〜ヴィランが愛した世界〜
sideマリス
ボクがどうやってこの世に生まれたのかなんて分からない。
ただ、気が付いた時にはそこに居たんだ。
何もない、闇だけが広がる空間。
そこがどこかは分からなかったけれど、何故か苦しく、悲しい気持ちに包まれた。
だから、ボクはその場所から離れたかった。
どれくらいの時間が経ったかも分からないくらい、必死に走った。
けれど、どんなに出口を探しても、ボクはその場所から離れることができなかった。
ボクはいつしか、苦しいという感情も忘れ、この運命を受け入れるようになっていた。
そんな中キミに……陽菜ちゃんに出会った。
キミとの出会いはよく覚えているよ。
出会った瞬間から胸が高鳴ったから。
初めて会ったはずなのに、そんな気がしない。
ボクはキミの傍に居たい。
その時やっと気が付いた。
あぁ、ボクはキミの一部なんだと。
陽菜ちゃんからはボクと同じようなものを感じた。
きっと、この暗闇はこの子の心の闇を表しているんじゃないかって、本能的に察した。
でもキミは、ボクを受け入れてくれなかったよね。
それどころか、酷く拒絶していた。
それがボクにとってどれほど辛かったか分かる?
ずっと待っていた人に突き放された時の悲しみ、絶望……。
陽菜ちゃんなら分かってくれると思ったのにな。
その日からだ。
何故かボクはその場所から出られるようになっていた。
ボクは真っ先に陽菜ちゃんを探した。
不思議と陽菜ちゃんの情報がボクの中に一気に流れ込んでくる。
やっぱり、ボクは陽菜ちゃんの一部なのだと改めて感じた。
それから分かったことは、陽菜ちゃんはお父さん、お母さん、二人の兄妹と一緒に暮らしているということだ。
家族仲はそれほど良くないみたい。
でも、お兄さんには心を開いているような気がした。
あくまでボクから見たイメージだったけれど。
そんなことをしていると、やっぱり陽菜ちゃんともう一度話したくなる。
でもこの姿だと、陽菜ちゃんは受け入れてくれないだろう。
だからボクは"八神幻"として、彼女に近付くことに決めた。
不思議なことに、ボクには姿を変えられる能力があるみたいだ。
こんな能力があればもっと早く使いたかったよ。
でも、今までは目的もなかったから気が付いたとしても宝の持ち腐れだったかな。
とにかく、ボクは機会を伺い、ちょうど陽菜ちゃんが公園に来たタイミングで声をかけた。
警戒されないように、できるだけ平然を装うのに必死だった。
せっかくボクの願いが叶ったんだから。
しかし、ボクの心が満たされることはなかった。
ボクの傷を見せると陽菜ちゃんは心配してくれる。
ボクが声をかけると笑顔で応えてくれる。
望んでいたことだったのに、ずっと心の中のモヤモヤは消えなかった。
どんなに笑顔で接してくれていても、それは八神幻の姿に見せている笑顔なだけで、ボク自身に笑いかけてくれた訳ではなかったから。
ボクが八神幻として陽菜ちゃんと接した時間は長くなかった。
心から好かれようとか、そんな高望みはしていなかった。
それでも、傍に居たかったから、同じ大学に通うことを決めた。
……つもりだった。
でもそれはボクの思い違いだったみたい。
家族と仲が悪いと言いながら、いつも家族のことを気にかけている陽菜ちゃん。
特にあの、碧って奴。
陽菜ちゃんにだけ態度が違うような気がしたが、それが彼なりの愛情表現だってことはすぐに分かった。
生憎陽菜ちゃんには伝わってないようだったけれど、陽菜ちゃん自身も、碧のことが本当は大好きなんだろうなと伝わってきた。
ボクの中に、激しい嫉妬心が芽生えた。
同時に強い怒りも湧いてくる。
どうして傍に居るのに気付かないのか。
どうしてお互いに大切に思っているのに、すれ違っているのか。
こんなことを言いながら、本当は碧のことが羨ましかったんだ。
ボクだって陽菜ちゃんに愛されたいのに、ボクと碧は何が違うのかって、ずっと思っていた。
強い気持ちが伝わったのか、いつの間にかボクは碧と身体が入れ替わってしまった。
どうやって入れ替わったのかは覚えていない。
それでも、これで陽菜ちゃんの傍に居られる。
そう思ったが、喜んでいる暇はなかった。
目の前に広がる炎の海。
そして、苦しそうにしている陽菜ちゃんが横に居る。
「……陽菜ちゃん!」
マズイ、今は碧の姿だった。
でも、今はそんなことはどうでもよかった。
「どうして急に火事なんか……」
その時、また陽菜ちゃんの記憶が一気に流れてきた。
「……ウッ」
その記憶は、信じられない………いや、信じたくないものだった。
陽菜ちゃんは図書館で勉強をしていた。
それは間違いないのだが、何故か不自然な時間があった。
彼女は一回、家へと帰っていたのだった。
そして、皆が自室にいる隙を狙って、火を放った。
「嘘……でしょ? 陽菜ちゃんが……」
ボクが愛した人が殺人犯になってしまうなんて。
警察に伝える?
彼女の元を離れる?
そんな考えは微塵もなかった。
それならいっそ、陽菜ちゃんの傍に居て、ボクが辛い気持ちを受け取ればいいんだ。
これなら陽菜ちゃんは辛くないし、ボクは陽菜ちゃんの傍に居られるし、一石二鳥じゃない?
しかし、ここでもボクは勘違いをしていた。
現場に残された"Malice"という言葉。
これはボクが残した言葉だ。
これは陽菜ちゃんだけの問題じゃない。
陽菜ちゃんの苦しみを受け取る以前に、ボクは共犯者だったのだ。
あぁ、そうか。
ボクは陽菜ちゃんから生まれた存在。
陽菜ちゃんの怒り、憎しみ、妬み。
そんな負の感情がボクを生み出したのだと、気が付いた瞬間だった。
大学生になれば、陽菜ちゃんにも平穏な生活が訪れると思っていた。
しかし、半年ほど経っても、警察は捜査の手を緩めなかった。
それはそうだろう。
有名な教授とその家族が殺されたのだ。
警察もなんとしてでも、犯人を捕まえたいところだろう。
でも、ボクは犯人が誰かを知っている。
陽菜ちゃんが捕まるのは嫌だったから、何を聞かれてもバレないように言葉を選ぶのに必死だった。
必死に、"黒崎碧"を演じた。
急に性格が変わったボクを不審に思っていたものの、陽菜ちゃんは次第にボクを頼るようになってきた。
それが堪らなく嬉しかった。
だけどやっぱり、家族の絆とは恐ろしいものだった。
ある日、午後の講義がなかったため、ボクは早めに家へと帰った。
いつものように陽菜ちゃんのお出迎えをしたが、何故か隣には幻が居た。
いや……ボクが幻だから、目の前にいるこいつが本物の碧だ。
ボクは再び碧を恨んだ。
陽菜ちゃんは、ボクの姿をした碧を信用しているように見えた。
どうして……。
見た目は一緒じゃないか。
それなのに、どうしてそんなに仲が良さそうなの?
やっぱり家族だから?
しかし、そんなことはどうでもよかった。
いくら碧が家族とは言え、今はボクが傍に居る。
そう思うと、幾らか心が楽になった。
それなのに、陽菜ちゃんはまた罪を犯してしまった。
まさか、御影教授を殺すなんて思ってもいなかった。
再び陽菜ちゃんの記憶が流れてくる。
家族を罵られた上に、陽菜ちゃん自身も貶されたのだ。
ボクでさえ、激しい怒りを覚えた。
陽菜ちゃんが感じた怒りは相当なものだったのだろう。
当時はこの感情が理解できなかったが、今なら分かる。
やっぱり、陽菜ちゃんにとって家族は大切な存在だったのだ。
悲しいことに、ボクたちは訳も分からない怒りに身を任せて罪を犯してしまったのだ。
事件が起きた翌日。
ボクは陽菜ちゃんの幼馴染だという柚葉ちゃんに引き留められた。
何故かボクは身構えてしまった。
何を言われるのか想像もできなくて、怖かったから。
案の定、彼女はボクが想像していなかった言葉を放った。
『私、中学生の頃先輩のことが好きだったんです』
突然の告白につい固まってしまう。
『えっと……俺はどんな反応をすれば良いの?』
いや、待てよ。
中学生の頃ってことは、本当の碧の姿を知っている?
しかし、急にその話を持ち出す理由が分からなかった。
『大学で再会した時は嬉しかったです。でも、会わない間に先輩は変わってしまいました』
『時間が経てば変わるのも当然じゃないか』
当たり前すぎて、何を言いたいのかが良く分からない。
『先輩は、私のことを下の名前で呼んだことは一度もありませんでしたよ』
……は?
『いや……。そんなの覚えてる訳ないじゃん』
『それでも事実です。今の先輩はまるで必死に演技をしているみたいです』
その言葉にボクはドキッとした。
ただの学生に何が分かるというのだ。
しかし、彼女は既に確信しているようだった。
『あなた……、一体誰なの?』
答えられる訳がなかった。
もしボクの正体がバレたら、陽菜ちゃんの傍に居られなくなる。
こんな時でさえ、ボクはどこまでも身勝手だった。
『何を考えてるのか分からないけど、陽菜ちゃんのこと傷つけたら許さないから』
『……問い詰めないのか?』
『聞いたところで教えてくれないでしょ』
『それは……』
『良いのよ。陽菜ちゃんを守ってくれさえすれば。だから、私も罪滅ぼしをしないとね』
『どうして急にそんなことを……?』
『……内緒。これでお互い様だね』
そう言う彼女は、悲しそうながらも、どこか吹っ切れたような顔をしていた。
『……お前、何考えてんだ』
ボクの口から出たのは、そんな冷たい声だった。
教授を殺した犯人が自首したというニュースを聞いた時は驚いた。
しかも、その人は柚葉ちゃんだという。
あの時、彼女は既に覚悟を決めていたのだろう。
ボクは、そんな彼女のことが理解できなかった。
陽菜ちゃんを守りたいという気持ちは同じだが、どうして自分を犠牲にできるのだろうか。
しかし、その理由はすぐに分かることとなる。
柚葉ちゃんは恐らく、犯人の正体を知っていた。
彼女自身も言っていた。
これはただの罪滅ぼしだと。
大切な友人であるにもかかわらず、陽菜ちゃんをいじめてしまった。
そのことをずっと悔いていたそうだ。
それが再び火種となったのだろう。
まさか、親友まで殺してしまうとは思いもしなかった。
人間の感情とは恐ろしいものだ。
大切な人の命さえ奪いかねないのだから。
しかし、その代償は大きいものだった。
記憶がない陽菜ちゃんにとって、柚葉ちゃんの死は突然訪れたものだったから。
次第に陽菜ちゃんは、ボクの前では全く笑わなくなってしまった。
陽菜ちゃんが手紙を見せてくれた時、ボクが素直になっていれば、何かが変わったのだろうか。
あの日、陽菜ちゃんは突然、「自分は家族と仲が良かったのか」と聞いてきた。
陽菜ちゃんの手には手紙が握られていた。
そんな手紙知らない。
陽菜ちゃんは……ボクたちは愛されているはずがないんだ。
最初はボクもそう思っていた。
しかし、陽菜ちゃんの思いに触れ、記憶を辿ってみても、愛されていなかったとは言いきれなかった。
それでも、ボクは信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
そんなこと、今更気が付いたところで意味はないのだから。
だから、つい陽菜ちゃんに酷いことを言ってしまった。
『まただ……。また自分から大切なものを手放してしまった。やっぱりボクは……』
どこまでも、悪意に満ちた存在なんだ。
その事実が、何よりも苦しかった。
陽菜ちゃんを救いたい。
陽菜ちゃんが笑顔になってほしい。
その願いは確かなはずなのに、自分自身はなんて身勝手なんだろう。
こういう時、自分が"普通じゃない存在"であることを酷く憎んだ。
もし、普通に人間として陽菜ちゃんと出会えていれば、もっと寄り添えたのではないのか。
どんなに願ったとしても、所詮それは夢物語でしかなかった。
それからの出来事は、流れに身を任せるしかなかった。
完全に自暴自棄になったのだ。
もう、全てがどうでも良かった。
ボクはやっぱり一人がお似合いだ。
だから陽菜ちゃんから離れることにした。
少しばかり夢を見ていただけで、現実に戻るだけだ。
そう自分に言い聞かせてきた。
それなのに、陽菜ちゃんはボクに会いに来てくれた。
そこにかつてのような優しさは感じられなかったが、それでも再びボクを見つけてくれたのは嬉しかった。
陽菜ちゃんが、ボクを必要としてくれている。
だったら、その期待にボクが応えるしかない。
しかし、最後の最後までボクは自分勝手で、間違った道を選んでしまった。
陽菜ちゃんは、一番憎んでいる人……。
陽菜ちゃん自身を殺した。
ボクは陽菜ちゃんを殺すつもりは全くなかった。
むしろ、生き続けてほしかった。
だから、陽菜ちゃんに害を与える存在を排除すれば幸せになると思ったのに、彼女はそれは違うと言った。
そして、どうやらボクの存在に気が付いたようだった。
バットエンドなはずなのに、裏切られた憎しみを感じたはずなのに、それ以上に陽菜ちゃんに認められたことが嬉しかった。
その時、ようやくボクも認められた気がした。
あぁ、ボクだって本当は愛されたかったのだ。
ボクの存在を否定してほしくない、どんな姿をしていてもボクを受け入れてほしい。
それなのに、素直に愛を受け取ることができなかった。
きっとこれは、ボクが自分の醜さを受け入れたくなかったからだ。
誰よりもボクを愛する必要があったのはボク自身だったと言うのに。
***
いつのことだったか。
もう随分前の話だ。
ボクたちが普通に出会っていれば友達になれたのかと聞いたことがある。
陽菜ちゃんの答えはNOだった。
悲しいけれど、それが事実なのだろう。
陽菜ちゃんの一部である前に、マリスである前に、ボクはボクだ。
この選択はボクが選んだ道。
甘えているなんて偉そうなことを言ったけれど、本当は違う。
ボクが陽菜ちゃんの優しさに甘えていたのだ。
ボク自身が甘かったのだ。
数え切れないほどの年月が経った。
地上の世界も随分と変わっているのだろう。
そして、いよいよ陽菜ちゃんと別れる日がやってきた。
「……いよいよだね」
「うん。正直実感湧かないし、あの日のことを未だに思い出すよ」
ボクも陽菜ちゃんと同じ気持ちだ。
辛い記憶ほど、鮮明に残ってしまう。
どんなに月日が経っても、過去の出来事が消える訳ではない。
「ねぇ、日向」
陽菜ちゃんが優しい声でボクの名前を呼ぶ。
「正直、未だにどうしてあんなことをしたのかって思うよ。自分の中に憎しみや妬みの様な汚い感情があるって信じたくなかった。身勝手な理由で人を傷付けることが理解できなかったし、そんな人が大っ嫌いだった。でもまさか、自分がそんな人間になっちゃうなんてね」
僕も同じだ。
ボクだって、これほどまでに愛されたいという気持ちがあったとは思ってもいなかった。
その感情が強すぎるが故に、大切な人を傷つけてしまうということも。
「でも、これもまた私の身勝手な考えなのかもね。誰かから見たら私は、ただの偽善者に過ぎないのかもしれない。答えをひとつに決めることなんてできないんだよ」
それからしばらくは沈黙が続いた。
陽菜ちゃんの言っていることも一理ある。
罪を犯すことは悪だと言えばそうだし、一概に悪くはないと言えばそうだ。
人生に正解なんてない。
だからこそ、脆く、儚く、そして美しい。
一見、人間の悪意や欲望に塗れた世界のように見えるかもしれない。
しかし、それを乗り越えようとする生き様、自分なりの正義を見つける旅路は、何よりも強く、輝いている。
だからこそボクは、陽菜ちゃんが幸せになってほしいと強く願っている。
それこそが、ボクが望む人生の形だ。
「ここを出たら今までのことを忘れちゃうんだよね。家族のことも……日向のことも」
「……うん。でも、陽菜ちゃんはもう後ろを振り向かないで。前を向いて歩き続けて。それが八神日向としての最後の願い」
陽菜ちゃんが生まれ変わるのなら、ボクはどうなるのかな。
もしかしたらボクもやり直せるかもしれない。
小さな光でも、希望を託してみても良いよね?
「もしさ、もしもだよ? 来世で再会することができたら、今度こそボクから声をかけるね」
「約束だよ? 今度こそ忘れないでよね」
こうしてボクたちは指切りげんまんをした。
「じゃあ……そろそろ行くね。サヨナラ、日向」
「………うん。サヨナラ、陽菜ちゃん」
これが、八神日向としての最後の記憶だった。
***
22XX年8月
「朝陽ー! 学校遅れるわよ!」
「分かってるって!」
僕は八雲朝陽。
父親の仕事の都合で、地元を離れ、都会へと引っ越してきた。
今日から新しい高校に通うことになる。
都会なんて慣れていないし、大変なことも多そうというのが当初のイメージだった。
しかし、そのイメージは簡単に崩れることとなる。
知らない場所なのに、地元のような親しみを感じたのだ。
まるで、前にも来たことがあるかのような親近感を覚える。
両親にも確認してみたが、僕がこの町に来るのは初めてとのことだ。
不思議な感覚だったが、僕は直ぐにこの町が気に入った。
準備も整い、早々に学校へと向かう。
都会の学校ともあって、生徒数がかなり多い。
優しい人ばかりとは聞いているが、それでも不安な気持ちが強かった。
「HRを始めるぞ。皆、席に着け」
担任の先生の言葉で、騒がしかった教室が一気に静かになる。
「今日は皆に紹介したい人が居る。今日からこのクラスの一員になる。入ってきてくれ」
その言葉で、僕は教室へと足を踏み入れる。
皆の視線が一斉に僕の元に集まった。
「親の仕事の都合で、こちらに引っ越してきたそうだ。自己紹介をしてくれ」
「八雲朝陽です。まだ分からないことだらけなので、ぜひこの学校のことを教えてください。これからよろしくお願いします」
僕がお辞儀をすると、拍手の音が聞こえてきた。
都会と言えど転校生は珍しい存在らしく、興味津々な目でこちらをみている人が数人居た。
「八雲の席は一番奥の窓際の所だ」
「分かりました」
そう言って僕は、自分の席へと向かった。
その時、急に胸のざわめきを感じた。
何……この感情は。
まるで、何かを思い出せと言わんばかりの感覚だった。
もしかして……何か忘れていることがあるの?
一瞬違和感を感じたものの、声をかけてくる人も多かったため、その後は気にすることはなかった。
不思議だったのは、隣の席の子は僕に一切声をかけてこなかったことだ。
少し気が強そうな女の子。
それでも明るい性格から、クラスの人気者であるということはすぐに分かった。
自意識過剰かもしれないが、そんな子なら真っ先に僕に声をかけてくると思ったのに。
その日の放課後は、先生から今後の予定を説明された。
一度説明は受けているが、再確認とのことだった。
そして、今日一日過ごしてどうだったかも聞かれた。
僕は、思ったより馴染めたみたいで安心したということを素直に伝えた。
先生との面談を終えた僕は、荷物を取りに教室へと向かう。
廊下には、教室の明かりが漏れていた。
どうやら、まだ誰か残っているようだ。
教室に居たのは、あの不思議な女の子だった。
勉強をしているのかな?
少し気まずかった僕は、できるだけ音を立てずに教室に入った。
とは言っても、隣の席なので近付くのは致し方ないことだった。
僕は自分の荷物を手に取り、チラッと隣の席を見た。
「……医者になりたいの?」
「えっ……?」
言ってから僕はハッとした。
何を言っているのだ。
ただ勉強をしているだけなのに、どうして医者という言葉が出てくるというのだ。
ほら見ろ。
案の定、彼女も困惑してるじゃないか。
「凄いね。私が医者を目指してるってなんで分かったの?」
「ただ……何となく」
「何となく?」
自分でもおかしいことを言っているのは理解している。
でも、急にその言葉が浮かんできたのだ。
「実は私、桜庭大学を目指しているの。もう何百年も前の人だけど、黒崎教授の論文を見て凄く感銘を受けたの。一言では言い表せないけど……私も誰かの心を救える人になりたいって思った」
……黒崎教授。
話の流れ的に、その人はきっと黒崎碧教授だな。
彼の話は聞いたことがある。
元々は外科医を目指していたが、妹さんのことがあって、悩んでいる人の力になりたいと考えたという話を、何かで見た気がする。
当時、世間では不可解な事件が話題になっていたそうだ。
未だに話題になることがよくある。
彼自身も被害者であり、唯一残された家族さえも自殺してしまったのなら、その悲しみは計り知れないものだっただろう。
その女性が何を思い、なぜ自殺をしたのかは分からない。
けれど、そのニュースを観る度に、何故か心が押さえつけられる感覚がした。
確かその女性の名前は……
「……陽菜ちゃん」
「……陽菜って誰? 私は陽だけど」
しまった。
つい声に出てしまったみたいだ。
「あ……ごめん」
「謝らなくて良いよ。自己紹介をしていない私も悪いんだし」
そう言う彼女は、僕の方を見てこう言った。
「初めまして。黒木陽です」
「今更初めましては可笑しいか」と、笑う彼女。
その笑顔がどこか懐かしく感じた。
「陽ちゃん。お願いがあるんだけど……」
「うん。何?」
「僕まだ分からないことだらけだから、色々教えてくれる?」
「もちろん! なんでも聞いて!」
そう言う彼女の姿は輝いて見えた。
これから、新しい世界が僕を待っているのだろう。
どんな世界が待っているのか楽しみだな。
今度こそ、僕たちは幸せになれるよね。
そんな世界に、僕はそっと呟いた。
「ただいま。ボクが愛している世界」
【END】
sideマリス
ボクがどうやってこの世に生まれたのかなんて分からない。
ただ、気が付いた時にはそこに居たんだ。
何もない、闇だけが広がる空間。
そこがどこかは分からなかったけれど、何故か苦しく、悲しい気持ちに包まれた。
だから、ボクはその場所から離れたかった。
どれくらいの時間が経ったかも分からないくらい、必死に走った。
けれど、どんなに出口を探しても、ボクはその場所から離れることができなかった。
ボクはいつしか、苦しいという感情も忘れ、この運命を受け入れるようになっていた。
そんな中キミに……陽菜ちゃんに出会った。
キミとの出会いはよく覚えているよ。
出会った瞬間から胸が高鳴ったから。
初めて会ったはずなのに、そんな気がしない。
ボクはキミの傍に居たい。
その時やっと気が付いた。
あぁ、ボクはキミの一部なんだと。
陽菜ちゃんからはボクと同じようなものを感じた。
きっと、この暗闇はこの子の心の闇を表しているんじゃないかって、本能的に察した。
でもキミは、ボクを受け入れてくれなかったよね。
それどころか、酷く拒絶していた。
それがボクにとってどれほど辛かったか分かる?
ずっと待っていた人に突き放された時の悲しみ、絶望……。
陽菜ちゃんなら分かってくれると思ったのにな。
その日からだ。
何故かボクはその場所から出られるようになっていた。
ボクは真っ先に陽菜ちゃんを探した。
不思議と陽菜ちゃんの情報がボクの中に一気に流れ込んでくる。
やっぱり、ボクは陽菜ちゃんの一部なのだと改めて感じた。
それから分かったことは、陽菜ちゃんはお父さん、お母さん、二人の兄妹と一緒に暮らしているということだ。
家族仲はそれほど良くないみたい。
でも、お兄さんには心を開いているような気がした。
あくまでボクから見たイメージだったけれど。
そんなことをしていると、やっぱり陽菜ちゃんともう一度話したくなる。
でもこの姿だと、陽菜ちゃんは受け入れてくれないだろう。
だからボクは"八神幻"として、彼女に近付くことに決めた。
不思議なことに、ボクには姿を変えられる能力があるみたいだ。
こんな能力があればもっと早く使いたかったよ。
でも、今までは目的もなかったから気が付いたとしても宝の持ち腐れだったかな。
とにかく、ボクは機会を伺い、ちょうど陽菜ちゃんが公園に来たタイミングで声をかけた。
警戒されないように、できるだけ平然を装うのに必死だった。
せっかくボクの願いが叶ったんだから。
しかし、ボクの心が満たされることはなかった。
ボクの傷を見せると陽菜ちゃんは心配してくれる。
ボクが声をかけると笑顔で応えてくれる。
望んでいたことだったのに、ずっと心の中のモヤモヤは消えなかった。
どんなに笑顔で接してくれていても、それは八神幻の姿に見せている笑顔なだけで、ボク自身に笑いかけてくれた訳ではなかったから。
ボクが八神幻として陽菜ちゃんと接した時間は長くなかった。
心から好かれようとか、そんな高望みはしていなかった。
それでも、傍に居たかったから、同じ大学に通うことを決めた。
……つもりだった。
でもそれはボクの思い違いだったみたい。
家族と仲が悪いと言いながら、いつも家族のことを気にかけている陽菜ちゃん。
特にあの、碧って奴。
陽菜ちゃんにだけ態度が違うような気がしたが、それが彼なりの愛情表現だってことはすぐに分かった。
生憎陽菜ちゃんには伝わってないようだったけれど、陽菜ちゃん自身も、碧のことが本当は大好きなんだろうなと伝わってきた。
ボクの中に、激しい嫉妬心が芽生えた。
同時に強い怒りも湧いてくる。
どうして傍に居るのに気付かないのか。
どうしてお互いに大切に思っているのに、すれ違っているのか。
こんなことを言いながら、本当は碧のことが羨ましかったんだ。
ボクだって陽菜ちゃんに愛されたいのに、ボクと碧は何が違うのかって、ずっと思っていた。
強い気持ちが伝わったのか、いつの間にかボクは碧と身体が入れ替わってしまった。
どうやって入れ替わったのかは覚えていない。
それでも、これで陽菜ちゃんの傍に居られる。
そう思ったが、喜んでいる暇はなかった。
目の前に広がる炎の海。
そして、苦しそうにしている陽菜ちゃんが横に居る。
「……陽菜ちゃん!」
マズイ、今は碧の姿だった。
でも、今はそんなことはどうでもよかった。
「どうして急に火事なんか……」
その時、また陽菜ちゃんの記憶が一気に流れてきた。
「……ウッ」
その記憶は、信じられない………いや、信じたくないものだった。
陽菜ちゃんは図書館で勉強をしていた。
それは間違いないのだが、何故か不自然な時間があった。
彼女は一回、家へと帰っていたのだった。
そして、皆が自室にいる隙を狙って、火を放った。
「嘘……でしょ? 陽菜ちゃんが……」
ボクが愛した人が殺人犯になってしまうなんて。
警察に伝える?
彼女の元を離れる?
そんな考えは微塵もなかった。
それならいっそ、陽菜ちゃんの傍に居て、ボクが辛い気持ちを受け取ればいいんだ。
これなら陽菜ちゃんは辛くないし、ボクは陽菜ちゃんの傍に居られるし、一石二鳥じゃない?
しかし、ここでもボクは勘違いをしていた。
現場に残された"Malice"という言葉。
これはボクが残した言葉だ。
これは陽菜ちゃんだけの問題じゃない。
陽菜ちゃんの苦しみを受け取る以前に、ボクは共犯者だったのだ。
あぁ、そうか。
ボクは陽菜ちゃんから生まれた存在。
陽菜ちゃんの怒り、憎しみ、妬み。
そんな負の感情がボクを生み出したのだと、気が付いた瞬間だった。
大学生になれば、陽菜ちゃんにも平穏な生活が訪れると思っていた。
しかし、半年ほど経っても、警察は捜査の手を緩めなかった。
それはそうだろう。
有名な教授とその家族が殺されたのだ。
警察もなんとしてでも、犯人を捕まえたいところだろう。
でも、ボクは犯人が誰かを知っている。
陽菜ちゃんが捕まるのは嫌だったから、何を聞かれてもバレないように言葉を選ぶのに必死だった。
必死に、"黒崎碧"を演じた。
急に性格が変わったボクを不審に思っていたものの、陽菜ちゃんは次第にボクを頼るようになってきた。
それが堪らなく嬉しかった。
だけどやっぱり、家族の絆とは恐ろしいものだった。
ある日、午後の講義がなかったため、ボクは早めに家へと帰った。
いつものように陽菜ちゃんのお出迎えをしたが、何故か隣には幻が居た。
いや……ボクが幻だから、目の前にいるこいつが本物の碧だ。
ボクは再び碧を恨んだ。
陽菜ちゃんは、ボクの姿をした碧を信用しているように見えた。
どうして……。
見た目は一緒じゃないか。
それなのに、どうしてそんなに仲が良さそうなの?
やっぱり家族だから?
しかし、そんなことはどうでもよかった。
いくら碧が家族とは言え、今はボクが傍に居る。
そう思うと、幾らか心が楽になった。
それなのに、陽菜ちゃんはまた罪を犯してしまった。
まさか、御影教授を殺すなんて思ってもいなかった。
再び陽菜ちゃんの記憶が流れてくる。
家族を罵られた上に、陽菜ちゃん自身も貶されたのだ。
ボクでさえ、激しい怒りを覚えた。
陽菜ちゃんが感じた怒りは相当なものだったのだろう。
当時はこの感情が理解できなかったが、今なら分かる。
やっぱり、陽菜ちゃんにとって家族は大切な存在だったのだ。
悲しいことに、ボクたちは訳も分からない怒りに身を任せて罪を犯してしまったのだ。
事件が起きた翌日。
ボクは陽菜ちゃんの幼馴染だという柚葉ちゃんに引き留められた。
何故かボクは身構えてしまった。
何を言われるのか想像もできなくて、怖かったから。
案の定、彼女はボクが想像していなかった言葉を放った。
『私、中学生の頃先輩のことが好きだったんです』
突然の告白につい固まってしまう。
『えっと……俺はどんな反応をすれば良いの?』
いや、待てよ。
中学生の頃ってことは、本当の碧の姿を知っている?
しかし、急にその話を持ち出す理由が分からなかった。
『大学で再会した時は嬉しかったです。でも、会わない間に先輩は変わってしまいました』
『時間が経てば変わるのも当然じゃないか』
当たり前すぎて、何を言いたいのかが良く分からない。
『先輩は、私のことを下の名前で呼んだことは一度もありませんでしたよ』
……は?
『いや……。そんなの覚えてる訳ないじゃん』
『それでも事実です。今の先輩はまるで必死に演技をしているみたいです』
その言葉にボクはドキッとした。
ただの学生に何が分かるというのだ。
しかし、彼女は既に確信しているようだった。
『あなた……、一体誰なの?』
答えられる訳がなかった。
もしボクの正体がバレたら、陽菜ちゃんの傍に居られなくなる。
こんな時でさえ、ボクはどこまでも身勝手だった。
『何を考えてるのか分からないけど、陽菜ちゃんのこと傷つけたら許さないから』
『……問い詰めないのか?』
『聞いたところで教えてくれないでしょ』
『それは……』
『良いのよ。陽菜ちゃんを守ってくれさえすれば。だから、私も罪滅ぼしをしないとね』
『どうして急にそんなことを……?』
『……内緒。これでお互い様だね』
そう言う彼女は、悲しそうながらも、どこか吹っ切れたような顔をしていた。
『……お前、何考えてんだ』
ボクの口から出たのは、そんな冷たい声だった。
教授を殺した犯人が自首したというニュースを聞いた時は驚いた。
しかも、その人は柚葉ちゃんだという。
あの時、彼女は既に覚悟を決めていたのだろう。
ボクは、そんな彼女のことが理解できなかった。
陽菜ちゃんを守りたいという気持ちは同じだが、どうして自分を犠牲にできるのだろうか。
しかし、その理由はすぐに分かることとなる。
柚葉ちゃんは恐らく、犯人の正体を知っていた。
彼女自身も言っていた。
これはただの罪滅ぼしだと。
大切な友人であるにもかかわらず、陽菜ちゃんをいじめてしまった。
そのことをずっと悔いていたそうだ。
それが再び火種となったのだろう。
まさか、親友まで殺してしまうとは思いもしなかった。
人間の感情とは恐ろしいものだ。
大切な人の命さえ奪いかねないのだから。
しかし、その代償は大きいものだった。
記憶がない陽菜ちゃんにとって、柚葉ちゃんの死は突然訪れたものだったから。
次第に陽菜ちゃんは、ボクの前では全く笑わなくなってしまった。
陽菜ちゃんが手紙を見せてくれた時、ボクが素直になっていれば、何かが変わったのだろうか。
あの日、陽菜ちゃんは突然、「自分は家族と仲が良かったのか」と聞いてきた。
陽菜ちゃんの手には手紙が握られていた。
そんな手紙知らない。
陽菜ちゃんは……ボクたちは愛されているはずがないんだ。
最初はボクもそう思っていた。
しかし、陽菜ちゃんの思いに触れ、記憶を辿ってみても、愛されていなかったとは言いきれなかった。
それでも、ボクは信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
そんなこと、今更気が付いたところで意味はないのだから。
だから、つい陽菜ちゃんに酷いことを言ってしまった。
『まただ……。また自分から大切なものを手放してしまった。やっぱりボクは……』
どこまでも、悪意に満ちた存在なんだ。
その事実が、何よりも苦しかった。
陽菜ちゃんを救いたい。
陽菜ちゃんが笑顔になってほしい。
その願いは確かなはずなのに、自分自身はなんて身勝手なんだろう。
こういう時、自分が"普通じゃない存在"であることを酷く憎んだ。
もし、普通に人間として陽菜ちゃんと出会えていれば、もっと寄り添えたのではないのか。
どんなに願ったとしても、所詮それは夢物語でしかなかった。
それからの出来事は、流れに身を任せるしかなかった。
完全に自暴自棄になったのだ。
もう、全てがどうでも良かった。
ボクはやっぱり一人がお似合いだ。
だから陽菜ちゃんから離れることにした。
少しばかり夢を見ていただけで、現実に戻るだけだ。
そう自分に言い聞かせてきた。
それなのに、陽菜ちゃんはボクに会いに来てくれた。
そこにかつてのような優しさは感じられなかったが、それでも再びボクを見つけてくれたのは嬉しかった。
陽菜ちゃんが、ボクを必要としてくれている。
だったら、その期待にボクが応えるしかない。
しかし、最後の最後までボクは自分勝手で、間違った道を選んでしまった。
陽菜ちゃんは、一番憎んでいる人……。
陽菜ちゃん自身を殺した。
ボクは陽菜ちゃんを殺すつもりは全くなかった。
むしろ、生き続けてほしかった。
だから、陽菜ちゃんに害を与える存在を排除すれば幸せになると思ったのに、彼女はそれは違うと言った。
そして、どうやらボクの存在に気が付いたようだった。
バットエンドなはずなのに、裏切られた憎しみを感じたはずなのに、それ以上に陽菜ちゃんに認められたことが嬉しかった。
その時、ようやくボクも認められた気がした。
あぁ、ボクだって本当は愛されたかったのだ。
ボクの存在を否定してほしくない、どんな姿をしていてもボクを受け入れてほしい。
それなのに、素直に愛を受け取ることができなかった。
きっとこれは、ボクが自分の醜さを受け入れたくなかったからだ。
誰よりもボクを愛する必要があったのはボク自身だったと言うのに。
***
いつのことだったか。
もう随分前の話だ。
ボクたちが普通に出会っていれば友達になれたのかと聞いたことがある。
陽菜ちゃんの答えはNOだった。
悲しいけれど、それが事実なのだろう。
陽菜ちゃんの一部である前に、マリスである前に、ボクはボクだ。
この選択はボクが選んだ道。
甘えているなんて偉そうなことを言ったけれど、本当は違う。
ボクが陽菜ちゃんの優しさに甘えていたのだ。
ボク自身が甘かったのだ。
数え切れないほどの年月が経った。
地上の世界も随分と変わっているのだろう。
そして、いよいよ陽菜ちゃんと別れる日がやってきた。
「……いよいよだね」
「うん。正直実感湧かないし、あの日のことを未だに思い出すよ」
ボクも陽菜ちゃんと同じ気持ちだ。
辛い記憶ほど、鮮明に残ってしまう。
どんなに月日が経っても、過去の出来事が消える訳ではない。
「ねぇ、日向」
陽菜ちゃんが優しい声でボクの名前を呼ぶ。
「正直、未だにどうしてあんなことをしたのかって思うよ。自分の中に憎しみや妬みの様な汚い感情があるって信じたくなかった。身勝手な理由で人を傷付けることが理解できなかったし、そんな人が大っ嫌いだった。でもまさか、自分がそんな人間になっちゃうなんてね」
僕も同じだ。
ボクだって、これほどまでに愛されたいという気持ちがあったとは思ってもいなかった。
その感情が強すぎるが故に、大切な人を傷つけてしまうということも。
「でも、これもまた私の身勝手な考えなのかもね。誰かから見たら私は、ただの偽善者に過ぎないのかもしれない。答えをひとつに決めることなんてできないんだよ」
それからしばらくは沈黙が続いた。
陽菜ちゃんの言っていることも一理ある。
罪を犯すことは悪だと言えばそうだし、一概に悪くはないと言えばそうだ。
人生に正解なんてない。
だからこそ、脆く、儚く、そして美しい。
一見、人間の悪意や欲望に塗れた世界のように見えるかもしれない。
しかし、それを乗り越えようとする生き様、自分なりの正義を見つける旅路は、何よりも強く、輝いている。
だからこそボクは、陽菜ちゃんが幸せになってほしいと強く願っている。
それこそが、ボクが望む人生の形だ。
「ここを出たら今までのことを忘れちゃうんだよね。家族のことも……日向のことも」
「……うん。でも、陽菜ちゃんはもう後ろを振り向かないで。前を向いて歩き続けて。それが八神日向としての最後の願い」
陽菜ちゃんが生まれ変わるのなら、ボクはどうなるのかな。
もしかしたらボクもやり直せるかもしれない。
小さな光でも、希望を託してみても良いよね?
「もしさ、もしもだよ? 来世で再会することができたら、今度こそボクから声をかけるね」
「約束だよ? 今度こそ忘れないでよね」
こうしてボクたちは指切りげんまんをした。
「じゃあ……そろそろ行くね。サヨナラ、日向」
「………うん。サヨナラ、陽菜ちゃん」
これが、八神日向としての最後の記憶だった。
***
22XX年8月
「朝陽ー! 学校遅れるわよ!」
「分かってるって!」
僕は八雲朝陽。
父親の仕事の都合で、地元を離れ、都会へと引っ越してきた。
今日から新しい高校に通うことになる。
都会なんて慣れていないし、大変なことも多そうというのが当初のイメージだった。
しかし、そのイメージは簡単に崩れることとなる。
知らない場所なのに、地元のような親しみを感じたのだ。
まるで、前にも来たことがあるかのような親近感を覚える。
両親にも確認してみたが、僕がこの町に来るのは初めてとのことだ。
不思議な感覚だったが、僕は直ぐにこの町が気に入った。
準備も整い、早々に学校へと向かう。
都会の学校ともあって、生徒数がかなり多い。
優しい人ばかりとは聞いているが、それでも不安な気持ちが強かった。
「HRを始めるぞ。皆、席に着け」
担任の先生の言葉で、騒がしかった教室が一気に静かになる。
「今日は皆に紹介したい人が居る。今日からこのクラスの一員になる。入ってきてくれ」
その言葉で、僕は教室へと足を踏み入れる。
皆の視線が一斉に僕の元に集まった。
「親の仕事の都合で、こちらに引っ越してきたそうだ。自己紹介をしてくれ」
「八雲朝陽です。まだ分からないことだらけなので、ぜひこの学校のことを教えてください。これからよろしくお願いします」
僕がお辞儀をすると、拍手の音が聞こえてきた。
都会と言えど転校生は珍しい存在らしく、興味津々な目でこちらをみている人が数人居た。
「八雲の席は一番奥の窓際の所だ」
「分かりました」
そう言って僕は、自分の席へと向かった。
その時、急に胸のざわめきを感じた。
何……この感情は。
まるで、何かを思い出せと言わんばかりの感覚だった。
もしかして……何か忘れていることがあるの?
一瞬違和感を感じたものの、声をかけてくる人も多かったため、その後は気にすることはなかった。
不思議だったのは、隣の席の子は僕に一切声をかけてこなかったことだ。
少し気が強そうな女の子。
それでも明るい性格から、クラスの人気者であるということはすぐに分かった。
自意識過剰かもしれないが、そんな子なら真っ先に僕に声をかけてくると思ったのに。
その日の放課後は、先生から今後の予定を説明された。
一度説明は受けているが、再確認とのことだった。
そして、今日一日過ごしてどうだったかも聞かれた。
僕は、思ったより馴染めたみたいで安心したということを素直に伝えた。
先生との面談を終えた僕は、荷物を取りに教室へと向かう。
廊下には、教室の明かりが漏れていた。
どうやら、まだ誰か残っているようだ。
教室に居たのは、あの不思議な女の子だった。
勉強をしているのかな?
少し気まずかった僕は、できるだけ音を立てずに教室に入った。
とは言っても、隣の席なので近付くのは致し方ないことだった。
僕は自分の荷物を手に取り、チラッと隣の席を見た。
「……医者になりたいの?」
「えっ……?」
言ってから僕はハッとした。
何を言っているのだ。
ただ勉強をしているだけなのに、どうして医者という言葉が出てくるというのだ。
ほら見ろ。
案の定、彼女も困惑してるじゃないか。
「凄いね。私が医者を目指してるってなんで分かったの?」
「ただ……何となく」
「何となく?」
自分でもおかしいことを言っているのは理解している。
でも、急にその言葉が浮かんできたのだ。
「実は私、桜庭大学を目指しているの。もう何百年も前の人だけど、黒崎教授の論文を見て凄く感銘を受けたの。一言では言い表せないけど……私も誰かの心を救える人になりたいって思った」
……黒崎教授。
話の流れ的に、その人はきっと黒崎碧教授だな。
彼の話は聞いたことがある。
元々は外科医を目指していたが、妹さんのことがあって、悩んでいる人の力になりたいと考えたという話を、何かで見た気がする。
当時、世間では不可解な事件が話題になっていたそうだ。
未だに話題になることがよくある。
彼自身も被害者であり、唯一残された家族さえも自殺してしまったのなら、その悲しみは計り知れないものだっただろう。
その女性が何を思い、なぜ自殺をしたのかは分からない。
けれど、そのニュースを観る度に、何故か心が押さえつけられる感覚がした。
確かその女性の名前は……
「……陽菜ちゃん」
「……陽菜って誰? 私は陽だけど」
しまった。
つい声に出てしまったみたいだ。
「あ……ごめん」
「謝らなくて良いよ。自己紹介をしていない私も悪いんだし」
そう言う彼女は、僕の方を見てこう言った。
「初めまして。黒木陽です」
「今更初めましては可笑しいか」と、笑う彼女。
その笑顔がどこか懐かしく感じた。
「陽ちゃん。お願いがあるんだけど……」
「うん。何?」
「僕まだ分からないことだらけだから、色々教えてくれる?」
「もちろん! なんでも聞いて!」
そう言う彼女の姿は輝いて見えた。
これから、新しい世界が僕を待っているのだろう。
どんな世界が待っているのか楽しみだな。
今度こそ、僕たちは幸せになれるよね。
そんな世界に、僕はそっと呟いた。
「ただいま。ボクが愛している世界」
【END】