桜花の家庭は、ごく一般的だった。
頼りないが優しい父親、厳しいが自分たちのことを考えてくれる母親、美人でかわいい姉がいる。
田舎に建てられた新築の一軒家の庭では、夏には家族でバーベキューをしたり、水遊びをしたり、冬には雪が積もるので滑り台を作って遊ぶのが恒例だった。
誰が見ても仲睦まじい普通の家族だった。
特別裕福ではないが不自由さを感じさせない生活で、桜花はもちろん幸せに暮らしていた。
まるで絵に描いたような幸せな家族の姿に、周りの人々は口を揃えて言った。
「羨ましいわ。みんな仲がよくて」
平和だった。
こんな幸せがずっと続いていくのだと、誰もが信じて疑わなかった。
そう、小学校に上がる前までは——。
桜花たちがまだ保育園に通っていた頃、父親が突然病死した。
末期の胃癌で手を尽くす術もなく、その命が燃え尽きるまではあっという間のことだった。
桜花の記憶に父の面影はあるが、思い出として残っているものは少ない。
唯一頭に浮かぶのは、目尻を下げて笑う情けないほどに緩んだ顔だったが、それも桜花の記憶として残っているというよりは、遺された写真を飽きるほど見て刻まれたものに過ぎない。
亡くなったという事実を受け入れるにはそのときは幼すぎて、桜花が放った言葉がどれだけ母親を傷つけたのか、桜花は随分大きくなってから気付いたのだった。
「お父さん、いつになったら帰ってくるの? 早く会いたい!」
一番古い桜花の記憶は、いまの桜花の中に色濃く残っている。
母親のひどく歪んだ顔も。
死、というものを理解できなかったので、桜花からすれば父親はどこかへ行っているだけでいつか帰ってくるものだと思っていた。
そうでないと気付いたのはいつだったのかもう覚えてはいないが、その頃から桜花の身の回りは一変した。
静歌は、母親似だった。
ぱっちりとした二重瞼に、きりっとした目元。
一見きつそうな性格にも見えるが笑うと花がほころんだようで、とても愛らしかった。
桜花は、父親似だった。
すっきりとした一重の瞼に、薄い唇。
こざっぱりとした顔立ちだったが、決して整っていないわけではない。
二卵性の双子だったので、二人が似ていなくてもなにもおかしくはなかった。
「静歌はママに似て多才になりそうだなあ」
「桜花はパパに似ているから、ちょっと鈍いところもあるかもしれないけれど、許してくれよな」
そんなふうに父親が笑いながら頭を撫でてくれたことを桜花は覚えてはいなかったが、その何気ない言葉がそのまま現実になろうとはきっと誰も予想していなかっただろう。
父親がこの世を去った後、度重なる桜花の「父親に会いたい」という発言で、母親は疲弊していた。
愛する人が亡くなったのだ。
自分の子であろうと、冷たく接してしまうのはそのときは仕方のないことだったのかもしれない。
「何度言ったらわかるの⁉ お父さんはもう帰ってこないの‼」
悲痛な母親の叫びが何度部屋にこだましたかはわからないが、桜花もまたなぜ自分が怒鳴られているのかを理解できていなかった。
静歌は桜花と違い、なんとなく父親にはもう会えないことを察していたので桜花のように騒ぐことはなかった。
母親の心は、半分壊れかけていた。
父親に似ている桜花を見るたび、思い出すのは亡くなった自分の旦那のことで、そのつらさから母親は桜花にきつく当たるようになっていた。
悲しい現実から目を背けたかったのだろう。
わがままを言い続ける桜花と、ただ現実を受け止めた静歌。
母親にとってどちらが可愛い子かなんて、明白だった。
小さい頃はそこまで優劣の差を垣間見ることはなかったが、小学校へ上がり静歌が多方面で活躍し始めるとその差は歴然となり、母親の桜花への風当たりはますます厳しくなっていた。
「静歌はまた賞をとったのに、あなたは入賞すらできないのね」
呆れたようにため息交じりで母親から言われたその言葉は、桜花の心をいとも簡単に傷つけた。
それでも、桜花はめげなかった。
自分が静歌のように褒めてもらえないのは、自分にはなにもないからだ、と。
唯一、桜花が静歌に勝る部分は頭脳だったが、それも母親の「やれば誰にでもできることより、あなたにしかできないことをやり遂げるのがすごいことなのよ」と静歌に言って聞かせるのを聞いて、深く心に傷を負った。
口を開いたかと思えば、静歌の話題ばかり。
桜花に言って聞かせるのは、いかに静歌が優れていて桜花が劣っているか、という話ばかりだった。
そんな歪な家族の形は表面上では保たれてはいたが、中を覗き込めば泥沼だ。
「お母さんの言うことなんて、気にしちゃダメ。わたしはわたしで頑張るから、桜花も一緒に頑張ろう」
中学生のとき、静歌が桜花にそう言った。
静歌もまた、母親が自分に期待をし過ぎていると感じていたが、亡くなった父親の分まで頑張ろうという健気な心が静歌自身を奮い立たせていた。
桜花は、そんな立派な姉が大好きで、だけど疎ましくも感じていた。
「静歌ちゃんって、本当になんでもできて天才だよね!」
「かわいいし、優しいし、完璧って感じ!」
地元でちょっとした有名人だった静歌は、中学でも高校でも、同じようにはやし立てられた。
母親似の整った容姿も相まってその人気は絶大で、いつでも友達に囲まれていた。
対して桜花は、教室の隅でひとり本を読んでいるか窓から外を眺めたりしていることが多いおとなしい子供だった。
頭は良かったがそれ以外に特別秀でた才があるわけではない桜花は、いつも静歌の陰に隠れていた。
普段の勉強ができても、特別表彰されることもない。
個人情報の保護という名目で、いつの間にか成績順位表も廊下に貼りだされなくなった。
中学では必ず部活動に所属しなければならなかったので桜花はなんとなく弓道部に入ったが、これといった実績はなにもない。
勉強ができても、表立って賞されることがなければ桜花にとっては無意味だった。
「……双子なのに、静歌ちゃんと桜花ちゃんって全然似てないよね」
決まって桜花が言われるのは、このようなセリフだった。
容姿だけでなく中身も違うと言われているようなその言葉に、桜花は何度悔しい思いをしたかわからない。
双子なのに自分は静歌のように陽の当たる世界で生きていくことはできないのだと、桜花は少しずつ気付き始めていた。
「静歌の方がお姉ちゃんなんだろ? いいとこ全部向こうに取られて、桜花は残りカスだな」
いつかクラスの男子が言っていた悪口は、ずっと桜花の心の片隅に小さな染みとなって残り続けている。
家でも学校でも静歌と比べられ続け、「だめな方の子」と刷り込まれた桜花は、明るかった性格は見る影もなく、いつの間にか卑屈で暗い性格へと変わっていた。
性格は顔に出ると言うが、桜花の目はいつしか吊り上がりきつく見えるようになっていた。
勉強が多少できなくても、病弱で運動ができなくても、持ち前の明るさと整った容姿、欠点すら覆す特技があれば、うまく生きていける。
「ちょっと勉強できないくらいの方が、親しみやすくていいよね」
「持病はかわいそうだけど、運動はできなくたって困らないよ!」
静歌を囲む周りの人たちは、口々にそう言い静歌を褒め励ました。
静歌は自分の弱点すら、強みに変えたのだ。
桜花はずっと、そんな静歌を憎らしく思っていた。
桜花の唯一変わらない部分は負けず嫌いな点だった。
日の目を見なくても、それがいつか自分の将来へと繋がるのならと、桜花は勉強だけはずっと努力しており成績も常に上位だった。
誰かに称賛されることがなかったとしてもいいと、ただひとり陰で努力を続けていたのだ。
その甲斐もあり、桜花は早い段階で大学進学を決めた。
私立の有名理系となれば偏差値も高く、並大抵の人が行ける場所ではない。
そこへ入学すると決めたのは、地元からその大学へ行く生徒はいないと情報を得ていたのと、自分を知っている人がいない場所で新たな人生を送りたかったから、というのが大きな理由だ。
母親に合格したことと、高校卒業後は一人暮らしをする旨を告げると、まるで厄介者がやっといなくなると言わんばかりに、冷たく「そう」と言われただけだった。
桜花は、本当は心のどこかで期待していた。
地元から行ける人がいないような有名大学に合格すれば、もしかしたら母は自分を褒めてくれるのではないか。
父がいた頃のように、温かい家族に戻れるのではないか、と。
だが、そんな淡い期待は無残にも散ってしまった。
一人で暮らす場所の目星もつけ何事もなく無事に高校を卒業した桜花が、静歌も専攻は違うが同じ大学に合格したことを聞かされたのは、桜花にとってまさに青天の霹靂だった。
なんでもかんでも静歌に結びつける母との会話を避けるうちに、静歌とも家で話すことは減っていたので、桜花と同じ大学に願書を出していたことすら知らなかったのだ。
「静歌は勉強もできるのね! お母さん、鼻が高いわ」
桜花の方が偏差値の高い学部に入学したはずだった。
それなのに、後期試験でギリギリ受かった静歌に対し、母親は必要以上に静歌を褒めた。
自分が過剰に褒められるたびに静歌が「すごいのはわたしより桜花だよ」と言っているのをたびたび見かけたが、母親にはそんなことは関係ないようだった。
(——わたしは何をやっても、結局一番にはなれない。お母さんの特別にはなれないんだ)
捨てようとしても捨てきれない母への期待が、桜花の心をぐしゃりと潰したのだ。
(——もう、期待するのはやめにしよう)
長年に渡って消し去ることのできなかった母への思いを、桜花は封印することに決めたのだ。
静歌の合格がわかったのは、卒業式も終えた三月九日だった。
大学の入学式は次月だったので、新しく住むところをこれから探すにはハードなスケジュールだった。
「……桜花がよければ、一緒に暮らしたい」
おずおずと桜花の顔色を窺うようにして静歌がそう尋ねてきたのは、静歌の合格がわかった後すぐだった。
心の中で静歌を妬み僻んだことは数えきれないほどあるが、静歌が自分を守ろうとしてくれていたことは桜花も肌で感じていた。
母からの過度な期待についに疲れた静歌も、桜花と同じで母から離れたがっていたのだろう。
二人暮らしとなれば、家賃や光熱費など折半できてその分お金も浮く。
さいわい父が遺した多額の保険金があったので、二人で暮らすにしても生活面で苦労することはないだろう。
これからは、自分のことを誰も知らない場所で、生きていける。
近くに静歌がいたとしても、専攻が違えば構内で会うこともほぼないだろう。
姉妹仲が特別良いわけでもなかったが、いわば桜花と静歌は同志だ。
新しい世界で、誰にも干渉されずにこれから生きていけるのなら……。
そう思えば、心は軽かった。
上手くレイアウトすれば、二人暮らしもできそうな部屋の間取りだったこともさいわいした。
桜花は様々な面から熟考し、静歌に二人暮らしをすることを承諾した。
事件が起きたのは、その僅か三日後だった——。
桜花はここまで思い出し、一度大きく息を吸って吐いた。
心臓の嫌な音が収まらなかった。
(——いまから話すことは、まだ誰にも知られていないわたしの本当の罪だ)
桜花は今日一番の強さで、拳を握った。
綺麗に手入れされた長い爪が食い込んで手のひらに跡をつくったが、それすらも厭わないほどに強く強く、桜花はぎゅっと拳を握り締めた。