〜八神幻〜

 あの日から、お兄ちゃんは家に帰ってこなかった。

 いや……違う。

 「お兄ちゃんじゃなくて……マリス、だよね」
 
 話を聞く限り、大学には行っているようだった。

 そりゃあ中身がマリスだとしても、見た目はお兄ちゃんだ。

 急に大学に来なくなったら周りが不思議に思うだろう。

 でも、お兄ちゃんの正体がマリスなら、本物のお兄ちゃんはどこに居るの?
 
 あの時の私は冷静ではなかった。
 
 でも、今なら分かる。
 
 お兄ちゃんは今もどこかで生きている。
 
 きっと、何らかの理由でお兄ちゃんとマリスが入れ替わっているのだろう。
 
 どうして気付けなかったのかと思うほど、お兄ちゃんとマリスの性格は正反対だ。
 
 だったら、きっと本物のマリスも性格が変わっているはず。
 
 でも、身近にマリスという名前の人は居ない。

 そうとなれば、名前がマリスではない、別の名前になっている可能性がある。
 
 「私が知っている中で、極端に性格が変わったのは……」
 
 ……一人居た。
 
 その人は、急に性格が変わり、雰囲気がお兄ちゃんそっくりだった。
 
 良くよく考えれば、彼の姿はお兄ちゃんそのものだ。
 
 普通に考えれば、中身が入れ替わるなんて有り得ない。

 しかし、彼が本当のお兄ちゃんだという確信があった。

 私は急いで彼の元へと向かった。



 ️キャンパスで姿を見つけた私は、思いっきり名前を叫んだ。
 
 「……幻!!」

 周りの人が一斉にこちらを見る。

 恥ずかしい……。

 でも、今はそれどころではなかった。
  
 「どうした? そんなに慌てて」

 さすがの幻も驚いている。
 
 「ちょっと話したいことがあるの。でもここでは話せないことだから、今日の講義が終わったら私の家に来てもらえる?」
 
 普通の人なら、急に何を言い出すんだと思うだろう。

 幻は、最初こそ戸惑った表情をしていた。

 しかし、何かを察したらしく、すぐに承諾した。
 
 そして、講義が終わり、約束の時間となった。

 私は、どう伝えるべきかずっと悩んでいた。

 その考えがまとまらないまま時間を迎えてしまった。 

 「どこに向かってるんだ?」
 
 「どこって家だけど。あ、私の家燃えちゃったから今は違う場所で暮らしているの」

 「あぁ……。そっか」

 新しい家を知らないってことは、家が燃えた時には既に入れ替わっていたんだろうな。 

 それから私たちは、家に着くまで一言も言葉を交わさなかった。

 幻も、あえて何も言わなかったのだろう。

 私から話すのを待っていてくれているんだ。  

 「お邪魔します」

 「うん。好きに上がって」

 そう言って、私は幻をリビングへと案内した。

 「……あ、言い忘れてた」

 私は振り返って、幻をじっと見つめる。

 「ど、どうした?」

 「……おかえり。お兄ちゃん」

 結局、上手く考えがまとまらなかった。

 でも、お兄ちゃんならこの言葉だけで理解してくれるはずだ。 

 ️その言葉を聞いた幻は、驚いた表情をしていた。
 
 「理由は分からないけど、自分の正体を言えないんだよね? だから、返事をしてくれたら嬉しいな」

 私は、彼の口から出る言葉を待った。
 
 「……うん。ただいま。陽菜」
 
 やっと見つけた。

 やっぱり、幻が本当のお兄ちゃんだった。

 この安心感は、本物の家族だったからなんだ。 
 
 「ここで、アイツと一緒に暮らしていたのか?」
 
 「うん。馬鹿みたいだよね。すぐに気が付けなくて。お兄ちゃんは、ずっと私の傍に居てくれたのに」
 
 「俺こそごめん。俺が碧だって伝えたかったのに、正体を言おうとすると言葉が詰まって……。それに、陽菜に信じてもらえなかったらって思うと、怖かったんだ。でも、陽菜は俺以上に怖い思いをしていたよな」

 どうしてお兄ちゃんとマリスが入れ替わったのか。

 その理由は分からない。

 それでも、ようやく本当のお兄ちゃんに会えたんだ。

 だから今は、この幸せな瞬間に浸っていても良いだろう。

 このまま全てを忘れてしまいたかった。

 今まであった辛いことを忘れて、お兄ちゃんとずっと一緒に居たい。
 
 しかし、そんなことはできない。
 
 マリスから、お兄ちゃんの身体を取り戻さないといけないから。
 
 何より、しっかり真実と向き合う必要がある。

 マリスが言う通り、私は自分の記憶に蓋をしてしまっているのだろう。

 きっと、私は真実を知っている。

 ただ、その答えを知りたくないだけ。

 だから、私はどんな手を使ってでも……。

 例えこの先、お兄ちゃんと一緒に居られなくなったとしても、絶対に自分でケジメをつけると心に決めた。