涼真は次の日も、また次の日も河川敷にやって来た。七海は相変わらず忙しい日々の中の、ほんの少しの時間しか河川敷には居られない。それでも、いつ七海が河川敷へ行っても涼真はいた。
 しかし、涼真と会うようになってから六花の姿は見えなくなった。きょうで四日目だ。
「ねぇ、いつもここにいるけど、まさか河川敷に住んでるわけじゃないよね?」
「まさか」
 涼真は七海を見て笑う。
 あ、今初めてちゃんと目が合った。
 七海は少し嬉しくなる。
 涼真は口数が少なく、時折ぼんやりとなにかを眺めていた。空想に耽っているのだろうか。でも、それがかえって七海には居心地よかった。学校でも家でもみんなが口煩い。クラスの友達は部活やら勉強やら恋やらの話題でぺちゃくちゃ煩いし、家に帰れば両親はこの先の将来について煩い。
 この場所だけが、これまでも七海にとって大切な世界だった。そんな場所を共有していた六花が亡くなって一年、涼真のおかげでこの数日、またこの場所を好きになれた気がしていた。
 穏やかな川の流れる音と、夏の匂いを運ぶ涼やかな風。七海の中の涼真は、そんなイメージだった。
 七海はスカートを手で押さえながら涼真の隣に座った。
 視線を感じて、隣で座る涼真を見る。七海とまた目が合い「あの、」と声をかけてきた。
「なに?」
「村山さんが前に歌ってた歌、なんて曲?」
「なんで?」
「いや……いい曲だなと思ったから」
 数日経っても、涼真に歌を聞かれたことだけはまだ恥ずかしくて思い出したくない。
 あの日歌っていた曲は、七海と六花のお気に入りの一曲だった。
「知らない? 結構有名なんだけど」
「最近流行ってる曲は一曲しか知らないや」
「一曲だけ? どんな曲?」
 涼真はうーんと小さく唸って、ぎこちなく口に出す。

 ――この花火が消えたら、この恋も終わる。

「なにそれ、本当に流行ってるの?」
「流行ってるよ。この間もラジオで聴いたし、そこらじゅうでかかってる」
「知らないなあ」
 七海は不安定な涼真の歌声に笑った。
「音程合ってる?」
「いや、僕音痴だから」
「だよね」
 七海の言葉に、涼真は「失礼だな」と言葉とは裏腹に顔を赤くする。
「あの曲は、私たちにとってすごく大切なものなの」
「……私たち?」
「そう、私たち」
 クラスの友達には誰にも話していなかった。親友を亡くしたと言えば、きっと、誰に話しても優しく励ましてくれただろう。でも、七海はまだ誰かに話す覚悟ができていなかった。誰かに話したら、現実になってしまいそうで怖かった。もういないとわかっているけれど、私の勘違いじゃないか、夢なんじゃないか、といまだに疑いたくなる気持ちもあった。
「町田くんは、どうして小説を書いてるの?」
「……え?」
「小説家、目指してるの?」
 涼真は一瞬俯いたが、すぐに七海を見て頷いた。うん、と頷いただけではあるが、七海には重みのある頷きに見えた。本気なんだな、と伝わるような重みだ。そしてまっすぐに七海を見る視線の強さ。瞳の中に吸い込まれそうなほど、綺麗だった。
「町田くんの目って、茶色なんだね」
 え、と涼真は慌てて視線を逸らした。
「私、歌手になりたい……」
 胸がドキドキしていた。思わず七海は右手で胸の辺りを抑える。抑えなくても心臓が耳元にあるくらい、大きな音で聞こえた。
「……初めて、言えた」
 ふぅ、と息を吐き出して、七海は花が咲いたような笑顔を見せる。胸のつかえが取れたみたいに、清々しい笑顔だ。
「僕も、初めて誰かに話したよ」
「そうなの?」
 えへへ、と涼真はぎこちない笑顔を七海に向け、頭を掻く。
「ちょうど、去年の夏に親友を亡くしたの。小さい頃から仲が良くて、なんでも話せる子だった。ふたりで歌手を目指してた」
「……病気?」
「うん」
 涼真は「そうか」と短く答えると、それからなにも言わずに黙った。
「歌手になりたいって、思ってても口には出せなくて。歌手になれる人なんて、ほんの一握りだし」
 七海は近くに転がっていた小石を拾い、川に向かって投げた。ちゃぽん、と音が響く。
「小説家も、同じだと思う。僕なんかがなれるわけないって、どこかで思ってて。だから口には出せなかった」

 ――変わりたいと願ってしまった。
 ――変われないならいっそ、
 ――今ここですべて終わりにしたい。
 ――今、終わりにしよう。

 七海が口ずさむ歌に、涼真は「それそれ」と目を輝かせた。
「羽化って曲」
「すごい曲名」
 ふたりは改めて視線を合わせて、恥ずかしそうに微笑み合った。
「さっき、町田くんが歌ってくれた歌、もう一回歌ってくれる?」
「僕なんかの下手な歌をご所望なら」
 涼真はよいしょ、と立ち上がり七海の前で歌った。

 ――この花火が消えたら、この恋も終わる。

「やっぱり、音痴だね」
「だから、そうだって言ったじゃん」
 ふたりの笑い声が橋の下で大きく響く。
 風が吹いても、涼しくはない。ふたりはじんわり汗をかきながら、川の流れを見つめた。
「歌ってくれて、ありがとう」
 穏やかな流れを見つめながら、涼真はひとりごとのようにつぶやく。
 七海はそんな涼真の横顔を見上げて「どういたしまして」と答えた。
「あしたの夜、ここで花火しない?」
「……花火?」
「うん、夏といえば花火でしょ」
「花火なんて、小さい頃にやって以来かも」
 じゃあ決まり! と七海も立ち上がる。
「あしたの夜、八時に集合ね」
 うん、と涼真は頷く。
「またあしたね」
「またあした」
 手を振るふたり。
 七海はあしたまた、涼真に会えることに喜びを感じていた。