開いたままの本。ガラスのコップに入れたお茶はぬるくなり、すっかり氷が溶けてしまった。パソコンの画面には書きかけの小説。
 ふぅ、とため息をついて、窓の外に視線を向ける。住宅街のど真ん中。静かな午後。外は暑さのせいか、歩く人も自転車に乗る人もほとんどいない。車もあまり通らないのに、涼真の耳には河川敷のあの橋の下の、川の流れる音が聞こえてきた。
 初めて七海の歌声を聴いた日、涼真は怖くなって七海が背を向けている間に慌てて自転車を漕ぎ出した。
 同じ制服だった。ということは、同じ学校に通う生徒だ。
 でも、涼真には別のなにかが引っかかっていた。
 涙を流し歌う村山さんの姿は綺麗で輝いていて、夢なんじゃないかと思うくらい美しかった。
 七海を見たとき、涼真は白昼夢症候群による症状かと思ったのだ。でも、同じ学校の生徒で現実であることを期待して、翌日制服姿で河川敷へ向かった。
 そんな七海と河川敷で会うようになって、話をするようになって、さらには今夜、花火をしようなんて誘われてしまった。
 涼真はますます夢なんじゃないかと、この現状が理解できなかった。
 涼真が学校を休んでから、もう五日経つ。きょうは土曜日。来週の火曜日には終業式で、夏休みが始まる。
 相変わらず祖母と猫のナツは家にいて、それだけで特に怖くもなんともない。ただ、学校へ行くことを想像すると怖かった。七海と仲良くなれても同じクラスではないし、夏休みが終わって毎日学校へ行かなければならないのが怖い。一生、白昼夢症候群でいいから学校に行きたくないな、なんて考えたりしていた。

「母さん、うちに花火ってあったっけ?」
 夕方、花火を買いに行く前に、念のため家にあるか確認しておいた。
「……花火?」
 いやー、と母は大きく首を傾げると部屋中をぐるりと見回した。
「ないと思うなぁ。うちで花火なんて、もうずっとやってないし。あったとしても、湿気ってるんじゃない?」
「だよね」
「花火、やるの?」
 母の顔には「誰と?」とはっきり書いてあるように見えた。
「まあ……友達と、ね」
 涼真はぎこちなく視線を逸らし、母の顔は見ないようにして言った。その一言に、母は一気に表情を輝かせる。
「そう……そうよね、夏と言えば、花火だもんね」
 何度も大きく頷いて、嬉しそうにまたテレビ画面に視線を移した。
「花火買うなら、お金出すよ」
「いや、いいよ。きょう、夜ちょっとでかけるから」
 母はにまにましながら「了解」と返事をした。
 スーパーでてきとうに花火を買い、庭にあったバケツとライターを持って、涼真は河川敷へと向かった。
 日が沈み始めていても、まだまだ外は灼熱地獄のように暑い。家を出る前にシャワーを浴びてさっぱりしたのに、河川敷に着くころにはすっかり汗だくになっていた。
「待ち合わせより早く来たんだ」
 約束の時間より三十分も早く来たのに、七海はもう橋の下で待っていた。
「村山さんだって、僕より早く来てるじゃん」
「へへ、ちょっと楽しみだったから」
 無邪気な笑顔を見せる七海に、涼真はドキッとした。初めて会ったときの七海とは全く違う表情だった。
 あの日の村山さんはガラス細工のように繊細な表情だったのに、今は太陽に向かって咲く向日葵みたいだ。
 綺麗だ、という言葉を飲み込んで、涼真は自分が持ってきた花火を七海に渡した。
「私も同じような花火を持ってきたよ。あと、これも」
 じゃーん、と七海が涼真の前に出したのはガラスの瓶ラムネだった。
「わぁ、ラムネだ。もらっていいの?」
「もちろん」
 ありがとう、と一本受け取ると、瓶ラムネはまだ冷たかった。
「そういえば、瓶ラムネなんて最近全然飲んでないや」
「花火に瓶ラムネ。夏って感じでしょ?」
 七海は上手に瓶ラムネを開けて、一口飲んだ。涼真も開けようとしたが、じゅわっと炭酸があふれ出す。
「わぁ、もったいない……!」
 ラムネで濡れた手ですぐに瓶に口をつける。
 甘い。美味しい。
 ごくごくと瓶ラムネを飲むと、中のビー玉がカランと涼し気な音を立てた。
「小さい頃、瓶の中のビー玉を取り出したかったけど、なかなか蓋が開かなくて、結局諦めてた」
 幼い頃を思い出しながら、涼真は懐かしい気持ちに浸る。
 七海はふふ、と笑って涼真を見た。
「……なに?」
「私も」
 七海の微笑む顔を見て。涼真は思った。
 僕はこの夏を、この先ずっと忘れないだろう。村山さんの歌う横顔も、泣き顔も、笑顔も。川の流れる音も、瓶ラムネのビー玉の音も。こんなにも近くで誰かを感じたのは、初めてだった。家族でさえ話すことをためらうのに、なぜか村山さんにはどんなことも話せる。いや、話せるのではなく、聞いてほしいんだ。
「僕……、中学の頃にいじめられたことがあって」
 七海は、ぽつりぽつりと話し始めた涼真になにも言わず、ただ黙って聞いていた。
「それ以来、誰かと話すことが怖くなって。高校に行ってもこんな感じだから、友達と呼べる人はひとりもいなくて。学校なんて、行かなくてもいいかなって」
「だからいつも、ここにいたんだね」
「夏休みに入るまで休めるように、診断書ももらったんだ」
「……病気、なの?」
「まあね。でも、大丈夫。大した病気じゃないよ」
 涼真は心配そうな七海に、詳しい病名は言わなかった。橋本先生のいうことが本当ならば、もうあと少しでこの病気の症状は消えてなくなる。それに、あまり七海を心配させたくなかった。
「じゃあ、約束して。この夏休みが終わったら、学校で会うって」
「学校で?」
「だって、私たち同じ学校に通ってるんだよ? 学校で会わなきゃ変でしょ」
 七海はすっと右手の小指を突き出す。
「ほら、町田くんも右手の小指出して」
 七海は涼真の手を引っ張る。
 涼真は慌てて瓶ラムネを左手に持ち替え、右手の小指を七海に向ける。
 七海の細くて白い小指が、涼真の小指をぎゅっと掴んだ。
 不思議な感覚だった。小指だけが触れ合っているのに、抱きしめられたみたいな包容力を感じた。
「約束、したからね?」
 七海は何度もしつこく言った。
「わかった。約束」
「学校で会ったら、連絡先教えてね」
「いいよ」
 握手でもするみたいに、ふたりは小指を上下に揺らしながら約束をした。
「あと、絶対小説完成させてね。それで、読ませてよね」
「うん、わかった」
 涼真は何度も頷いた。
「よし! じゃあ、花火やろ」
 七海は花火の封を開けて、適当にとって涼真に渡す。
 花火は赤青黄色緑ピンクと、色鮮やかに変化していった。勢いよく弾ける花火もあれば、花のように綺麗な花火もあった。