「傷どう? まだ痛む?」

 ベッドの傍らでしょりしょりと器用にりんごを剥くのは菅野だった。
 身長に見合わない細く長い白磁のような指は、作り物のように綺麗だ。

 桜花を気遣いそう言う菅野だが、彼も肘に包帯を巻いており見るからに痛々しかった。
 桜花が後ろに強く手を引いて倒れた際に、勢いよく肘を打ち付け擦りむいたのだ。
 だがそうしなければ、あの時菅野はナイフで刺されていただろう。

 桜花は菅野の問いかけに何も言わなかった。
 菅野がナイフを滑らせる音を聞きながら、窓の外を眺めていた。
 締め切られた窓を飛び越えて、蝉の鳴き声が微かに聞こえてくる。
 外は少し風が吹いているのか、青々と茂った深緑の葉が揺れていた。

(——どうしてまだ生きているんだろう)

 桜花はただそれだけを考え続けていた。




 あの日、桜花は死んでもいいと確かに思っていた。
 迫りくるナイフの切っ先と焦りを帯びた須藤の顔を見ながら、思い浮かべたのは静歌のことだった。

 まさか自分の目の前に桜花が出てくるなど思いもしなかったのだろう。
 須藤は直前でナイフの矛先を変え、それは桜花の左の前腕を切りつけた。

 十針以上縫う大怪我で痕は残るようだが、幸いなことに日常生活に影響が出る可能性は低いとのことだった。
 本来ならば腹のあたりに刺さっていたのだろうが、結果としてあの日誰も死なずに済んだのだった。

 須藤は、連行された。
 その場に駆け付ける前に菅野が通報していたため、桜花が既に傷を負ってしまった後だったが警察が到着し、傷害罪としてその場で現行犯逮捕された。
 最初は桜花を傷つけてしまったことに動揺していたようだが、連れていかれる時に須藤は狂ったように何かを叫んでいた。
 それが何だったのか、今となってはもう知る由もない。

 聴き取り調査では、桜花はありのままを伝えた。
 複雑な事情が絡み合っていたので警察も困惑しているようだったが、静歌の件はやはり持病が元々あったことと、当時外傷がなかったことから、須藤によるストーカー行為での心臓発作とは認められなかった。
 だがそれとは別で、須藤には殺人未遂の余罪があると検察の調べがついたそうだ。
 というのも、須藤は自身の母親を階段の上から突き落とし、意識不明にさせた疑いがあるとのことだった。

 運よく昏睡状態から目覚めた母親自身が「息子に突き落とされた」と証言したことで発覚した。
 監禁されていると言っていた須藤がどうしてあの日外を出歩いていたのか、それで理由がわかったのだった。

 あの日の出来事は、神様が図ったかのように出来すぎていた。
 まるで、最初からこうなることが決まっていたかのようだ。
 須藤が“運命”と言った気持ちもわからないでもないと、桜花は少しだけ思ったのだった。

 地元のニュースでは、その一連が報道された。
 桜花の実名は出ていないが、近所に知れ渡るのも時間の問題だろう。

(——死んでいたら楽だったのに)

 桜花はずっと、そんなことばかり考えていた。

 もう本当に、居場所なんてどこにもない。
 地元にはいられないし、あんな騒ぎになった後で大学にもう一度通えるわけがない。
 仕事だってまともにしたことがないし、金もない。
 これから生きていくのは今まで以上に苦労するだろう。

 地元の病院に入院になったというのに、母親は一度だって現れない。
 隣にいるのは、つい最近知り合ったばかりの大学の同期生。
 お先真っ暗、と言う他なかった。

「……大学、行かなくていいんですか」

 桜花は窓から菅野へと視線を戻し、りんごを切り終えた彼にそう言った。

「出席率のこと気にしてんの? それならたぶん大丈夫。いままで単位落としたことないし」

「……そうですか」

 同じ大学に通っているという時点で、菅野が頭脳明晰だということはわかっていた。
 だが、こうもあっけらかんと言われてしまうと、自分との差をありありと感じてしまう。

 桜花は菅野と違い一年の頃単位はいくつか落としてしまったし、普段の講義も予習をしてなんとかついていっていたくらいだ。
 一日休めば内容を取り戻すのに苦労するし、そこからどんどん周りに差をつけられてしまう。
 長く大学を休んでしまったので、いまから追いつくことは無理だろう。
 テストはおろか、出席日数の足りていない単位もきっとある。

 自分は、頭がいいと思っていた。
 だから有名私立大学にも入れたし、なんとか進級もできた。
 だが、自分より出来の良い人間などいくらでもいる。
 大学に入ってから、自分が生きてきた世界はとても小さく狭いものだったと気付かされたのだ。

 ふいに、目の前にずいっと皿を差し出された。
 そこには綺麗に八等分に切られたりんごが、円を描くように芸術的に盛られていた。

(——そういえば、静歌とこの人は絵画の展覧会で出会ったんだっけ)

 りんごの並べ方を見た桜花は、きっと独特な美的センスが菅野にもあるのだろうと感じていた。

 せっかく剥いてくれたりんごだが、桜花はどうにも食欲がわかなかった。
 申し訳ないと思いながら小さく首を振ると、菅野は何も言わず先ほどまで使っていたナイフをケースに入れ自分のポケットへとしまい、今しがた剥いたばかりのそれをひとつ齧った。
 菅野は小気味のいい咀嚼音を立てながら食べ進め、またひとつりんごへと手を伸ばす。

 桜花はまた菅野から視線を逸らし、窓から遠くを見つめる。
 何かの鳥が大きく羽を広げ、羽ばたいていくのが見えた。

「まあ、さすがに試験までには戻るけど。きみもだろ?」

 すると、菅野は当たり前のように桜花の背に向かってそう言った。
 桜花は眉根を寄せて菅野を振り返ったが、その顔は冗談を言っているわけではなさそうだ。
 掛け布団をぎゅっと握りながら、桜花は菅野を睨んだ。

「……いまさら戻って、何になるんですか? 居場所もないし、勉強だってついていけないし」

「じゃあ、辞めるの?」

 不貞腐れた様子の桜花に、菅野は平坦な声で言った。
 辞める。それが一番賢明な判断だと桜花は思っていた。
 だが辞めた後、どう生きていけばいいのかまではまだわからなかった。
 そんな桜花を、菅野はどんな気持ちで見ていたのかはわからない。

「……まあ、もう少し考えればいいよ。とりあえず今日はホテルに戻るけど、無茶しないようにな」

 そう言って、菅野は何切れかのりんごをサイドテーブルに残したまま帰っていった。
 一気に病室内は静まり返り、桜花はそっと腕にできた傷に触れた。
 まだ疼くような痛みがあったが、もうほとんど平気だ。
 切り傷がひどくそこから細菌感染をして高熱が続いた数日前の方がよっぽどしんどかった。
 既に熱は引いたし傷の具合も良さそうなので、もうすぐ退院できるだろう。
 腕の包帯を眺めながら、桜花は何度も考えていた。

(——退院したとして、それからどうする……?)

 自ら命を絶つほど追い詰められているわけではなかった。
 だが、あの日に死んでしまえたらどれだけ良かっただろうと思ってしまう。

 何度スマホを見ても、自分のやってしまったことは消えない。
 相変わらず心ないコメントは動画につくし、パパ活疑惑として静歌と桜花の名前がネットに上がってしまっている。
 大学の裏サイトから漏れたのか情報は錯綜していたが、紛れもないデジタルタトゥーだ。

 真実を知る者が菅野と須藤、自身の母親しかいないと言えど、この世界を過ごすにはあまりにも生きにくい。
 頼れる人の顔も、ひとりとして浮かんではこなかった。

 ふと、窓際に沿うように置かれたオープン型キャビネットが目についた。
 そこには事件の日に桜花が持っていたバッグがしまわれている。
 ベッドから起き上がり、キャビネットの扉を開け鞄を取り出した。
 トートバッグの中には、あの日持ち出した静歌の花柄の日記帳が入ったままだった。

 ベッドへと戻り背もたれに寄りかかりながら、桜花はなんとなくもう一度静歌の日記を最初から読み始めた。
 一ページずつ、丁寧にめくっていく。
 何度読み返しても、どれも日常の些細な出来事が書いてあるだけだ。
 楽しかったこと、不満だったこと、それが静歌らしい話し言葉で綴られている。

 あっという間に読み終えてしまい、ページから静歌の文字が途切れた。
 だけど桜花は、そのままぺらぺらと何も書かれていない後半のページをゆっくりとめくり続けた。

 何も考えていなかった。
 ただ、無心だった。

 どれだけめくったのかはわからないが、もう終わりに差し掛かった頃だった。

「え?」

 思わず声が出て、ページをめくっていた手がぴたりと止まった。
 何も書かれていないと思っていた空白の最後から五ページ目に、ふいに静歌の文字が現れたのだ。
 その文字が書き込まれていたのはノートの綴じ代寄りの隅で、ぺらぺらとまくっただけでは気付かないような場所だった。
 これまで書かれていた一言日記とは違う雰囲気で、まるでそれが静歌の本心と言わんばかりに異様な空気を醸し出していた。

『死ぬのは怖い』

 最初に見つけたページには、たったそれだけが綴られていた。
 桜花は震える手で次のページへ手を進めると、また同じような下の隅に『でもそんなこと言えない』と続いた。
 震える手で書いたのだろう。
 文字は綺麗だが、所々線がよれている。

 さらにめくると『いつか伝えられたらいい』とたった一言が綴られていた。
 桜花の心臓は、異常なほどの早鐘を打っていた。
 次のページをめくるのは、勇気が要った。
 だが、なけなしの勇気を振り絞り、相変わらず震える手でページをめくった。

『あなたが一番大切にしている物の中』

 最後の空白の一ページを残し、静歌の日記はそこで本当に終わっていた。

「どういうこと……?」

 日記を開いたまま、桜花はひとり呟いた。
 こんな日が来ることをずっと待ち望んでいたような静歌の言葉に、桜花は呆然と空白のページに視線を落としていた。




『あなたが一番大切にしている物の中』

 静歌が誰に向けて書いたのか分からなかったが、なんとなくそれは自分に向けられたもののような気がしていた。
 そして、一番大切にしている物。
 桜花にはたったひとつだけ、心当たりがあった。

 大学は今頃、前期試験の真只中だろうか。
 そんなことを思いながら桜花は無事に退院し、一人暮らしをしている関東にあるアパートへ戻ってきた。
 久しぶりに入る部屋は、いつも通りだった。
 自分が買い漁ったブランド品が至る所に転がり、大きな姿見は桜花を出迎えてくれた。
 もう鏡を見ても、そこに静歌の幻は映らない。

 桜花はまっすぐ、部屋のある場所に向かった。
 造り付けの収納棚だ。
 地元から引っ越す際、必要なものだけ持ってきた。
 他の物は必要ないとほとんどの物を処分したため、実家にある桜花の部屋はもう空っぽだ。
 選りすぐりの桜花にとって大切なものが、その収納棚には入っている。

 久しく開けるそこは、埃っぽくもなく綺麗だった。
 少しごちゃっとしているが、目当ての物はすぐそこに見えていた。

 矢筒だ。

 それは、部活を始めた中学生の時に唯一母親が買ってくれたもので、桜花は特別大事にしており思い入れが深い品だ。

(——この矢で誰よりも的を射れば、今度こそ褒めてもらえるかもしれない。外したら終わり、なんてあの頃は思っていたな。結局、何も結果は残せなかったけれど)

 苦々しい思い出とともに唯一の心当たりであるそれを取り出して、リビングの方まで持って行く。
 一呼吸おいて何年も開けることのなかったその蓋を開くと、何本かの矢が中に入っていた。
 一本ずつ丁寧に取り出したあと、筒を逆さに振ってみる。
 すると、すとんと音を立てて丸く折り目のついたひとつの封筒が落ちて来た。
 そんなもの、桜花は入れた覚えがない。

(——これだ)

 桜花はそれが静歌の遺したものだと即座にわかった。
 言ったことなどなかったが、桜花が矢筒を大事にしていたと静歌は気付いていたのだ。

『桜花へ』

 拾い上げた封筒の表には綺麗な字でそう書かれており、まさしくそれは静歌の文字だった。
 ゆっくりと封筒を開け、手紙を広げた。
 そこには、静歌が抱えていた本当の気持ちが記されていた。


『桜花へ
 これを書いている今、桜花がこれに気付く日が来なければいいのになって本気で思ってる。
 だってこれを桜花が読んでいるとしたら、そのときわたしは十中八九この世にいないから。
 だから、もしこれを読んでいるのなら、遺書だと思って読んでほしい。』


 そんな書き出しから、手紙は始まった。
 続く文章へと桜花は視線を向けた。


『わたしの心臓、二十歳まで持つかどうかなんだって。
 そんなこと、お母さんは忘れちゃってるのかもしれないけど。
 いつも自分のことでいっぱいいっぱいみたいだから。でも、本当のことなんだ。
 桜花は知らなかったよね。言ってなくてごめん。
 だって、言ったらほんとに死んじゃう気がしたから。
 だから、言えなかった。
 長くても桜花と一緒にいられるのは二十歳までってことになるんだね。
 想像できないけど、考えるとやっぱり怖い。
 死ぬって、どんな感じなのかな。』


 静歌の持病が寿命を削るものだと、桜花はこの時初めて知った。
 そんな弱気な様子を静歌はこれまで微塵も見せなかったからだ。
 書かれていた事実は、桜花に大きな衝撃を与えた。
 そこで一枚目の手紙は終わっている。
 桜花は続きが気になり、そのまま二枚目を読み進めていく。


『こんなこと言うのは間違ってるってわかってるし桜花は怒るかもしれないけど。
 わたしね、ずっと桜花になりたかった。
 お母さんからの期待に押しつぶされそうになる日々と、習い事で終わる毎日、自由のない日々がずっと苦しかった。
 結果を出し続けなくちゃいけない日々なんて、早く終わってほしいと思ってた。
 桜花はさ、どんな時でもめげなかったじゃん。
 わたしは全部投げ出しちゃったから、桜花のそういうところ、ずっとすごいって思ってた。
 あとね、健康な桜花が羨ましかった。

 お母さんの当たりが桜花に強いこともわかっているのにこんなこと言うなんて、ひどいってわかってる。
 それでもわたしは、桜花になりたかった。
 自由になりたかった。
 桜花はもしかしたら、わたしのことなんて嫌いかもしれない。
 だけど桜花が二人暮らしを許してくれて、これでお母さんから解放されるって、本当に安心したんだ。』


『二人暮らしをどれだけ楽しみにしているかなんて、桜花にはわからないでしょ?
 もうほんとに、飛び跳ねたいくらい嬉しいんだ。そんなことできないけど。
 だから、と言っちゃあなんだけど……。
 いままではお母さんのせいで姉妹らしくできなかったけど、大学生になったら、きっと二人でなんでもできるよね。
 これまでできなかった分、姉妹らしいことをたくさんしてみたいな。
 ふたりでショッピングしたり、おそろいのもの持ったり。
 好きな人の話をしたりとか。
 そういうくだらないこと、たくさんしてみたい。
 今更仲の良い姉妹にはなれないかもしれないけど……。
 だからこれは、わたしの勝手な願望。
 でもきっと、わたしたちなら大丈夫だって心のどこかで思ってるんだ。
 だってわたしたち、双子だよ? えへへ、理由おかしいかな。でも、本当にそう思うんだ。
 在学中に寿命を迎える可能性が高いわけだから、桜花には突然迷惑をかけることがあるかもしれない。
 でも、わたしはこの大学生活に賭けてるんだ。
 きっとそれは、桜花も同じでしょ?
 うーん。なんか、遺書っぽくなくなっちゃった。
 まあ、何が言いたいかって言うと、これからもよろしくってことだよね。
 ああ、だけどこれを読まれてるってことはわたし死んじゃってるのか。
 手紙書くのって難しい……。
 未来のわたしたちが幸せなことだけ、とりあえず願っとく。
 じゃあね。』


 三枚の便箋には静歌らしい言葉でそう綴られていた。

 ドラマチックでも感動的でも何でもないただの手紙なのに、桜花の心は何かに触れたようで揺れ動いていた。

 いつから流れていたのかはわからない。
 どうして泣いているのか自分でもわからなかったが、読み終えた頃には桜花の頬を涙が伝っていた。
 だが、時間が経つ毎に少しずつ理解していく。

(——そっか。わたしたち、おんなじだったんだ)

 静歌の手紙を読んだ桜花は、あの日菅野が言った言葉を本当の意味でやっと理解した。

 苦しかったのは自分だけじゃないんだ、と。
 笑顔の裏側で静歌も苦しんでいたのだ、と。

 こんな自分を羨ましいと思う存在がいる。
 そんな世界があることを、桜花は今日までずっと知らなかった。

 涙で滲んだ便箋を握り締め、桜花は泣きながら笑っていた。