。
 体育祭の日、種目の直前。積み重なったカラーコーンを抱え、前が見えていなかった生徒に後ろからぶつかられた。
 そのまま倒れこみ、足をくじいてしまったのだ。この足で走れるか不安だったが、ここで棄権すればみんなに迷惑をかけてしまう。
 幸い、痛みを我慢すれば走れると気づき、冷たい氷でギリギリまで冷やしていた。
 集合直前、少し足を引きずっていたのだろう。それに、気づいたのか。

『足、痛むの?』

 突然声を掛けてきたのは転校してきたばかりの、隣のクラスの女子藤崎さんだった。

『ちょっと見せてもらえる?』

 彼女は足元に屈むと、僕の足に触れてくる。

 びっくりしたが、彼女は『棄権しないの?』と尋ねてきた。どうやらバレていたので、我慢できると伝える。
『そう』と少しぶっきらぼうに言いながらも、彼女は救護室からテーピングを持ってきてくれた。

 それからは魔法みたいだった。あっという間に固定されて、痛みが随分と和らいだ。

『……凄い。なんでこんなことできるの?』
『元々陸上部だったから。こういう処置は慣れてるの』
『そうなんだ。ありがとう』
『私もね、無理して走ったりすることもあった。だから、気持ちわかるよ。――でも、無理はしないでね』

 矛盾したことを言いながらも、彼女は僕の背中を押してくれた。

 結果は二位だった。ゴールテープの近く、笑顔を浮かべていた彼女に僕は惹かれてしまった。



 そして今――。

 僕は本を取り出した。彼女の事を考えながら本を開く。
 しかし、いつのまにか集中してしまっていた。

 気づくべきだった。自分のお気に入りを持ってきたら、夢中になってしまうこと。

「太宰治、好きなの?」
「っ……!」

 耳元で聞こえた声に、一瞬で鼓動が高まる。
 隣に座っていたのは、藤崎さんだった。

 集中し過ぎていてまったく気付かなかった。
 いや、それはいい。それよりも、彼女が隣にいる。
 

「ごめんね。邪魔しちゃって」
「あ、いや――」
「静かにしておくね。私もここ、いいかな」

 彼女は本を取り出して、読書を始めた。
 ……失敗した。読みはじめてから声を掛けることは迷惑になるかもしれない。
 そんなことを考えては、また何も出来ずにいた。

 それから僕は、何度かバレないように隣に視線を向ける。
 伏し目がちの彼女の横顔は本当に綺麗で、気づけば見惚れてしまっていた。 

「幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではないだろうか……」
 
 藤崎さんが呟いたのは太宰治の斜陽に出てくる一文だった。
 すると突然顔を上げこっちを見る。

「太宰治、いいよね」
「えっ……う、うん」
 
 急に話しかけられ声がうわづってしまう。
 驚いた。まさか、ずっと読んでいたのが僕と同じ太宰治だったなんて。

 今僕が読んでいる本ではないが、好きな作品の一つだった。
 嬉しくてつい、内容を熱く語ってしまう。
 
 そして、藤崎さんが本ではなく、僕の顔を覗き込んでいることに気づき、ハッとした。
 
「ご、ごめん。つい」
「ううん、大丈夫。それに、そんなに太宰が好きだなんて驚いた」
「そう、かな?」
「うん。私の周りにはあんまりいないよ」
「父親が小説好きで、幼いころから名作をいっぱい読ませられたんだよね。おかげで、絵本の思い出が少ないよ」
「そうなんだ。私はまだ読み始めたの最近だから、色々教えてもらえると嬉しいな」

 読書好きかと思っていたが、そうじゃないのかな。
 でもまあ、確かに都会と違って大きな繁華街も娯楽施設もない。
 こっちに来てから読書が好きになったのかも。

 それよりも、自然と会話できている。
 今なら、夏祭りに誘えるかも――。
 「あ、もうこんな時間。――ありがとう、楽しかった」

 彼女は立ち上がる。空を見上げれば夕日で赤く染まっていた。

 ここで引きとめて夏祭りに誘う度胸は僕にはない。
 明日もここで座っておく? いや、それは迷惑かもしれない。

「また明日、良かったら一緒に読書しない? クラス違うし、学校ではなかなか話せないから」
「え? あ、うん! ――もちろん」
「ありがとう。それじゃあ、また明日」
「うん、また明日」

 藤崎さんから言ってくれるとは思ってもいなかった。
 これで明日、夏祭りに誘うことができる。
 いや、またタイミングを失うかもしれない。気を抜かないでおこう。


 ◇ ◇ ◇ ◇


「この作品は日記形式で書かれていて、読者に語りかけるような文章で読みやすいんだ」
「そうなんだ。次はそれ読んでみようかな」
「良かったらこれ、貸そうか?」
「いいの? ありがとう」

 僕たちはあれから毎日、橋の下で読書をしては作品について話をしたりしている。
 たった一週間だが、随分と仲を深めたように思う。

 でも、もう一週間経ってしまった。僕はまだ夏祭りに誘えないでいる。
 
「それじゃあ、また明日ね」
「うん、また明日……」

 空を見上げれば夕日で赤く染まっていた。お祭りは次の日曜日だ。
 もう誰かに誘われている可能性だってある。

 僕は、勇気を振り絞った。

「よかったら花火――」
「山城くん、夏祭り一緒に行かない?」
「え?」
「あ、突然すぎたよね。ごめんね」
「い、いや!? 祭りって、日曜日の?」
「そうだよ。でも、もう行く相手決まってるよね――」

 藤崎さんは珍しく不安そうにしながら僕の顔を伺う。

「全然! 誰かと行きたいなって思ってて、実はその」
「実は?」
「誘おうと思ってたから」

 気づけば口に出ていた。相手から誘ってもらえたのだ。わざわざ言う必要はなかったかもしれない。

 けれども藤崎さんの「良かった」と笑う姿に言って良かった。

「それじゃあ、また連絡するね」
「うん、また」

 別れ際、何と連絡先まで交換した。

 それから花火の日まで落ち着かなかった。

 夜はなかなか眠れず、気づけば朝になっている。
 おかげで授業中に居眠りをしてしまって先生に怒られた。

 学校で話すことはなかったけれど、廊下で見かけたときにふと目があった。
 藤崎さんは少しだけ微笑んで、なんだかちょっとだけドキドキした。
 
 前日の土曜日、一日中そわそわしていた僕は藤崎さんにメッセージを送った。
 何度も文章を打ち直しては『明日、気を付けて来てください』という他人行儀な文章になってしまった。

 返ってきたのは『山城くんも』という短い言葉だけだったが、それでも顔が緩んでしまうくらい嬉しかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇


『もうすぐ着く』

 夏祭り当日、橋の近くで藤崎さんと待ち合わせをした。

 僕は張り切りすぎて20分も前に着いてしまった。
 さすがにそれは言えないので『僕も今ついたところだよ』と伝えた。

 彼女は遅刻をしているわけではないが、それでも到着前に連絡をくれるくらい律儀で優しい子だ。

 何度かメッセージのやり取りもした。もっぱら小説の話だった。
 読書以外に好きなことは?
 休みの日はどんなことしてるの?
 なんでこっちに引っ越してきたの? 
 と聞きたいことはたくさんあったが、何も聞けずにいた。
 

「お待たせ」

 その時、声がした。振り向くと、藤崎さんが立っていた。
 いつもとは違い髪をあげて、かんざしを挿している。
 薄くだが化粧もしているようだった。朝顔模様の浴衣がとても似合っている。

「似合ってるね。山城くん」
「え、あ、ありがとう。――藤崎さんも」
「そうかな。実はお祭りで着たの初めてなんだ」

 今朝、藤崎さんから『浴衣で行くね』とメッセージが来た。
 普段着で来ると思っていたから少し驚いた。
 なにより、初めて浴衣でお祭りに来たということが嬉しかった。


「じゃあ行こうか。花火まで時間もあるし、何か屋台でも」
「うん。あ、でもすごい混むってニュースで見たよ。場所取りとかってしなくていいの?」
「ああ、それは大丈夫」
「大丈夫?」
「それは、あとでその……秘密で」

 精一杯の僕の頑張りに気づいてくれたのか、彼女は「わかったよ」と微笑んでくれた。
 ほとんどの人が花火の目当てだったらしく、屋台は意外と空いていた。
 綿あめを食べて、かき氷を食べて、射的をした。

 藤崎さんは、輪投げで手に入れたユニコーンの大きなビニール風船を抱え、満足そうに歩く。

「楽しいね、お祭りは」
「そうだね、ほんと、楽しい」

 僕にとっては見慣れた祭りだ。でも、今までにないくらい新鮮に感じた。

 今までで一番、楽しい。

 それと、藤崎さんはやっぱり優しい人だ。
 
 回っている途中、ビニール風船が破けてしまって泣いている女の子がいた。
 藤崎さんは、女の子のところへ駆け寄ると自分のユニコーンを差し出す。

「これと交換してくれたら嬉しいな」
「いいの?」
「お姉さん、ユニコーンよりお花の方が好きなんだ」

 おそるおそるユニコーンを受け取った女の子は、破けてしぼんでしまったビニール風船を藤崎さんに渡した。

 「ピンクのお花可愛いね」

 そう言って笑う藤崎さんに女の子も笑顔になり、お互い「ありがとう」と言い合っていた。
 
 僕が「良かったの?」と聞くと「笑顔が可愛い子だったね」なんておどけていた。

 そんな彼女に僕はいっそう惹かれているのを感じる。
 大人びた表情も、自然と人を気遣える優しさも、すべてが素敵だと思った。
 

 気づけば屋台の折り返し、そこで、藤崎さんが指をさす。

「ねえ山城くん、あれってなに?」
「ああ、あれは灯空祭(ひそらさい)のランタンだね」
灯空祭(ひそらさい)?」

 白いテーブルに、ランタンがいっぱい並んでいた。
 これは、このお祭り特有のもので、願い事を書いて空に放つのだ。
 
「凄いね。願い事、なんでもいの?」
「うん。叶えたいこと、起こって欲しくないこと、なんでもいいよ」
「へえ、私やりたいな」

 僕たちはそれぞれランタンを買った。

 藤崎さんは隣でランタンを交換するカップルを見つめている。

「人から頂いたものは、より効果が強まるんだよ」
「そうなの?」

 人から貰ったランタンは、より、願い事が叶う。
 両親が子供に渡す際の習わしである。
 そして――。

「じゃあ、私たちも交換する?」
「えっ、う、うん」

 思わず返事をしてしまったが、実はもう一つ。
 プレゼントをした男女は、ずっと一緒になると言われている。

 ――それは、本当はカップルしかしないのだけど。

 それぞれ紙に書いたものを、ランタンの真ん中に結んだ。
 僕は、両想いになれますように、と書いた。

 空に放ってから、告白が成功しますように、のほうが良かったのかもしれないと思った。
 藤崎さんが何を書いたのかはわからないが、少しだけ悲しげだったのは気のせいだろうか。

 僕たちはランタンが舞う幻想的な夜空をしばらく見上げていた。

 すべてのランタンが放たれ、遠くの空に溶けていった頃、アナウンスが流れた。

『もうすぐ花火の開始時刻です。混雑しておりますが、急がずにお願いいたします』

 藤崎さんは少し焦った様子だったが、僕は落ち着いていた。

 こうみえても、地元民だ。

「あ、行かないとね――」
「藤崎さん、ちょっと暗いけど、僕を信じてもらっていい?」


 ◇ ◇ ◇ ◇


「凄い。誰もいない」

 やって来たのは高台にある小さな公園。ベンチと砂場があるだけだ。

「地図にも載ってないし、地元の人でも滅多に来ないんだ。もう少し南のほうに大きな公園があるんだけど、そこは人が多いからね。それにこっちは――ほら」

 僕は、ベンチを手でたたいた。
 二人並んで座り、空を見上げた瞬間、花火が上がった。

 藤崎さんが「凄い」とまた微笑む。

 遮るものは何もなく、視界いっぱいに色とりどりの花火が広がった。
 
 ここから見る花火は本当に綺麗だ。だが、僕はずっと彼女の横顔を見ていた。
 花火があがるたびに、目を輝かせ、太陽のような笑顔を見せてくれる。

 そんな彼女から目が離せなかった。


 僕は本が好きだ。
 読み終わった後、今までの価値観が覆されたり、目に映るものが違って見える。
 自分自身の感情が揺れ動いて、不思議な感覚になる。

 物語では、登場人物たちの恋愛模様が描かれることも多い。

 偶然の出会い、必然の出会い。違いはあっても、それはいつも突然に訪れたりするものだ。

 僕が藤崎さんの事を好きになった理由は周りからすれば、そんなことで? と思うかもしれない。

 でも、彼女の事を考えると胸が高鳴る。

 今この花火を一緒に見られたことが、本当に嬉しかった。

 すべてが終わり、彼女が余韻に浸るかのように小さく息を吐いた。

 慌てて前を向く。

「凄く綺麗だったねえ。びっくりした」
「良かった。そう言ってくれて嬉しいよ」
「――ねえ、山城くん」
「ん、どうしたの?」
「私のこと、見てなかった?」
「っ……」

 驚いて言葉につまってしまう。花火に夢中になっていると思っていた。
 見ていない、と言いかけるも、なんだか嘘はつきたくない。
 でも「見てたよ」とは言えず、なんて返事をしようか困っていたら、藤崎さんが「もう少しここで話さない?」と言ってくれた。

 少し食い気味で「もちろん」と答えたら、藤崎さんはクスリと笑う。
 楽しみにしていた夏祭りは、あっという間に終わってしまった。このまま帰るのは寂しいなと思っていたから嬉しかった。

 それから僕たちはお互いの事を話した。

 好きな教科、好きな先生、街の印象、家族構成、いろいろなことを聞いた。
 今まで何も知らなかったんだなと改めて思った。でも同時に、何も知らなくても好きな気持ちが芽生えたことになぜか嬉しくも思えた。

 そして僕は、何気なく尋ねた。陸上は、もうしないの? と。
 けれどもそこで言葉が返ってこなくなった。

 聞いてはいないことを聞いてしまったかもしれないと後悔しながら、少しの沈黙が流れる。

「怪我しちゃったんだよね。それも、ちょっと大きな怪我で」

 言いずらそうにしながらも藤崎さんは話してくれた。

「そうだったんだ。ごめん。思い出させるような事いって」
「ううん。でも、山城くんが走ってるの見て、元気出たよ」
「僕が? もしかしてあの……リレーのとき?」
「そう。覚えてる。凄く楽しそうだったね」

 確かに楽しかった。それは、藤崎さんのおかげでもあるけれど。

「あの時はありがとう。あのテーピングがなかったら、走れなかったと思う」
「ううん。お礼を言うのは、私のほうだから」
「お礼?」

 記憶を思い返す。僕は何かしただろうか。
 いや、そんなことはないはずだ。藤崎さんと話したのは体育祭の、あの時だけだ。
 誰かと間違っている?

「嬉しかったよ。私は、山城くんのおかげで、この街にきていいと思えたから」
「……どういうこと?」

「河川敷で話す前からずっと、山城くんのことが、気になってたんだよ」



 ◇ ◇ ◇ ◇



「藤崎、このペースを維持すれば新記録だぞ!」

 私は陸上のスポーツ推薦で都内の有名高校に入学した。期待されていた私は、その環境が良かったのもあり、中学の頃とはくらべものにならないほどタイムを更新していった。

 コーチも周りのみんなも優しくて、そして全員、本気で上を目指している。
 楽しかった。充実していた。もっと、もっと頑張りたい。そう思っていた。


「――っっっ!?」
「どうした藤崎、藤崎!?」

 だけど私の夢は、そこで途絶えた。

――多発性硬化症。
 この病気は、免疫系が誤って自分の神経を攻撃してしまう。
 それによって手足の筋力が低下し、ふらつきや転倒、重度だと歩行困難になることもある。

 幸い、軽度と診断された。でも、私にとって致命的だった。

 満足に走ることができなくなったのだ。
 どうしても軸がブレてしまう。倒れてしまう。バランスが、保てない。

 陸上は0.01秒を競う世界だ。みるみるうちにタイムは落ちていった。
 仲の良い友人は、一緒に団体競技をしようと言ってくれた。
 でも、そんなのできるわけがない。私のせいで負けたらどうするの? と言いそうになったこともある。

 優しく声をかけてくれるコーチや同級生の言葉が、素直に受け止めることが出来なくなった。
 マネージャーとして部活に残る事もできたが、それはしなかった。
 誰かが走るのを見ているだけでも、辛かったからだ。

 それから逃げるように本を読むようになった。一人になりたかった。
 教室にいるといやでもスポーツの話が聞こえてくる。
 その点、図書室は良かった。スポーツ高だったおかげで、人が少なかった。

 あまり読書なんてしてこなかった私は、名作コーナーと呼ばれる本棚から適当に本を借りて読み始めた。

 軽いものから、ちょっと重いものまで。
 そこで、太宰治の本と出会った。

 人間の孤独、絶望、自己嫌悪といった感情に深く追求していて、生きることの困難、未来への絶望すらも実直に描いている。

 それが今の私と重なった。

 走れなくなって半年が過ぎたころ、父の転勤の話があった。
 単身赴任でもいいと言っていたが、この高校に未練のなかった私は、母と一緒についていくことにした。

 転校後、すぐに馴染んだとまではいわないけれど、落ち着いた高校生活を送れていた。
 新しい学校がスポーツ高じゃないことにも安心した。
 常に勝ち負けや結果に気を張っている前の学校とは違い、穏やかな雰囲気の学校だった。

 でも、どの学校にも共通してそれを意識する行事がある。
 それは体育祭だ。

 誰が悪いわけでもないのに、勝手に距離を感じていた。
 体育祭に向け盛り上がるクラスメイトに気持ちがついていけず、より一層、図書室にこもるようになった。

 今は読書が好きだと胸を張っていえる。
 読み終わった後、今までの価値観が覆されたり、目に映るものが違って見えて、楽しい。
 自分自身の感情が揺れ動いて、不思議な感覚になる。

 やっぱり太宰治が好きだったけれど、誰にも言っていない。
 一度だけ「そんな古いの読むんだ」と言われてしまい悲しくなったからだ。
 以来、私は外で読むとき、ブックカバーを付けて読むようになった。

「なにそれ、そんな古いの読んでるの?」

 突然聞こえてきた声。
 驚いて顔を上げる。
 でも、それは私に対してじゃなかった。

「太宰治だよ。知らないの?」

 隣で、男の子たちが話していた。
 どうやら本を読んでいる男の子は、太宰治が好きらしく、その熱い思いを語っていた。

 私と同じように思う人がいることが嬉しかった。聞き耳を立てながら、彼の言葉に心の中でうなずく。
 登場人物の心情が良いところや、自分の弱い部分を克服しようとするところ、それが素敵だと。

「ふーん、山城って本当好きだよな、本」

 そして彼の名前は山城くんだとわかった。

 隣のクラスで接点はないけれど、廊下や合同授業があった際に目で追いかけるようになった。
 この感情が何なのかはすぐにわからなかった。
 けれど、図書室の窓から、彼がリレーの練習をしている姿を見て、応援しているのに気付いた。
 以前までは誰かが走っている姿を見るのもつらかった。
 なのに、彼の姿はずっと見ていたい。

 これが恋心なのかもしれないと、気づいた。

「……頑張ってほしいな」

 自然と、私はそう思うようになっていた。
 体育祭の当日、私は走らなくていい種目で無事出番を終えた。

 リレーの時間が近づいてくる。山城君には頑張ってほしい。

 でもそのとき、私は彼の歩き方に違和感を覚えた。
 気づけば声を掛けていた。触れてみると、少しだけ顔をゆがめる。
 足を痛めているのだろう。この状態で無理して走らない方がいい。

 でも、私は知っている。
 彼が今日のために頑張っていたことを。

「ちょっと待ってて」

 テーピングを借りてきて、私は彼の足を固定した。幸い軽い捻挫だと思う。
 ごめんねと思いながら、できるだけ強く縛る。

「凄い。まるで魔法みたいだ」

 彼の言葉が、私の胸に大きく響いた。
 ああ、私は誰かのために、動ける心があったんだ。

 結果をいえば山城くんは二位だった。でもとても綺麗なフォームで、彼らしい、努力が見える走りだった。
 そんな彼の姿に、胸が熱くなった。




 私の足は完全に治っておらず、たまに定期健診で病院に行っている。

 体育祭が終わって山城くんの走る姿を見ることもなくなり、放課後、病院からほど近い河川敷で本を読むのが日課になった。

 もっと、もっと山城くんを見ていたかった。
 そんな気持ちになっていた自分に、少し驚いた。


「……山城くん!?」

 いつもの河川敷、ハッと驚いて声が出てしまう。
 彼が、なぜか私がいつもいる場所で本を読んでいるのだ。

 それが、たまらなく嬉しかった。
 ここ、いいよね、ここ、凄く涼しいよね。

 そんな他愛もない事を言おうと思っていたのに、隣に座っても声を掛けられない。

 彼は私に気づくこともなく、夢中で本を読んでいる。
 読んでいたのは、あの時と同じ太宰治だった。
 
 話しかけたら迷惑かな、私のこと覚えてるかな。
 そんなことを考えながらしばらく彼を見つめていた。

 でも、やっぱり話したい。
 私のほうを見て欲しい。

「太宰治、好きなの?」

 本当は知っていること、ちょっとだけ申し訳ないと思いつつ声をかけた。
 彼は驚いていた。やっぱり、突然過ぎたかも。

 それから私も本を読みながら、ずっと山城くんのことが気になっていた。
 ずっと、ずっと一方的に知っていただなんて言えない。

 そして私は、橋の上の看板を思い出す。

 この街の花火は有名らしい。ニュースで何度も見たので、少し気になっていた。

 ……山城くんと行ったら楽しそうだな。
 全然関わりのない同級生が誘うだなんて、さすがに驚くだろうか。

 でも、もっと仲良くなりたかった。
 私は何度か河川敷で山城くんとの時間を過ごした後、勇気を出して夏祭りに誘った。


 ◇ ◇ ◇ ◇

「本当はずっと山城くんのこと知ってた。河川敷で声をかけたときもすごくドキドキしてた」
「そうなんだ……知らなかった」

 山城くんは驚いていた。それもそうだろう。仲良くなってからもそんな素振りは見せないようにしていた。
 恥ずかしかったのと、少しの不安があったから。
 でも、山城くんともっと仲良くなりたい。もっと彼のことを知りたい。もっと私のことを知って欲しい。

「ねえ、またどこか一緒にでかけない?」
「うん。もちろん」

 嬉しそうに頷いてくれる山城くんに私も自然と笑顔になる。

 次は一緒に向日葵畑に行こうと約束をした。
 夏休みはまだこれから。

 お祭りの帰り道、私たちは肩を並べて歩いた。

 いつか、彼と手を繋いで歩きたい。
 恋人同士になっていろいろな場所へ行きたい。


 実は私は、彼に言ってないことがある。
 彼が屋台に並んでくれて、私は木陰で待っていた。そのとき、聞こえてきた。

『ランタンを交換したカップルは、ずっと一緒にいられるらしいよ』

 初めは、陸上の事を忘れたいと書こうとした。
 でも、直前で思いとどまった。思えばここ最近、陸上の事を思い出していなかった。

 ずっと、彼の事を考えていたから。

 ――山城くんと両想いになれますように。

 そう願い事を書いてランタンを飛ばした。


 私の陸上選手になるという夢は叶えられなかった。

 でもこの願いだけは、叶ってほしい。
 きっと、叶えることができる。 

「来年の花火も藤崎さんと見れたらいいな」

 私は隣を歩く彼を見ながらそう思った。