〜大切な家族〜

 「ねぇ、お兄ちゃん。私ね、お兄ちゃんのこと嫌いだったの。お兄ちゃんは何でもできて、自分に自信があって、家族から愛されていた。私にはないものを全部持っている。だからずっと、羨ましかった」

 「陽菜……急に何を言い出すんだ? お前も家族に愛されてたじゃないか」

 こんなこと、急に言われても困るよね。

 でも、これが最後だから。

 最後くらい、自分の口で本当のことを伝えたいと思った。
  
 「それでも……! それでも、お父さんとお母さんは、お兄ちゃんや莉子のように私に接してくれなかった。私にはずっとよそよそしい態度で……。お兄ちゃんだってそう。私にだけ態度が違った。優しい笑顔で皆には接していたのに、私にはそんな笑顔を見せなくて、荒っぽくて。これがどんなに辛いことだったか分かる? 分からないよね。だってお兄ちゃんは完璧で、親からも期待されて、そんな風に差別をされたことがないもんね」

 ちょっとだけのつもりだったのに、一度口に出してしまった言葉は滝のように溢れてしまう。
  
 「それは違う!」

 「何が違うって言うの!」
 
 「俺は陽菜が思っているようなような人間じゃない。完璧な人間じゃないし、自分に自信があるわけでもない。でも自分に言い聞かせるしかなかったんだよ。俺は大丈夫。黒崎碧ならできるって。そうじゃないと、怖かったんだ。いつ父さんから見放されるか分からなかったから」

 お兄ちゃんが見放される?

 お兄ちゃんは、私が知っている人の中で一番凄くて、尊敬できて、ずっと私とは違う世界の人だと思っていたのに。

 なのに、お兄ちゃんまでそんなことを言うの?
 
 「どうして……? お父さんはずっとお兄ちゃんに期待していた。お兄ちゃんは優秀だって、でも私は平凡だって、ずっと比べられてたんだよ?」

 だからお兄ちゃんが憎かった。
  
 この感情はただの八つ当たりのようなものだったけれど、お兄ちゃんが褒められる度に、私は惨めで仕方がなかった。

 「それは、俺が父さんの望む息子を演じていたからだ。俺は生まれた時から父親のように医学の道に進むことを求められた。ガキの頃の記憶なんてほとんどないけど、母さんから、碧なら父さんのように立派な医者になれるって言葉を何度も聞かされたのは覚えてる。本当は俺だって親の言いなりにはなりたくなかった。でも陽菜が生まれて、陽菜にも俺と同じことを求めるようになった。だけど、俺はそれが嫌だった。初めてできた妹には、望む道を歩いてほしいと思った。だから、その分俺が優秀になれば、そうすれば父さんも母さんも陽菜には何も言わなくなるんじゃないかって。医学の道に進むのは、俺だけで十分だと思っていた」

 お兄ちゃんがそんなことを思っていたの?
 
 「じゃあ、突然お父さんたちが何も言わなくなったのって……」

 「俺が、父さんに頼んだからだ。高校受験でしっかり自分の実力を見せつける。将来は、父さんと同じ桜庭大学に進学する。だからそれに見合う高校にトップの成績で入学する。そうすれば、俺の覚悟が伝わるんじゃないかと思った。父さんの後は俺が継ぐから、妹たちには自由に未来を選ばせてほしいって、お願いしたんだよ」
 
 確か、その時私はちょうど中学生のときだった。

 そうだ。

 その時から、何も言われなくなった。

 だから、お父さんはもう私に期待しなくなったんだと思っていた。
 
 「幸い、莉子は自分がしたいことを見つけて、両親もそれを応援していた。でも陽菜は、俺と同じように親の期待に応えようとしてきたから、急に自分のやりたいことを見つけるのは難しかったよな。だから陽菜も俺と同じ高校を受験して……。陽菜のために……って思っていたのに、かえって陽菜を苦しめてしまった」
 
 「そんな……!」

 違う……。

 私が本当の気持ちも知ろうとしなかったから。
 
 「親といっても、彼らも人間だ。どうしたらいいか分からない時だってある。二人は、陽菜がやりたいことを見つければ全力で応援するって言ってた。でも陽菜はずっと、桜庭大学を目指し続けていたから、てっきり陽菜もその道を目指していると思っていたらしい」
 
 「じゃあどうしてお兄ちゃんは私にだけ態度がが違ったの? 私だけ仲間外れにされているみたいで悲しかった」
 
 「それは悪かったと思ってる。でも俺は陽菜の味方でいたいと思っていたんだ」
 
 「じゃあ尚更どうして……! 莉子にはあんなに優しくて、親にも愛想良く振舞っていたのに、どうして私だけ!」

 「あれが俺なりの接し方だったんだ。明るかった陽菜が、心を閉ざしてしまった。だから俺が偽りの姿を見せるわけにはいかない。親に気に入られようとする姿で陽菜と話すわけにはいかないだろ?これが俺の本当の性格だ。俺は優等生なんかじゃない。俺の悪い部分も隠さないから、俺のことは信じてほしいっていう俺なりのメッセージだったんだよ」

 お兄ちゃんのなりの接し方?

 でも、今思えば確かに、小馬鹿にしてきても私のことは否定してこなかったし、私が落ち込んでいる時には、よく励ましてくれていた。

 陽菜なら大丈夫。

 俺は陽菜が頑張ってることを誰よりも知っている。

 それを受け入れなかったのは私の方だ。

 どんな時でも、お兄ちゃんはずっと傍に居てくれというのに。

 それでも……

 「そんなの……分かるわけないよ」

 ️「だから今、すごく後悔してる。どうして言葉にしなかったのかって。あの時しっかり言葉にしていれば、もしかしたら何かが変わったんじゃないかって」

 変わってたのかな……。

 もしそうなら、私は罪を犯さなかったのかな。

 「でも、これだけは勘違いしないでほしい。俺たち家族が過ごしてきた時間は紛れもない事実だ。そして、俺たちは、陽菜はちゃんと両親から愛されていた」

 その時、頬に冷たいものを感じた。

 泣いてるんだ……私。

 ずっと、私は皆が憎かった。

 でも皆は悪くなかった。

 悪いのは私。

 幸せを自分の手で壊した私が悪いんだ。

 その時、お兄ちゃんの優しい声が聞こえた。

 「だから、家に帰ろう。俺たちには帰る場所があるんだから」

 私だって帰りたいよ。

 このまま、自分がしたことをなかったことにしたい。

 でも、そんなことはできない。

 「……無理だよ。もう後戻りできない」

 「陽菜は何も悪くない。だからそんなに自分を責めるな」

 違う……。

 違う違う違う!!!

 「違う! 全部私が悪いの! 幸せな世界を壊したのも、お兄ちゃんから大切な人を奪ったのも……全部私!」
 
 「それってどういう……」
 
 「私なの! 私が殺したの! お父さんも、お母さんも、莉子も、他の事件だってそう。全員私が殺したの!」

 やっぱりお兄ちゃんは驚いた顔をしていた。
 
 あーあ。

 遂に言っちゃった。

 もうこれでお終い。
 
 唯一の味方も居なくなっちゃった。
 
 ……いや、違うよね。

 悪役に味方なんて、初めから居なかったんだよね。
 
 「……陽菜」
 
 何よ。
 
 なんでそんなに優しい声で名前を呼ぶの。
 
 私は人殺しなんだよ?
 
 お兄ちゃんの大切な人を奪ったんだよ?
 
 何してくれたんだって、お前なんか妹じゃないって、思いっきり罵ってよ。

 「陽菜。俺の方を見ろ」

 気が付くと、すぐ傍にまでお兄ちゃんが来ていた。
 
 私はゆっくりと顔を上げた。
 
 「……正直驚いたよ。陽菜がそんなことをすると思ってなかったし、どうしてそんなことをしたんだって思う。陽菜は人として許されないことをした。そこにどんな理由があったとしても、絶対に人の命は奪ってはいけなかった」

 そうだよ。

 私は罪を犯したの。
 
 だから私のことを嫌いになってよ。

 最低な人間だと、はっきり言ってよ。
 
 「でも、陽菜は俺の妹だ。例え陽菜が俺のことを嫌っていても、罪を犯しても、世界中の人に見放されても、陽菜は俺の自慢の妹だし、俺は絶対に陽菜の傍から離れない」

 ……何を言っているの?

 ほんと、偽善者で無駄に優しくて、私が欲しい言葉をかけてくれるお兄ちゃんが大っ嫌い。

 でも……それ以上に大好きだ。
 
 碧は私の自慢の兄だ。
 
 こんなにも私を想ってくれる人が傍に居たのに、どうして自分から手放してしまったのだろう。

 もう罪を重ねてはいけない。

 そのためには、私が一番憎い人を殺さなければならない。

 「……ありがと、お兄ちゃん。うん。やっぱりお兄ちゃんだ。この顔がお兄ちゃんだ」️

 そう言って、マリスから取り戻したお兄ちゃんの顔をじっと見つめる。

 この姿を見られるのも、今日で最後だから。
 
 「一生戻れなかったらどうしようかと思ってたよ。俺のためにマリスに頼んだんだろ? ありがとな。ところで、マリスって……」

 「ねぇ、お兄ちゃん。どうして元に戻れたか分かる?」

 わざとお兄ちゃんの言葉を遮ってそんなことを聞く。
 
 「それは陽菜が頼んでくれたからだろ?」
 
 「でも、あのマリスが簡単に話を聞いてくれる訳ないじゃない」
 
 「それは……確かに」

 ごめんね、お兄ちゃん。

 私はこれから罪を犯します。

 でも、これで最後だから、もう罪を犯すことはないから。

 だから、さっきみたいに私を許してね?

 私は心を決めた。
 
 「だから私はマリスにこう言ったの。一番憎い人がいる。だからその人に消えて欲しいって」
 
 「ちょっと待って。話が見えてこないんだけど」

 「そのままの意味だよ。魂と身体が入れ替わっていれば、人はそのまま死んでしまう。本体を失った魂は自分じゃない、違う身体の中で生き続ける必要があるんだって」

 「何を言っているのかさっぱり分からない」

 「じゃあさ、こう言ったらどうかな? 魂を取り込めば、例え本体じゃなくても殺すことができるって」

 「おい。それってまさか……」

 そろそろお兄ちゃんも気が付いたよね。

 私はゆっくり、後ろへと下がった。
 
 「やめろ! それ以上動くな! そこから先は崖しかない!」
 
 「私が一番憎くて仕方がない人。それは私自身だよ。だから、そんな人はこの世に居てははいけない。幸せになってはいけない」

 「やめろ! お願いだから、こっちに戻ってこい」

 「ごめんね。もっと早くこうすればよかったのに。この世界が大っ嫌いだと思っていたけど、思ってたよりも未練が残ってたみたい」
 
 「そんなことを言うな。だったら生き続ければいいだろ。生きて、幸せになればいいだろ!」

 幸せ、か……。

 お母さんの願いも叶えられなかったな。

 私は最後までわがままで、親不孝な娘だったね。
 
 「それは無理だよ。もう思い残すことはないし、何より罪を重ねすぎちゃったから。あ、でもお兄ちゃんがお医者さんになった姿見たかったな。白衣を着たお兄ちゃん、かっこいいんだろうな」

 これ以上時間が経てば、折角の決心が揺らいでしまう。

 だからもう、ここでお別れだ。

 「ダメだ。行くな、陽菜」

 「バイバイ。お兄ちゃん」

 ごめんね。

 ありがとう。

 大好きだよ。

 結局その言葉は言えないまま、私は海へと飛び込んだ。

 「陽菜ぁぁぁぁぁ」

 お兄ちゃんの悲痛な叫び声が聞こえる。

 あぁ……死ぬのってあっという間なんだな。

 不思議と、恐怖は感じなかった。

 やっと解放される。

 その気持ちの方が強かったから。  

 "サヨナラ。私が愛していた世界"

 こうして私は、この世界に別れを告げた。