〜愛すべき世界にサヨナラを〜

 陽菜が自殺してから数日経っても、未だに実感が湧かなかった。

 あの日は運の悪いことに、風が強く、波も大きかった。

 その為、陽菜の遺体を見つけることはできなかった。

 「ただいま」と言っても何も返ってこない静かな部屋。
 
 家に帰る度に、もうこの世に陽菜は居ないという現実を突きつけられる。
 
 陽菜が起こした事件は結局、未解決のままお蔵入りとなってしまった。

 正直警察に届出るか迷ったが、俺は心の内に留めておくことにした。
 
 もう陽菜はこの世に居ない。
 
 死んでも尚、陽菜に辛い思いをしてほしくなかった。
 
 俺は今、精神科医を目指している。
 
 元々、外科医を目指していたが、陽菜の一件もあり、悩んでいる人の力になりたいと思った。
 
 ずっと外科医を目指していた俺にとっては、振り出しに戻ったようなものだ。

 しかし、幻の時に心理学はある程度学んだし、少しでも多くの人を救えるのなら、この時間は苦ではなかった。

 そういえば、陽菜はどうして心理学を学ぼうとしたのだろう。

 俺と同じ道を進むつもりだったのなら、医学部を目指したはずだ。
 
 でも、その答えは本人にしか分からない。

 ️その答えは一生分からないけれど、陽菜のおかげで自分のやりたいことが明確になった。

 月日は流れ、陽菜が死んでから二年が経った。

 俺は二十四歳となり、遂に研修医となった。

 初めての研修を終え、陽菜の願いを叶える為に、急いで家へと向かった。
 
 いつものように誰もいない家にただいまと言う。

 俺はそのまま仏壇へと向かった。

 「陽菜。どうだ? お兄ちゃんようやく医者になれたぞ。まだ研修の段階だけど、夢へと一歩近付けたんだ。白衣を着たお兄ちゃん、かっこいいだろ?」

 バカだよな……俺。

 こんなことをしたって、陽菜の声は返ってこないというのに。  

 自然と涙が溢れてくる。

 ……なぁ、陽菜。

 どうして死んじまったんだよ。

 直接この姿を見せたかったよ。

 本来なら陽菜は大学を卒業して、今は普通に働いてたじゃないか。

 陽菜の一番の罪は自分で命を絶ったことだ。

 生きて罪を償う方法もあったのに、自ら死を選んでしまった。

 でも陽菜からしたら、それしか方法がなかったんだよな。

 それくらい、辛かったんだよな。

 その時、後ろから声が聞こえた。

 「……ちゃん。お兄ちゃん」

 驚いた俺は、すぐに振り返った。
  
 「……ひ、な?」

 まぼろし、だよな。

 でもそんなことは関係なかった。

 確かに陽菜が目の前に居たから。
 
 「遅れちゃったけど、二十四歳の誕生日おめでとう。お兄ちゃんもお医者さんの卵だね。やっぱり、白衣似合ってる。凄くかっこいいよ」

 涙が止まらない。

 今一番、陽菜から聞きたかった言葉だったから。

 「……陽菜? 陽菜なのか?」

 「うん。私だよ。一人にしてごめんね」

 まぼろしでも何でも良い。

 こうして陽菜に会えたことが何よりも嬉しい。
 
 「陽菜……。どうして道を間違えてしまったんだ。陽菜が幸せになる道もあったのに。でもごめんな。俺は陽菜にとって良い兄ではなかった。マリスみたいな兄が陽菜にも必要だったのかもな」

 俺は感極まって思わず陽菜に抱きついてしまった。

 しかし、何故か違和感を感じた。

 「あ、ようやく気が付いた?」
 
 その声は陽菜のものではなかった。
 
 「てか、ちょっと離してくれない? 男同士でこの体勢、だいぶキツイんだけど」
 
 陽菜ではない声だけど、その声は聞き覚えがあった。

 「マリス……! どうしてここに。死んだはずじゃ」

 「態度変わりすぎじゃない?」

 何を言っているんだ、コイツは。
 
 「俺を殺そうとしてたの忘れてないからな」
 
 「結構執念深いんだな。ただの脅しだったのに。もうそんな事しないよ。何より陽菜ちゃんが望んでないからね」

 そんな言葉、信じられるか。
 
 「じゃあお前は早く成仏しろ」

 「酷い扱いだなぁ。折角、陽菜ちゃんに頼まれてこっちに来たのに」

 ……陽菜が?
 
 「あんな別れ方をしちゃったから碧のことが心配なんだってさ。良いねぇ、そんなに心配されて」

 「陽菜は? 陽菜はどうしてるんだ?」

 「実際殺人をしたのは彼女の意思だったし、罪を犯したことには変わりはない。だから成仏するにはだいぶ時間がかかるだろうよ。でも大丈夫。ボクが付いているから。この世界を嫌っていた陽菜にとっては地獄の方がよっぽどマシかもね」
 
 ……陽菜は、マリスを受けいれたようだな。

 なら、少しはコイツを信じてみても良いの、か?

 でも、一つだけ訂正したいことがあった。

 「それはどうかな。案外陽菜はこの世界を気に入っていたりね」

 「え?」
 
 「でもそれは本人にしか分からないよな。てか、マリスでも陽菜のこと分からなかったりするんだ」

 マリスは、陽菜のことなら何でもお見通しだったのに。

 「ボクが? そんなことないと思うけどなぁ」

 人は案外、自分のことが一番分からなかったりする。

 陽菜だって、してはいけない事をしてしまった。

 しかし、別の道だってあったはずだ。
 
 冷静になって自分と向き合っていれば、今ここで、家族と笑い合えたかもしれない。
 
 でも、もう遅い。
 
 だから、今俺ができることは、陽菜の二の舞にならないことだ。
 
 俺も、この理不尽な世界を憎らしく感じることがある。

 しかし、それ以上にこの世界が美しいことを知っている。

 ある意味、今隣にいるマリスは俺自身から生み出されたものでもあるのだろう。
 
 俺も選択を間違えればここに居なかったかもしれない。

 だから次は、俺がこいつと共存していく番だ。
 
 正直俺はまだコイツのことが嫌いだが、いつかは認めて……そして最後には一緒に成仏してやる。

 それはまだまだ先の話だが、きっと上手くいくだろう。

 だってこいつは陽菜の心から生まれた存在なんだろ?

 初めて陽菜からマリスって言葉を聞いた時から薄々気付いていたよ。

 だけど、信用できなかったんだ。

 でも、陽菜が認めたのならもう大丈夫だな。

 「てか、なんかボクの正体に気付いてる感じ? なんでなんで? いつから?」

 「うっせぇ。教えるわけないだろ」

 「うわっ。口悪っ! あ、やっぱりボクもお兄ちゃんって呼ぼうか? 碧お兄ちゃーん!」

 「やめろ。キモイわ」

 「ちぇっ冷たいな。こんなんだから陽菜にも嫌われるんだよーっだ」

 本当に陽菜から生み出されたのか?

 驚くほど似てないじゃないか。

 「てか、これからどうするんだ? もう八神幻でもないんだろ?」

 急に俺の前に現れて、すぐに立ち去るつもりはないみたいだし、純粋にどうするつもりなのか気になった。

 「あ、そこは安心して。ボクは本体じゃないから。本体は陽菜の所にいる。だから碧以外には見えてないんだ。あれ、もしかして心配してくれたの?」

 こういうところはやっぱり陽菜に似ているんだな。

 ……ん?

 てか待てよ。

 「俺にしか見えない? そう言うことは先に言え! バカっ」

 「うわぁん。悪口言われた」

 陽菜はよくこんな奴と一緒にいれたな。

 気が付かなかったのが不思議なくらいだ。

 「あ、あと、もう名前マリスじゃないから。ボクの名前は日向。陽菜が付けてくれたんだよ? 良い名前でしょ!」

 「そっか日向。でも俺はお前を認めたわけじゃないからな」

 ️何コイツは笑ってんだよ。

 「なんだ。ニヤニヤして」

 「認めないとか言ったくせに。今、日向って呼んでくれたよね? やっぱ、お兄ちゃん最高!」

 そう言ってマリスは抱きついてくる。

 「やめろぉぉぉ」

 また、騒がしい日々がやってきそうだ。

 陽菜はもう安心していいよ。
 
 俺はもう大丈夫だから。

 陽菜、生まれ変わったら必ず幸せになってね。

 その時は、自分のことを愛してあげて。

 俺も、今の現実をしっかりと受け止めるから。

 あぁ……。

 ようやく伝えられるな。

 「さようなら、陽菜」

 そうして俺は、愛する人にサヨナラを告げた。