翌日、また同じように河川敷の橋の下へ行く。
 だらだらと流れる汗をタオルで拭いながら、ゆらゆら揺れる陽炎を見つめながら、河川敷をひとり歩いた。
 思わず空を見る。大きな入道雲があった。
 子どもの頃は、よく空を飛ぶ夢を見た。小学生の頃に流行っていたファンタジー小説の影響かもしれないが、気持ちよく空を飛んで、地上を見下ろして、自由にどこまでも行けた。
 でも今は、こんな暑い日に空なんて飛んだら、暑くて辛いだろうなあと思ってしまう。
 夢見る少女はもうどこにもいないと、自分で思い知る瞬間は最近たくさんあった。六花が死んだことも、そのひとつだ。
「あれ……」
 いつもの橋の下に、誰かがいる。
 七海は通りすがるふりをして、ちらりと覗き見た。
 七海と同じ制服を着た少年が、橋の下の段差に座り、ノートをパラパラとめくっていた。飲みかけのペットボトルに、手提げ鞄が置いてある。すぐ脇には自転車が止まっていた。
 七海はそっと、息を凝らし、猫のように静かに橋の下に降りた。少年は七海には気づいていないようだった。
 きのう、私の歌を聴いていた人だ。
 七海はどうしよう、と息を呑む。
 ただの通行人ではなく、同じ学校の生徒に、しかも橋の下で泣きながら歌っているところを見られてしまうなんて。なんて偶然。最悪だ。
 七海は背後から少年のノートを盗み見る。
 授業のノートではなさそうだった。なにかの物語だろうか。手書きで、お世辞にも綺麗な字とは言えない。読みにくい字だった。
「……小説?」
「っな?!」
 思わず声を出した七海に、少年は飛び上がって振り返る。
「な、なんですかっ!」
「なんですかって……。別になんでもないけど」
 少年は耳まで真っ赤にして、俯く。
「きのう、私の歌を盗み聴きしたでしょ」
「盗み聴き? ……こんなところで歌ってたら普通、誰にでも聞こえるよ」
 少年は俯きながらぼそぼそと答えた。
「悪かったわね」
 少年は七海と同じ高校の生徒であるらしい。
 しかし、見かけない顔だ。
 そこまで生徒数も多くないが、薄っすらとも記憶にないのは彼の印象が薄そうだからだろうか。
 七海はそんなことを考えながら、少年をまじまじと見た。
「同じ学校でしょ? 私、二年の村山七海」
「僕も……」
「僕も?」
「……二年の町田涼真です」
 消え入りそうな声で彼――涼真は答えた。
「同じ二年なの? 何組?」
「三組です」
「私は一組」
 七海が答えても、涼真はなにも言わずただぼうっと突っ立っているだけだった。
「それで、小説書いてるの?」
「え?」
「今時手書きで小説書くなんて、大変じゃない? スマホでもパソコンでも簡単に書けるのに」
 汚い字ではあったが、びっしりと書かれた文字からは涼真の熱を感じた。
「……思いついたときのメモとか、ワンシーンとか、セリフとかテーマとかを書いてて」
「へぇ、すごいね」
 涼真は一瞬七海を見た。でもやっぱりすぐに視線を逸らす。
「じゃあ、登場人物に私の名前、つけてよ」
「……え?」
 今まで涼真がしゃべったどの言葉よりもはっきりと、大きな「え?」だった。目を大きく見開かせて、ぱちんと一度瞬きをして固まる。
「登場人物の誰かに、私の名前つけてよ」
「え……どうして?」
「物語の登場人物になんて、なかなかなれないでしょ。もしかしたらその小説が大きな賞とか獲って、本になって、たくさんの人に読まれるかもしれないし」
 映画化とかアニメ化とかされるかも、と七海が言うと、涼真は急に吹き出して笑った。
「な、なんで笑うの?」
「だって……映画化とかアニメ化なんてさ……」
 ノートを握りしめたまま、腹を抱えて笑っている。
「そんなに笑うほどおかしい?」
「どこにも出さないよ。誰にも読ませないし」
「え? そうなの? なんで?」
 七海は大きく首を傾げた。
「これまで何作か書いたけど、どこにも出してないよ」
「もったいない。小説なんて、そんな簡単に書けるわけじゃないでしょ?」
 まあね、と涼真は指先で目元を拭う。笑い過ぎて涙が出たらしい。
「じゃあさ、その小説、完成したら私に読ませてよ」
 涼真は声もなく七海を見た。
「誰にも読ませないなんて、物語が可愛そうだよ。私が読者になる」
 なんで私はこんなにも真剣に、読ませてほしいと懇願しているんだろう。全然知らない同級生の、それも面白いかどうかもさっぱりわからない小説なんかを。
 七海はなぜだか涼真の小説が読みたくなっていた。なんとなく、涼真から自分と同じ孤独を感じたような気がした。ひとり、橋の下で、手書きでしたためたノートを読んでいる涼真の背中に。
「じゃ、じゃあ、また歌ってくれる?」
「……無理!」
 七海は大きく首を振って断った。
「なんで……?」
 涼真は七海に殴られたくらいの衝撃を受けたのか、後ろによろめく。
「歌は、ダメ」
 七海はきのうのショックがまだ残っていた。
 素っ裸で鼻歌を歌っているところを見られたようなものだった。涼真の小説を読ませてもらってから、歌ってもいいか考えよう。
 そう、心に決めた。
 ふたりの間を生ぬるい風が通り抜ける。七海のスカートがひらりと揺れ、涼真の髪が少し乱れた。

 ――いいじゃん、歌ってあげれば?

「え?」
 耳元で六花の声が聞こえた。しかし姿はない。
「……なに?」
「あ、いや……。ごめん、なんでもない」
 その日、六花の姿は見えなかった。こんなこと、六花が亡くなって初めてだった。