たとえば、もうここにはいないはずの人が見えるとすればそれは、幽霊の正体見たり枯れ尾花だと大抵の人は言う。つまり、人は不安や恐怖心から幽霊や妖怪なんていうものを見た気になってしまうというもの。
 でも、見える。私には、死んだはずの人が見えている。
 村山七海は、両親に今自分自身に起きているこの現状を伝えられずにいた。父は高校で数学、母は中学で英語の教師をしている。
 死んだはずの人が見える。そんな話を、堅物真面目な両親が真剣に聞いてくれるはずがない。
 そう思っていた。
「あたしが死んで、もう、一年が経っちゃったね」
 亜麻色の髪。白く透き通る肌。白いカッターシャツに青いリボン。紺色のスカートが揺れる。
 細くて小柄で、でも歌声はどこまでも遠くへ届きそうなほど、力強かった。笑うと左頬にえくぼができた。七海は、そんな夏目六花が大好きだった。
 七月の昼下がり。河川敷の橋の下。
 日陰になっているものの、ここにいるだけでだらだらと汗が滴り落ちてくるほど暑い。しかし、七海の目の前にいる六花は、涼し気な表情で汗ひとつ掻いていなかった。
「六花はずっと、私のそばにいてくれたね」
 昨年のちょうど、きょう。蒸し暑い夏の夜だった。六花の母から日付が変わる前に電話があり、亡くなったと知らせを受けた。
 六花は七海の親友だった。幼い頃からずっと仲良しで、よくお互いの家に泊まった。七海は六花になら、なんでも話せた。両親には言えないことも、六花には包み隠さず言えた。両親には決して言えない秘密。それは、将来歌手を目指したいという夢だった。
 教育熱心な両親のおかげで、七海の成績は常にクラスのトップ。両親の期待を一身に背負い、その重圧で心も身体も押し潰れてしまいそうだった。
 しかし偶然にも、六花も七海と同じ歌手を夢見ていた。
 いつか、ふたりで歌手になる。
 七海の心の支えは歌と六花だけだった。学校に生徒会に塾。どんなに忙しい毎日でも、七海は六花がいれば乗り越えられる気がしていた。
 
 ――それなのに。
 
「ほんとに、死んじゃったの……?」
 手繰り寄せれば、抱きしめることなんて簡単な距離に六花はいる。でも、触れられないとわかっていた。六花はいない。生きているように見えても、六花は死んだ。七海は六花を残して、この夏、十七歳になる。
「歌ってくれる? いつもみたいに」
 六花はお願い、と両手を合わせて神様にお願い事でもするみたいに頼んできた。

 ――変わりたいと願ってしまった。
 ――変われないならいっそ、
 ――今ここですべて終わりにしたい。

 どんなことでも六花には話せた七海は、六花も自分に対して同じだと思っていた。だから、まさか六花に残された時間がもう僅かだなんて、一ミリも想像していなかったし、亡くなった今でも、理解できなかった。
 六花は、自分の病について七海に話してくれなかった。確かに幼い頃から病気がちで、学校を休むことはよくあったし、入院したこともあった。でもいつも笑って「大したことないよ」と言っていた。
 六花が七海に病気のことを話さなかったのは、なにか理由があったからだろう。
 もしかしたら、病気を認めたくなくて七海には言えなかったのかもしれない。もしかしたら、心配させたくなかったからかもしれない。いくつもの“もしかしたら”を想像しながら、七海は思う。
 もしかしたら死ぬかもしれないよって、もしかしたらあした会えなくなるかもよって、教えてほしかったな、と。
 当たり前の毎日など存在しない。あしたが必ず来るとは誰にも言えない。どんなに健康で丈夫な人だからと言って、あした死なないとは誰にも断言できない。
 そうわかっていても、ただ、悲しくて悔しくて、寂しかった。
 七海の瞳から一筋の涙が流れる。

 ――今、終わりにしよう。

「綺麗だ……」
 背後から声がした。
 七海は涙を手の甲で拭いながら、声の方を振り返る。青いシャツに黒いパンツ、白いスニーカー。顔を真っ赤にした黒髪の少年は、自転車に跨ったまま七海をぼんやり見つめていた。
 七海の心臓がドクンと跳ねる。
 カラオケで歌を聞かれるのとは訳が違う。今のは、入浴中鼻歌を歌っているところを見られたくらいの衝撃だった。しかも、泣きながら歌っているところを見られるなんて。
 恥ずかしくて、七海はすぐ少年に背を向ける。七海の顔も赤い。頭から湯気が出そうなほど、火照っていた。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……!
 七海は浅い呼吸を整えながら、少年がこのまま去ってくれることを願った。
 一分、いや二分くらい経っただろうか。七海は隣にいる死んだ親友よりも、背後にいた見知らぬ少年の方が遥かに恐ろしいらしい。ゆっくり、ぎこちなく振り返る。
 しかしそこにはもう、あの少年はいなかった。
「綺麗だって、言われちゃったね?」
 六花は嬉しそうに微笑んで、七海の隣にぴたりと寄り添った。でも六花の肌の感触や寄りかかる重みもなにも感じなかった。
「七海は夢を追いかけなくちゃ。せっかく、いい声してるんだから」
 両親にも夢の話ができないのに、目指せるはずがない。
 七海はそう思いつつも、六花に返事はしなかった。
 六花はいない。ここにいるのは、私たったひとりだけなんだ。
 静かに流れる川を見つめる。この世界でひとりぼっちになったような孤独を抱えて、七海は小さなため息をこぼした。
 もうそろそろ夏休みが始まる。
 この夏休み、七海は忙しい。家族で旅行に出かける予定はない。お盆に祖父母の家へ行く予定はある。その他は、夏期講習で忙しくなる予定だった。来年は受験だ。
 夏休み前、学校は午前で終わり、帰宅して母が作ってくれたお弁当を食べ、勉強をし、塾へ行き、また帰って勉強をする。夏休みに入っても同じ。特に変わらない毎日が続いていく。七海にはこの夏休みがどんな風に過ぎていくのか、手に取るようにわかっていた。
 また大きなため息が出る。
「あした、またここで会おう」
 ね? と六花は笑う。
 六花が亡くなってこの一年、毎日会う約束をしてきた。七海は、本来ならもうこの世にいない六花との約束を守り、毎日必ずこの河川敷へ来ていた。ここは、七海と六花が幼い頃からよく来ていた場所でもある。ふたりは別々の高校に進学したが、いつもこの河川敷で待ち合わせて学校のことや新しくできた友達のことを話した。だから、六花がここで会おうと言うのは理解できた。
「また、あしたね」
 毎日のように言う「また、あしたね」が虚しい。あした、本当に生きている六花と待ち合わせできたらどんなにいいだろう。
 七海の願いはもう、どんなに願っても叶わない。