〜悪夢の始まり〜

 逃げるように自分の部屋に戻った私は、食事の時間以外は部屋に引きこもって勉強をした。

 辺りが真っ暗な闇に包まれた頃。

 勉強ばかりで流石に疲れてしまった。 

 気分転換に散歩でもしてこようかな。

 都会の少し肌寒い夜のことだった。 



 私は出歩くことがあまり好きではなかった。

 外に出ると、知らない人から声をかけられることがある。

 私自身は有名ではないけれど、お父さんが有名な教授だから。

 お父さんは、私たちの名前をメディアに何回か出したことがある。

 しかも顔写真付きで。

 全く、一般人からしたらとんだプライバシー侵害だよ。

 そんなこともあって、その記事を読んだことがある人はたまに私に声をかけてくるのだ。

 「黒崎教授は家ではどんな感じ?」とか、「やっぱり娘さんもお兄さん同様医学の道に進むの?」とかを聞いてくる人がいる。

 そんなことを聞かれたって、私が答える義理はないというのに。

 でも、お母さんからはうちの評判を下げないようにと言われ続けている。

 適当にあしらうこともできなかった。

 そういう訳で、できるだけ外に出ることは控えていたのだ。

 しかし、何を思ったか今日だけは違った。

 もう辺りは真っ暗だし、流石に声をかけてくる人もいないだろう。

 そう思った私は、薄手のパーカーにスウェットパンツというラフなスタイルで、都会の夜へと飛び出した。



 どれくらい歩いただろうか。

 特に決まった行き先もなく、ブラブラと歩いていた私は、薄暗い裏路地へと続く道の前で足を止めた。

 「こんなところに道なんてあったっけ?」

 その瞬間、何かに導かれるように裏路地へと足を踏み入れた。

 何もない暗い場所。

 ビルの明るさも、車が通る騒々しさも何もない、ただ静かな場所。

 一瞬怯んでしまったが、私の足は止まらず奥へと進む。

 「ところで、この道どこまで続いてるの……」

 そんな私の呟きも、暗闇の中にあっという間に消えてしまう。

 やっと開けてきたかな。

 そう思っていると、黒い影が見えた。

 「……何、あれ」

 私は少し怖くなった。

 やっぱりもう戻ろう。
 
 私は来た道を戻ろうと後ろを振り返ると、

 「……うぅ」

 !!

 人だ。

 今、間違いなく人の声がした。

 どうしよう。

 このまま聞かなかったことにもできるが、私の良心が残っていたのか、恐怖はそっちのけで、影の方へと向かった。

 「だっ……大丈夫ですか?」

 返事がない。

 私はもう少し近付いてみる。

 「あの……!」

 ピチャ

 ん?

 ピチャ?

 生々しい音が聞こえた。

 驚いた私は恐る恐る下を見る。

 「……ッ!!」

 そこは辺り一面鮮やかな血で染まっていた。

 そして、目の前には血だらけの男が壁にもたれて座っていた。

 いや、無理無理!

 こんな血だらけの人をどうしろと?

 「と、とりあえず救急車……!!」

 私はガタガタ震える手でスマホを取り出した。

 「えっと……。番号は……」

 ガシッ

 「ヒィィ……!」

 番号を押そうとした瞬間、何者かに腕を掴まれた。

 いや、何者かじゃない。

 目の前にいるこの男に手を掴まれたのだ。

 信じられない。

 こんなに血だらけなのに、意識があるわけがない。

 ガタガタ震える私をよそに、その男はゆっくりと顔を上げる。

 マズイ。

 目が合ってしまった。

 「ねぇ……。今、何しようとしたの?」

 ……ッ!

 話してる?

 それも普通に。

 訳が分からなかった。

 逃げようとするも、恐怖で足が動かない。

 何よりこの足元の気持ち悪い状態を何とかしたい。

 「……え?」

 何……。

 どういうこと?

 あんなに真っ赤に染っていた空間が、今はなんともなっていない。

 それに、目の前のこの人も、血はおろか傷跡さえ全く見当たらない。

 「ホッ……」

 安心した私はその場に倒れ込んでしまった。

 「大丈夫? 怯えたような顔をしていたけど」

 「いえ、一瞬血が見えたような気がして……」

 「えぇ? そんなもの全然なかったけど?」

 「でも確かに……!」

 「キミは何も見てない。そうでしょ?」

 何故かその声が脳に響く。

 何も……見てない。

 ナニモミテナイ。

 その言葉が私に暗示をかけたかのように、ここが血塗れだったことを忘れてしまった。

 「ところで……どうしてこんな所にいるんですか?」

 ここは薄暗いし、人通りも少ない。

 普通ならこの場所に居続けようなんて思わないだろう。

 「それはこっちのセリフだなぁ。どうしてここに来れたのかな?……陽菜ちゃん」

 !!

 「どうし、て……」
 
 「あはは! 驚いた顔してるね。黒崎陽菜十八歳。大学教授の父と、料理研究家の母の元に生まれる。五つ下の妹と二つ上の兄が居る。どう? 間違ってないよね」

 間違っていない。

 でもどうして?

 初めて会うこの人が、どうして私のことを知っているの?

 怖い。

 今すぐこの場から離れたい。

 私の足、早く動いて!

 「あ! ボクだけ君のことを知ってるのはなんかズルいかな? ボクの名前はねぇ、マリスって言うんだぁ。覚えておいて!」

 いや、どうして私がこの人の名前を覚えていないといけないの?

 てかマリスって外国の名前かよ。

 そんなことを突っ込んでいる暇はなかった。

 ようやく動いた足で必死にその場から離れる。

 「えー。もっと話したかったのに。まぁいいや。またね! 陽菜ちゃん!」

 やめて。

 私の名前を呼ばないで。

 「……やっとボクに会いに来てくれたね。陽菜ちゃん」
 
 マリスとかいう奴が、最後に何かを呟いたような気がしたけど、そんなことを聞いている余裕はなかった。



 必死で走ってその場から離れた。

 ……つもりだった。

 「えっ?」

 確かにその場から離れることはできた。

 ただ、何かがおかしい。

 あんな奥に入り込んだと思っていたのに、裏路地を抜けるのはあっという間だった。

 いや、それだけじゃない。

 さっき来たはずのあの道が消えているのだ。

 後ろを振り返ると、そこにあるのはただのコンクリートの壁だけ。

 「どういうこと……。確かに私、ここから出てきたよね?」
 
 嘘なわけがない。

 だってあんなにも鮮明に……!

 「……鮮明に? 何をしてたの?」

 意識がフッとどこかに飛んだかのように、体験した出来事をすっかり忘れてしまっていた。

 「……マリス」

 不思議とその言葉だけは脳裏にこびりついて離れなかった。

 ふと時計に目を向けると、時間は全く進んでいない。

 「ちょっとボーとしちゃってたみたい」

 寒さも増してきたため、私は帰路へとつくことにした。

 「そういえば、なんで散歩してたんだっけ?」



***



 キィィ……

 家に着くと、できるだけ音を立てないよう静かに扉を開けた。

 こんな時間に外に出ていたことがバレたら、間違いなく怒られる。

 「……バレてないよね」

 「誰にバレてないって?」

 ガタッ

 「バカっ。音立てたら気付かれるだろうが」

 びっくりした……。

 こんな時間なのに、お兄ちゃんが起きていたなんて。

 「お兄ちゃんがまだ起きてるの珍しいね。驚いた」

 「それはこっちのセリフだ。こんな真夜中にどこいってたんだよ。バレたら間違いなく怒られるだろ」

 優等生のお兄ちゃんでもそんなことを考えるんだ。

 「ほら。いくら夏でも夜の外は冷えるだろ。早く中に入れ」

 「うん」

 お兄ちゃんに促されて、私は静かなリビングへと向かった。

 「それで。どうしてこんな時間に出歩いてたんだ? いつもなら勉強してただろ?」

 勉強、勉強って……。

 私はお兄ちゃんと違って好きで勉強をしてるわけじゃないんだから。

 「別に。ただ勉強ばっかで疲れたから。私ももう成人したし、外に出て少し息抜きでもしてこようかと思っただけ」

 「いくら成人したと言えど、まだ高校生だろ。都会の夜は危ないからひとりで出歩くなよ」

 え、まさか……。

 「心配してくれてるの?」

 「はぁ? 何言ってんだよ。当たり前だろ。いつも付いてるはずの電気が消えてたから覗いてみたら陽菜が居ないんだもん。そりゃあ驚くわ」

 お兄ちゃんが驚いてるところ、見てみたかったな。

 それにしても意外だった。

 私と真逆の性格のお兄ちゃんは、私のことなんか全く気にしてないと思っていたから。

 でもこんな風に心配をされるのも悪くはない。

 「ほら、陽菜も早く寝な。母さんと父さんには黙っておくから」

 「……ありがと」

 本当はまだ眠くなかったけど、相当お兄ちゃんに心配をかけたみたいだから、私は大人しく従うことにした。

 「あ、お兄ちゃん。一つ質問があるんだけど」

 「どうした?」

 私には理解できなかったけど、頭の良いお兄ちゃんなら、この意味が分かるかもしれない。

 「多分英語だと思うんだけど"マリス"ってどういう意味か分かる?」

 その時、お兄ちゃんの表情が一瞬変わった気がした。

 「マリス? 何だ。お前不良にでもなったのか?」

 「馬鹿にしてる?」

 なんで単語を聞いただけで、不良になったかって返答が返ってくるのよ。

 「いや、別に。てか大体そんな単語どこで聞いてきたんだよ」

 「それは……。あれ? 確かに。どこで聞いてきたんだっけ」

 どこかで聞いたような気がしたのだが、おかしなことに、それがどこで聞いた言葉なのかは思い出せない。

 「記憶力ニワトリ並かよ」

 はぁ?

 別に少し忘れただけで、そこまで言わなくてもいいでしょ。

 「あーあー。お兄ちゃんに聞いた私が悪かったですよ」

 せっかくお兄ちゃんを見直したところなのに、どうして自分から好感度下げるようなことを言うのだろうか。

 「ごめんって」

 そう言うお兄ちゃんの声も、少し震えていた。

 ほら、やっぱり馬鹿にしてるじゃない。

 「でも実際、お前にとってその程度の言葉だったってことだろ? 日常生活でも使わないし、意味なんて知らなくていいよ」

 そういうものかなぁ。

 釈然としないが、これ以上反論ができなかったため、深くは追及しないことにした。

 「おやすみ」

 「あぁ。おやすみ」

 馬鹿にされたような気がしたが、何故かその声からは温かみを感じた。

 全く眠くなかったのに、布団に入った瞬間睡魔が襲ってきた。

 そして一分も経たないうちに眠りに落ちてしまった。

 それはまるで、暗闇へと誘われるような感覚だった。