もう二度と来ることはないと思っていた、そんなふうに思うのはこれで何度目だろうか。
結局いつも自分が想像しない方に物事は勝手に進んでいく。
桜花はそう感じていた。
今日大学にいることが、その証明だ。
すれ違う学生が桜花を見る目は、以前とはまるで違っていた。
どこか遠巻きに、どこか避けるように、桜花を見てはひそひそと耳打ちで話し出す。
羨望の眼差しではなく、軽蔑を含む冷めた視線をそこかしこから桜花は感じた。
ランウェイのようだったかつての通路は、ただのコンクリートの道へと変わり果てた。
大学の長い夏休みが明け、今日から始業だ。
桜花はただ前だけをまっすぐ見て、歩いていた。
怪我の具合も良くなり退院は前期試験に間に合ったが、試験はあえて受けなかった。
だから前期の必修やその他すべての単位を落とすこととなった。
あえて、桜花はその道を選んだ。
本当の意味でもう一度やり直したいと、心から思ったからだ。
それは、静歌の書いた手紙に感化されてのことだった。
あの手紙がなければそう思える日は一生なかっただろうと桜花は感じていた。
周りからの視線やこそこそと話す声が気にならないわけではなかったが、気にしないように徹すると桜花は決めていた。
後期の履修登録は漏れなく行った。
前期の単位を全て落としたので進級するにはかなり講義を詰めなければならなかったが、これまでのように周りに合わせて講義を取る必要がないのは楽だった。
むしろ、自分の受けたい講義を好きなだけ詰められる。
誰かに合わせてばかりだった生活より、ずっと幸せだった。
一コマ目は、なんなく講義を終えた。
やはり周りからの視線は感じたが、その程度だ。
誰かから直接的に何か言われることはないし、自分が気にしなければそれで済む。
学部の必修は後期にもあるので、美樹や律、諒とも会う機会はあるだろう。
今日がその日でもある。
でも、そんな些細な事、桜花にはもう関係がなかった。
後期の必修である次のコマは、六十人程度の学生が入れる小さめの講義室で行われる。
それはあの大講義室に繋がる廊下の先にあるので、必然とエレベーターホールの前を通り抜ける必要があった。
そこには数人の学生がたむろしており、何人かの生徒は桜花に気付いたようで、通りすがると二度見された。
だが、特別何か言われるわけではない。
(——こういう日常にも慣れていくんだろうな)
桜花は胸を張って、ただ歩いた。
もう桜花は、大学の裏サイトや自分のSNSを見るのはやめた。
アカウントは残っているが、アプリはアンインストールした。
見る物自体なくなると、『周りからどう思われているんだろう』といちいち不安に駆られることもなくなったし、常にネット社会にいるという意識がなくなってストレスも減った。
たまにどうしようもなく確認したくもなるが、それが利益を生まないことを利発な桜花は知っていた。
静歌としてアップロードしていた動画のチャンネルも同時に閉鎖した。
本当は何か声明を出した方が良かったのかもしれないが、ひっそりとサイトをたたんだ。
人の噂も七十五日という。
きっと気付かぬうちに次の標的が現れて、桜花のことなどいつかみんな忘れてしまうだろう。
誰かの記憶に残るような人間になりたかった。
あの日教室から消えた須藤のようにはなりたくないと思っていた。
だが、桜花は自ら消えることを選んだ。
講義室に着くと既に何人かの生徒が着席していた。
その中に美樹たちの姿はない。
桜花は後ろから三列目の窓際の席にひとりで腰を下ろした。
講義開始三分前になると室内はだんだんと人で埋まり、それでも十分なスペースはあるので、桜花の隣の席は埋まらなかった。
やがて前の扉の方から、見知った姿が入ってくる。
美樹と、律と、諒だ。
変わらず三人は一緒にいるようで、桜花がいることに気付いたらしい美樹は、はっと目を見開かせた。
桜花は美樹が自分を見ていることに気付いたが、目だけは絶対に合わせなかった。
三人はまだ空いていた講義室の前の方へと腰を下ろした。
桜花はそれを視界の端で捉えながら、淡々と講義を受ける準備をしていた。
(——これでいいんだ)
そう思いながら、三人の後ろ姿を見つめていた。
きっともう、こうして同じ空間にいることはあっても、面と向かって顔を突き合わせる日は来ないだろう。
これでいいと、桜花はもう一度自分に言い聞かせた。
つつがなく講義は終わり足早に教室を出ると、反対側の出口から三人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
(戸惑った美樹の顔。この顔を見るのは、何度目だっけ……)
そんなことを思いながら、桜花は向かいから歩いてくる美樹に小さく微笑んだ。
美樹は泣き出しそうに顔をくしゃっと歪めていたが、桜花はそのまま通り過ぎた。
(——ばいばい、美樹)
もう自分とは一緒にいない方がいいだろう。
桜花はひとりでいることを、初めから決めていた。
もう一度エレベーターホールの前を通ると人は誰もおらず、窓の近くには変わらずパキラがあることに気が付いた。
近くに寄ると、あの日陽が当たらず縮こまっていた葉の方が窓辺の方に向きを変えられていて、少しばかり大きくなっていた。
桜花はその葉を優しくひと撫でした。
一日の講義を終えた桜花は、急ぎ足で弓道場へと向かっていた。
記念すべき登校再開の日に、菅野に伝えたいことがあったのだ。
曇り空の下、弓道場の中をちらりと見やると思った通り菅野はひとりでいて、弓を引いている最中だった。
ちょうど離れの瞬間で、放たれた矢はまっすぐと的へ向かって飛んでいく。
ぱんっと弾ける音がして、それは見事に的中した。
「来たんだ。まあ来るんだろうなとは思ってたけど」
残身の型をとったあと、菅野は桜花の方を振り返り、的に飛んで行った矢を回収しに歩き出した。
的に当たらず壁に刺さった矢が二本、的に中ったのが二本。
羽分け、だ。
(——やめてから数年経つのに、用語だけは覚えているものだな)
矢を取り元の立ち位置に戻った菅野は、桜花の顔を見て呟いた。
「なんか吹っ切れた顔してるじゃん」
「……そうかもしれません」
菅野の言葉に、桜花は小さく笑みを浮かべた。
「……わかったんです。あの日あなたが言った言葉の意味。静歌がわたしに手紙をくれて、それで本当の意味で、やっとわかりました」
あの手紙を読んでから今日までの約一か月半という期間の中で、桜花の心は以前から大きく変わっていた。
性格は顔に出るとはよく言うが、桜花の清々しい顔つきは以前よりも明るく生き生きとして見えた。
「そっか」
そんな桜花を見て、菅野も同じように小さく笑みを返した。
九月に入ったというのに、まだまだ残暑で生温い風が二人の間を通り抜けていく。
肩まで短くなった桜花の緩いウェーブの髪が揺れた。
「あなたは——……」
そんなふうに呟いた言葉は、風の音に紛れて消えてしまった。
菅野の綺麗なブロンドの髪も、風のせいで少しだけ乱れていた。
聞きたいことがあったが、菅野にとってそれは愚問のような気もする。
どうして、なんて考えなくても今の桜花にはわかったが、ふと気付いたときにはいつだって菅野の背中は寂しそうだった。
頭に浮かんだ言葉を心の中に閉じ込めて、桜花は一冊のノートを取り出した。
痛みを蒸し返すとわかっていても、それを菅野に持っていてほしかった。
今日どうしても菅野に会いたかったのは、これを渡したかったからだ。
「……これ、あなたが持っていてください」
桜花が差し出したそれは、淡い花柄の静歌の日記だ。
もうあの部屋に帰る日は来ないから、静歌の形見と言ったらもうこれと手紙しか残っていない。
「……なんで俺に?」
菅野は薄っすらと目に涙を溜めながら、桜花を見た。
(——理由なんて、自分が一番わかっているくせに)
そう思ったが桜花は何も言わずに、ただ菅野の目の前にノートを差し出た。
(——地元までついてきておいて、静歌のことを何とも思ってなかったわけがない。静歌だって、家族にすら言えない悩みをこの人には打ち明けるくらい、心を開いていたってことだから)
双子だから、桜花にはわかっていた。
静歌は、菅野が好きだった。
手紙に書かれていた『好きな人』。
それはきっと、この人のことだろうと。
静歌は学生時代男女問わず好かれていたし、もちろん告白されることだって数多にあった。
思えば静歌は、そのすべてを断っていた。
どうしてだろうと桜花はずっと不思議だったが、そういうことなのだろう。
二人が惹かれ合った理由を静歌の口から聞くことはもう叶わないが、静歌はこれを菅野に持っていてほしいと望むはずだと、桜花は確信していた。
菅野もきっと。いや、絶対に静歌のことを同じように思っている。
涙を浮かべ唇を震わせている姿が、それを桜花に伝えていた。
「……ありがとう」
菅野は変わらず目に涙を溜めたまま、震える手でそれを受け取った。
いつか、菅野から聞けたらいい。
静歌とどんなふうに出会ったのか。
どうして静歌を好きになったのか。
自分が知らない静歌のことをいつか知ることができたらいいと、桜花は本心からそう思った。
それまでずっと曇っていたのに、ぱっと急に陽が差した。
眩しさに目を細めて桜花は空を見上げる。
いままでより鮮明に、空の青さが目に映った気がした。
(——世界はこんなにも眩しかったんだ)
トンネルのような暗いところから明るいところへ出ると目が一瞬眩むが、例えるならそれが一番しっくりくる。
桜花はずっと出口の見えない暗闇を歩いていて、そこからいまやっと出られたのだ、と。
自分に見えていた世界の中は、狭くて本当にちっぽけだった、と。
自分が世界で一番不幸でかわいそうなのだと、ずっとそう思って生きてきた。
だけど、本当は気付いていなかっただけだ。
誰もが何かを抱え、隠しながら生きている。
明るく笑い、多才で万人から好かれる静歌でさえ。
そして、目の前にいる菅野も、過去の生い立ちと好きな人を亡くした悲しみを隠して生きている。
それまで見ていたもののすべては、誰かの側面であってそれが全部じゃないのだと、桜花はやっと気付いたのだ。
もう何度も読み返した静歌の手紙を見て、心からそう思った。
みんな、ないものねだりで生きている。
それは生きていく中で、きっと変わらないのだろう。
これからも些細なことで、あの人いいなとか、もっとこうだったらよかったのにとか、他人を羨むことがあるだろう。
けれど、羨んだり妬んだりする前に、今度はもう一度考えたいと桜花は思うようになった。
どうしたら、自分はそうなれる?
自分の望むものを手に入れられる?
きっとその人も、何の努力もなしにその結果に至ったわけじゃないだろう、と。
どうにもならないことも、きっと世の中にはたくさんある。
あれからずっと連絡すらない母親との関係がその例で、きっと血の繋がりのある親子だとしても、相性なのだろう。
だって、桜花も母親も、別の人間だから。
分かり合える日がいつか来ればいいと思いながら生きてきた。
愛されることを望んでいた。
だけど、そんな日は来ないと桜花はもう分かっていた。
子供を嫌いな親はいない、そんなのは綺麗ごとだ。
世の中には理屈でどうにもならないことなんてたくさんある。
いくら努力しても得られないものもたくさんある。
それが普通で、当たり前だ。
桜花にとって、それが母親だったというだけだ。
この世界で生きていくことは、桜花にとって厳しいことの連続だろう。
だが、桜花はもうあの日のままじゃない。
自分らしくいられることがどれだけ素晴らしくて幸せなことなのか、桜花はやっとわかった気がしていた。
「……これから、きみはどうするの?」
日記をめくりながら菅野が言った。
「実は、ブランド品全部売ったんです。学費はそれでまかなえそうだから、とりあえずバイト見つけようかなって」
「そっか。動画であれだけ注目浴びるくらいの才能があるんだから、きみはきっと大丈夫だよ」
「……そうだといいです。とりあえず、一緒に卒業できるように頑張ろうと思います」
桜花が笑うと、菅野は首を傾げた。
「……? きみ俺のこと何年だと思ってた? 俺、来年卒業。いま三年」
「……! 静歌がため口だったから、てっきり同い年かと」
桜花が尻すぼみにそう言うと、先ほどまでの涙は嘘のようにまじかと菅野は笑った。
静歌がいると、自分は誰の目にも映らない。
桜花はずっと、そう思って生きてきた。
でも、もうそれでもいいとさえ思っていた。
たった一人でもほんとの自分を見ていてくれた人がいる。
その事実があるだけで、どこまででも行けるような気がした。
自分の犯した罪は消えることはない。
静歌にごめんと謝れる日はこれから来ることもない。
死ぬことが償いになるわけじゃない。
間違いを間違いと認めて、これから自分らしく、正しく生きていくことが静歌への一番の償いだと桜花は気付いたのだ。
ナイフでついたあの日の傷に服の上からそっと触れてみる。
ポケットに入れ肌身離さず持ち歩いている静歌の手紙が、小さく音を立てた。
(——わたしは今度こそ、ひとりで歩いていくんだ)
偽りの姿だった桜花は、もうどこにもいない。
雲が通り去った、抜けるように青い空を見上げて、桜花は笑いながら一粒涙を溢した。