流れていく景色を見つめながら、桜花と菅野は電車に揺られていた。
 四人掛けのボックス席で二人は向き合うように座っていたが、その視線が合うことはなかった。
 お互い黙ったまま、ぼうっと移り変わる景色を眺めている。

 新幹線といくつかの電車を乗り継ぎ、いまは桜花の実家の最寄り駅まで向かう各駅停車に揺られているところだ。
 田舎の路線だからか、平日の昼間となると乗っている人は少なく、それもお年寄りくらいなので、誰も桜花のことなど気に留めない。
 ネットで話題になっている張本人がここにいるなど、誰も気付きはしないのだ。

(——やっと息ができる気がする)

 あっちにいると他人からの目が気になって、ずっと心が休まらなかった。
 深くかぶっていた帽子と口元を覆っていたマスクを取り去り、桜花は深く息を吸い込んだ。
 今日の空は、この前の雨が嘘だったかのような雲ひとつない晴天だ。

(——まさか、こんなことになるなんて)

 桜花は車窓に映る菅野の顔をそっと見つめた。

(——ついてくるなんて思わなかった)

 あの雨に降られた日、菅野との会話から静歌がストーカー被害にあっていたことを初めて知った桜花は、後悔の連続だった。
 だが、いくら後悔の念に苛まれても過ちは消すことができない。

「静歌は毎日日記をつけているって言ってたから、何か手掛かりがあるかもしれない」

 あの日、そう言ったのは菅野だった。
 それを聞いた桜花は、自分よりも静歌のことを知っている人物がいるということに衝撃を受けた。
 自分は、静歌が日記をつけていることも、ストーカー被害にあっていることも知らなかったからだ。

 だが、考えても仕方のないことだった。
 それが、自分の選んできたことの結果だと思った。

 そうだとしても、日記を見ることで、静歌の抱えた心の内は知ることができるかもしれないと桜花は考えた。
 そして、急浮上したストーカーの存在と、あのコメントが何か繋がるような気がして、大学入学後初めて地元に帰ると決めたのだ。

 それは桜花にとっては一大決心だった。
 もう二度と戻ることのない場所だと思っていたからだ。
 実家に戻るという決意をした桜花に、菅野も一緒に行きたいと言ったのが、今日二人が一緒にいる理由だった。

 菅野の存在は桜花にとって、まだ信用に足らない部分がある。
 静歌と菅野が知り合ったのは、東京で行われた絵画コンクールの展覧会だった、ということは聞いたが、菅野について桜花が知っている情報はたったそれだけだ。
 だが、静歌が信頼していた人物ならきっと大丈夫だろう、という謎の信頼もある。
 それに、あの家にひとりで帰るのはやはり心細かった。
 何か理由をつけてでも一緒に行けるなら行きたいというのが、桜花の本音だった。

 桜花はちらりと横目で菅野の顔を盗み見た。
 相変わらず色白で、綺麗なブロンドの髪と睫毛が男をより繊細な印象にしていた。
 小柄な体躯もそう思わせる一因だろう。

(——静歌は、どうしてこの人を……)

 桜花がじっと見ていたことに気付いたのか、「ん?」と小さく首を傾げながら菅野が自分の方を振り返ったので、桜花は急いで視線を逸らしたのだった。
 きっと菅野は、生前の静歌を好いていたのだろう。
 そして、静歌も同じように。

 菅野は何も言わなかったが、二人のトークアプリのやり取りから桜花はそう感じ取っていた。




「結構遠かったな……」

 かなりの長旅に疲労がたまったのか、菅野は身体を伸ばしながら言った。

「ここからまだ三十分は歩きますよ」

 そんな様子を見て呆れたようにぴしゃりと桜花が釘をさすと、「まじか」と菅野は驚いた。

(——生粋の都会育ちだと、こんな田舎に来たらびっくりするよね。さっきも無人駅に驚いていたくらいだし)

 駅を出て少し歩くと、見渡す限りの田んぼと畑が目の前に広がった。
 風が、土と青臭い草葉の匂いを運んでくる。
 いつも丁寧に巻いていた髪を今日はストレートのまま下ろし、その髪がやけに暑苦しいと桜花は感じていた。

(——こんなところでわたしは育ったんだ)

 農道を歩く二人分の足音が、人気のないだだっ広い地に響く。
 こつこつと鳴るヒールの音が、ひどく場違いのようだった。

 しばらく歩くと、静歌とどじょうをすくって遊んだあぜ道や小川が見えてくる。
 久しぶりにこの地に立っても、桜花の心には懐かしいというより苦々しい気持ちの方が大きく湧き上がる。
 これからのことを考えれば、そう思ってしまうのは当然のことのようにも思える。
 桜花は深く息を吸い込み、また帽子とマスクをつけ直した。

「あの丸い葉っぱ何? そこら中にあるけど」

 桜花の内心など露知らず、この光景が物珍しいのか菅野が足を止め、辺りを見渡しながら言った。
 電車内では一言も口を利かなかった二人だが、外に出て自然に触れるとどうしてか気が緩む。

「……あれは、ハス。この辺り一帯が蓮根畑なんです」

 くぐもった桜花の声がマスクの中でこだました。
 夏本番とまではいかないが気温はそれなりに高く、すでにマスクの内側は蒸れてしまっていた。
 その鬱陶しさも、菅野は知らないのだろう。
 当初の目的は頭から抜けているのか、興味深げな様子で田畑を眺めている。

「へー、ハスって蓮根なんだ」

「そうです。土の中に埋まっていて、旬は秋以降ですけど。いまは新蓮根が出回ってますよ」

(——お母さんが作る蓮根サラダ、静歌が好きだったな……)

 桜花はあのシャキシャキした食感があまり得意ではなかったが、静歌が好きだからとよく食卓に並んでいたのを思い出す。
 丸く大きな葉を頭にかぶり二人で遊んだことも。

「ふーん、物知りだな」

「……別に、普通ですけど」

 菅野が興味津々といった様子で聞いてくるので、思わずぺらぺら話してしまったと思い、桜花は口をつぐんだ。

(——なれ合うつもりはない)

 心の中に刻んで、また桜花が先導し歩みを進める。

 たった一本の田舎道を進んでいくとやっと田畑から抜け、民家が立ち並ぶ居住区に入った。
 ブランコと滑り台、砂場だけがある簡素な公園が見えてきて、人もいないようだったので少しだけ寄ってみることにした。

 桜花は錆びれたブランコに座り、軽く揺らしてみた。
 キイキイと音を立てて金具が鳴り、その隣に菅野も同じように座った。

「……この公園、小さい頃よく遊びに来たんです」

 桜花は懐かしさのあまり、ぽつりとそうこぼした。

(——と言っても、わたしは仲間外れみたいな扱いだったけど)

 クラスメイトから遊びに誘われるのはいつも静歌で、一緒においでと笑う静歌について行くだけで、かくれんぼや鬼ごっこに交ざることはほとんどなかった。
 静歌の隣にいる桜花を見るとみんな一瞬顔を曇らせ、顔を見合わせていたのをよく覚えている。

 その仕草にどんな意味があるのかなんて、言われなくてもわかった。
 だから自ずと、桜花はひとりでできるブランコで遊ぶようにしていたし、静歌が友達同士で遊んでいるのをひとり寂しく眺めていた。

 遊びに交ざらない桜花に対して「静歌ちゃんがせっかく誘っているのに」と静歌の友人はぶつくさ文句を垂れていたが、結局桜花が一緒に遊ばないことがわかるとほっと表情を緩めるのだ。
 それがどれだけ残酷だったか、大人になったいまならよくわかる。
 気付かないでいられたら、どれだけ幸せだったのだろう。

 そのうち、静歌に遊びに誘われても一緒に行かなくなった。
 放課後もずっと家にいる自分を見た母親に、「静歌はお友達がたくさんいるのに、桜花ときたら」と文句を言われるのも桜花にとっては日常茶飯事だった。

(——何を思い出してみても、楽しかったことなんてひとつもない)

 桜花は爪先で砂利を蹴った。

 そのときどこからか、カメラのシャッターを切るような微かな音が聞こえた気がした。
 周りを見渡してみても、人の姿は見つけられない。

(——気のせい?)

 自分が過敏になっているだけかもしれないと桜花は思ったが、隣でブランコに座っていた菅野も同じように反応していたので、桜花の勘違いではなさそうだった。

「……ちょっと見てくる」

 そう言った菅野は立ち上がり、公園付近を見回りに行ってしまった。
 ぽつんとひとり残された桜花は、深く帽子をかぶり直し自分の爪先に視線を落としていた。

 何気なくバッグからスマホを取り出し、長らく更新することも見ることもしていなかった自分自身のSNSを開いた。
 フォローしているのは大学に入ってからの友人数名と、美容関係のアカウントのみだった。
 フォロワーはその数に反比例するようにたくさんいるが、コメント等のアクションはできない設定にしていたため、炎上後も被害を受けることはほとんどなかった。
 唯一DMだけは開放していたため見るのが怖かったが、怖いもの見たさという気持ちもあり、そこをタップする。

「……なんだ」

 開いてみると数件のDMはあったものの、内容はそこまでひどくはない。

(——静歌の方のアカウントで見慣れたから、耐性がついたのかも……)

 ほっと胸をひと撫でして、画面を閉じようとした時だった。

『新着メッセージ』と画面に通知され、先ほどまで見ていたDMのアイコンにマークがつく。
 タイミングが良すぎるとは思いつつも、これもなんともないはずだと警戒心の緩んでいた桜花は、平然とそのメッセージを開封した。

「誰もいなかった」

 ちょうど戻ってきた菅野が、俯いていた桜花に声をかけた。
 だが、桜花からの返事はない。
 その肩が震えていることに気付いた菅野が、桜花の手元を覗き込んだ。

「……なんだよ、これ」

 そこには、桜花と菅野が隣り合ってブランコに乗る姿が遠目に撮影された画像が添付されていた。

——ほんとのおまえを知っている——

 あのコメントと共に。

(——どういうこと? どうして……?)

 その写真は、誰かが自分たちを見ているということを決定づけ、今まさに近くにいると証言しているようなものだった。

(——近くに犯人がいる……?)

 まさかと思いつつも桜花と菅野は顔を見合わせ立ち上がり、足早に桜花の自宅へと向かった。




 自宅の玄関前に着いた桜花は、どくどくと早鐘の打つ心臓に手を当て、息を吸った。
 ここまで来るのに怪しい人どころか誰ともすれ違わず、逆に町の妙な静けさに嫌な空気を感じてしまう。

(——あのコメントと静歌の死とわたしは、やっぱり何か関係がある)

 そう思えば思うほど、手は小刻みに震えた。
 ドアノブに手をかけるとやはり鍵はかかっており、母親は家を空けているようだった。
 鉢合わせたくなかったので、わざと仕事に行っているであろうこの時間を選んだのはやはり正解だったと桜花は思う。

「じゃあ、俺はこの辺で待ってるから」

 菅野は先ほどのこともあったので、怪しい人物がいないか見張るために外に残ると申し出た。

 桜花はひとり、家へと入り込んだ。
 玄関に入ってすぐの目の前にある壁の奥側に、二階へと上る階段があった。
 軋む床を踏みしめそこを上りきるといくつかのドアがあり、右手に静歌の部屋、左手に桜花の部屋が廊下を挟んで向かい合うようにある。

 自分の部屋には目もくれず、桜花は静歌の部屋の正面に立った。
 かちゃっと小さく音を立てて開いたドアは、桜花を招き入れるかのようだった。

 桜花の目の前には、引っ越す前と何も変わらない、そのままの静歌の部屋が広がっていた。
 オレンジ色の水玉のカーテンに、黄色い小花柄のベッドカバー。
 フローリングの上に敷かれた丸い暖色系のラグに、ハンガーラックにかけられたままの、静歌が気に入って着ていたジェラピケのルームウェア。

 全部全部、ここだけ時が止まったかのように思えるほど、あの日のままだった。

 定期的に掃除をしているのだろう、部屋は埃っぽくもなく清潔な印象だった。

 小学生の頃から使用している勉強机には高校の教科書とノートがぴしっと並べられ、横にある本棚には、静歌が好きだった少女コミックや植物図鑑などがきっちり収められており、並べ方が作者別になっていたりするので静歌の几帳面な性格がよく表れていた。

 机の引き出しを開けてみても、日記らしきものは見つからない。
 部屋にあるクローゼットにも服が綺麗に収納されているだけだった。
 本棚に並ぶのは漫画や小説、図鑑ばかりなのでそこにも日記はなさそうだった。

 ふと、勉強机の棚に収まっている教科書の列の隣に、ノートが同じようにきちんと並んでいるのが目についた。
 それぞれ違う色のノートなので、科目別に使い分けていたことが伺える。

 そのうちの一冊を、桜花は抜き取って見た。
 赤は英語、青は数学、緑が化学……と、やはり色でノートを管理しているようだった。

(——日記なんて、ないじゃない)

 何冊かのノートを引き抜いては表紙を見て落胆する、その作業の連続だったが、現国のノートを引き抜いた際に見えた隣のノートの柄に違和感を覚えた桜花は、はっとする。

 他のノートは何の柄もないただの無地のノートだが、その一冊だけが明らかに違う。
 手に取ってみるとそれは静歌が好みそうな淡い色使いの花柄模様で、表紙には何も書いていないが、なんとなくこれだと桜花は思った。

 だが、桜花がそのノートを確かめようとしたとき、一階でドアの鍵を回す音が聞こえた。

(——まさか、お母さん……⁉)

 平日の昼時だからと安心して鍵もあえてかけ直さなかったし、桜花の靴もそのままだった。
 桜花が帰っていると気付いたのだろう。
 階段を力強い足取りで踏みしめる音が聞こえてきて、桜花は咄嗟にノートを後ろ手に隠し身構えた。

 その瞬間、音を立てて扉が開いた。

 その向こうには、やはり母親が立っていた。
 まるで鬼のような形相で桜花を見つめ、わなわなと震えている握った拳が、桜花への怒りを表わしていた。

「いきなり帰ってきたと思ったら、ここで何しているのよ⁉ それに、あの動画のことだって! あれは桜花でしょう⁉ どうして静歌を冒涜するようなことをしたのよ!」

 なんの前触れもなく上がった、ヒステリックな金切り声。
 これを聞くと自然と桜花の身体は委縮した。
 何も言えないのをいいことに、母親はずっと桜花を責め立てた。

 昔からあんたは、静歌はこうだったのになど、投げられる言葉のすべてが桜花自身を否定した。
 言いたいことは山ほどあったが、桜花はそれらを喉の奥に押し込めた。

(——わたしを心配する言葉のひとつでも聞ければ、全部話せる気がするのに)

 ぎゅっと拳を握り締めながら、桜花はこれまでと同じようにただこの時間が過ぎていくのを待っていた。
 黙ったままの桜花にこれ以上言うのは無駄だと判断したのか、母親は大きくため息を吐き、ぼそっと吐き捨てるように呟いた。

「どうして死んだのがあなたじゃなくて静歌だったのかしら……」

 その言葉を聞いた瞬間、桜花はポケットに入れていた実家の鍵を衝動的に母親に投げつけた。

「ちょっと、何するのよ⁉」

 母親は桜花に手をあげられたことに顔を真っ赤にして怒り狂ったが、桜花も内心は同じだった。

(——ずっとお母さんはそんなふうに思っていたんだ。産まなきゃよかった、よりもひどい言葉だよ)

「……安心してよ。もう二度と帰らないから。もう顔も見たくない」

(——やっぱりお母さんはわたしのことなんてどうでもよくて、静歌のことばかりなんだ。どう足掻いたって、何も変わらないんだ)

 むしろ静歌が死んだことで、母親の中の一番は永遠に覆らなくなったのだと再確認させられた。

(——だから、帰ってきたくなかったのに……)

 最後に母親の顔をきつく睨んだ。
 桜花の表情に怯んだ様子の母親を押しのけ、桜花は足早に階段を駆け下りた。
 自分を呼び止める声もしなければ、追いかけても来ない。

(——お母さんにとって、わたしはその程度の存在なんだ)

 諦めようと思っても、諦められなかった。
 いつかは自分を見てくれると信じていた。

(——だけどもう、今度こそ本当に終わりにしよう)

 玄関の扉を押し開けて、勢いよく閉めた。
 その音は桜花と母親の隔絶を表わすような、重い音だった。

 その音で家から出てきたと察した菅野が桜花へ近寄ると、その顔は涙でぐちゃぐちゃなことに気が付いた。
 ぼろぼろ涙を溢す桜花の手を引き、人目を避けながら菅野はどんどん歩みを進めていった。
 民家の少ない路地裏の小道に、桜花と菅野は入っていく。

「……何があった?」

 電信柱の陰で静かに涙を流す桜花に優しく声をかける菅野だったが、その優しさに触れると桜花の心はささくれ立った。

「……あなたにわたしの気持ちはわからない」

 桜花はわざと冷たく突き放すように菅野へと言い放った。
 周りが持っている普通の幸せを、どうして自分だけ手に入れることができないんだろうと、頭の中はそればかりだった。

「……ずっと、静歌になりたかった」

 なんでもできて愛嬌もあり、誰からも好かれる存在に。
 菅野は桜花がこぼした雨粒のような独り言を、否定もせずに聞いている。
 そして小さく息を吐いた後、小さな子をなだめるように口を開いた。

「……静歌のまね事してみて、なんか変わった? 静歌になれた?」

 菅野の柔らかな程良く低い声が桜花を慰めているようで、だけど、責められているようにも感じてしまう。

(——そうだ。最初から、この人はそうだった。否定もしないし、肯定もしない。……この人は、本当にいい人なんだと思う)

 菅野の言葉の意味がわかるから、桜花はまた涙を流した。
 そんな桜花を見て、菅野は男の人にしては薄く綺麗な手で桜花の涙をぬぐった。

「いくら静歌のまね事したって、静歌になれたわけじゃないだろ? 本当のきみじゃないだろ? 静歌のまねして作った自分で周りから好かれて楽しかった? 幸せだった?」

 やはり菅野も、亡くなった静歌を貶めるような真似をした自分を、母親と同じように責めているのだろう。
 母との絶縁を覚悟した直後だというのに慰められるでもないその言葉は、桜花を深く傷つけた。

 はっきりと言わないのは菅野の優しさだろうと思ったが、桜花にはそれが一番痛かった。
 いままで誰にも話したことのない心の内を、素性もよく知らない菅野に話すのは気が引けた。
 だけど、桜花はずっと、誰かに聞いてほしかった。

「……本当は、たったひとりのわたしとして、誰かに好かれてみたかった。お母さんに、褒めてほしかった。わたしも自慢の娘だって言われてみたかった」

 たったひとこと、桜花はその言葉だけをずっと聞きたかった。

「……だけど、無理みたい」

 涙でぐしゃぐしゃな顔で、桜花は笑った。

「……あなたには、わからないでしょ」

 親に愛してもらえない気持ちも、何をしても一番になれないことも、静歌の残りカスだって言われる屈辱も。
 桜花はじっと菅野を見つめた。
 その視線を受けて、菅野が口を開く。

「……きみには俺がどういう人間に見える?」

 その質問の意味は桜花にはわからなかった。
 だけど、見た目だけで言うならばと、思ったままを口に出した。

「……生粋の陽キャ」

 仲良くなるつもりも、本音を話すつもりもなかった。
 だけど、口は自然に動いていた。

 菅野の髪は派手だし、瞳だって青くて綺麗だ。
 そして何より、こんな自分だと知っても普通に接してくれるいい人だ、と桜花は感じていた。
 きっと温かい家庭で育ったに違いない。
 友達もたくさんいるんだろう。

(——だってこの人は、静歌とおんなじ匂いがする)

 桜花は勝手にそう思っていた。
 だが、菅野が語った菅野自身の生い立ちは、桜花が想像していたものとは違っていた。

「……俺、孤児なんだ。この髪も目も、生まれつき。たぶん父親が外国人。捨てられたんだ、本当の両親に。そんなふうに見えないだろ? でも、本当なんだ」

 何でもないことかのように、菅野は言った。
 あまりにも普通に話すので、桜花は咄嗟に「……うそ」と思わず呟いた。
 その言葉に菅野は小さく笑って、桜花を見た。

「嘘であってほしいなんて、俺も何度も思ったよ。……きみはさ、自分が世界で一番不幸って顔してるけど、そんなことない。きみが見ている世界は誰かの一部分でしかないし、きみと同じように苦しんでいる人はきっとたくさんいるよ。俺だって、最初はどうして俺だけが、って思ってた。だけど、俺を引き取ってくれた両親はいい人だし、周りを恨んで生きるのなんてばかばかしいって思えるようになったよ」

 そう語る菅野の顔はそれが本音であることの証明だというように、清々しかった。

「……そんなの、あなたの運が良かっただけじゃない」

「運、か。そうかもな。だけど、苦しいのは自分だけじゃないって、そのうちわかるといいね」

 菅野は優しく笑って、桜花の顔をじっと見つめた。
 そして、「静歌だって同じかもしれないよ?」と桜花が左手に持っていた一冊のノートを広げた。


『今日は現国の予習忘れた。桜花はいつも抜かりなくこなしててずるい。頭のできが違いすぎて羨ましい』

『油絵教室、通うの疲れたなー』

『コンビニで売り切れてた新作のグミもらっちゃった。今日はラッキー』

 どれもとりとめのない、ささやかな一言日記。
 だけど、一ページに一度は桜花の名前が登場し、『桜花が羨ましい』とぼやいていたようだった。

「静歌、よく言ってたよ。きみみたいになりたい、って」

 それを聞いても桜花の胸のつっかえは取れなかったが、ほんの少しだけわだかまりが溶けだしたように感じた。
 だが、それを素直に受け取ることができるほどではなかった。

「……そんなこと言われても、わたしには関係ない」

 桜花にとって、自分から見える世界だけが、自分の生きる場所だった。
 不貞腐れる桜花に、菅野はまた小さく笑った。

「そうだよな。きっと、みんな同じだよ」

 どことなく静歌に似ている菅野は、桜花にとって少しだけ特別な存在に変わっていた。
 爽やかな風が桜花の綺麗な髪をなびかせた。
 頬を流れていた涙は、いつの間にか渇いていた。