涼真の母は午後から仕事へ出かけ、ひとり家に残された涼真は日向ぼっこをしている祖母とナツをぼんやり眺めていた。
 夏の日差しは刺すように痛い。しかし祖母もナツも、幸せそうに、気持ちよさそうに全身に日を浴びていた。
 暑くはないんだろうか。それとも、ふたりは死んでいるから暑さなんて感じないんだろうか。
「……ねぇ、ばあちゃん」
 涼真は祖母に話しかけた。
「なんだい?」
 目を細めたまま、祖母は涼真の方を見る。
 あ、ちゃんと話せるんだ。
 涼真は死んだ祖母が戻ってきてくれた気がして、なんだか嬉しくなった。思わず涼真も笑顔になる。
「暑くない?」
「暑くないよ。お日様がとっても気持ちいいんだ。ナツも同じだねぇ」
 祖母がナツを撫でると、ナツはいつものようにゴロゴロと大きな声で鳴いた。
「涼真は、今も小説を書いているのかい?」
 涼真は祖母の隣で寝転がり、天井を見上げた。
「……うん、まあね」
「今書いてる小説は、いつ完成する?」
「まだ書き始めたばっかりだから、まだまだ先だよ」
 そうかぁ、と祖母は頷く。
「いつか、おばあちゃんに読ませてくれる?」
「ばあちゃんに? 小説を?」
 これは、現実じゃない。本当なら、目の前には祖母もナツもいないんだ。
 それでも、涼真には現実に見えた。触れられそうな気がするほどリアルなのに、祖母にもナツにも触れることはできない。
「いつか、ね」
 そのいつかは永遠に来ないとわかっていたから、涼真は簡単に答えた。祖母はこれまでも、これからも涼真の小説を読むことはない。
「図書館に行ってくる」
 涼真は重たい身体を起こし、鞄を手に持った。
「行ってらっしゃい。暑いから、気を付けてね」
「うん、行ってきます」
 涼真は普通に返事をして、靴を履き、玄関にある鏡で自分の姿を見てから外に出た。
 さえない表情。ダサい恰好。
 自分で自分を貶した。
 夏の外は地獄だった。太陽の日差しは涼真の肌を焦がすほど強く照り付け、家の外に出ただけでじんわり汗が出る。
 自転車に跨り、そのまましばらく漕ぐ。漕いでいるときは生ぬるい風が吹いていて、まだ多少はいいけれど、信号に捕まって立ち止まる度、汗が噴き出て来た。額から流れる大粒の汗を腕で拭う。
 道端にある自動販売機で一本水を買った。暑すぎてすぐに喉が渇く。水分は全部汗になってしまいそうだった。
 暑い。息苦しい。
 信号待ちをしている黒い車の車体に、自分の姿が眩しく映る。
 唐突に、不安になった。
 僕は一体、なにをしているんだろう。
 浅い息をしながら、汗だくで迷子になっている自分をただ見つめる。
 さえない顔。一生、こんな顔をして生きていくのか。
 涼真をいじめた人は、同じ学校にはいない。わかっているけれど、誰かと深い関係になることがとてつもなく怖かった。ひとりは虚しい。けれど、楽だった。誰かの何気ない一言に悩んだり、悲しんだり、苦しんだりする必要がない。
 でも同時に、変わりたいと願っていた。いや、誰かこんな自分を変えてくれないか、と願っていた。そんな都合のいい人、現れるはずがない。そんなこともよくわかっていた。
 ずっと続く河川敷のアスファルトの上で、陽炎が踊る。吹く風は熱風で、自転車で走る涼真にねっとりと絡みつく。
 ふと、風に乗って歌声が聞こえた。
 湧水のように透明で、繊細な少女の声。まるで細かいガラス細工のようだ。
 涼真は自転車を止め、辺りを見渡した。この暑さのせいか、人は誰もいない。少し向こうで電車が走る音が聞こえた。

 ――変わりたいと願ってしまった。
 ――変われないならいっそ、
 ――今ここですべて終わりにしたい。

 涼真は河川敷の橋の下へ視線を移した。
 白い半袖のカッターシャツ。千鳥柄のスカートが風に揺れる。橋の下の川のほとりで、制服姿の少女が歌っていた。

 ――今、終わりにしよう。

 彼女の息遣いに合わせて、滑らかな黒髪が靡く。
「綺麗だ……」
 涼真は思わず声に出してしまった。
 その瞬間、少女は涼真の方を振り返る。彼女の頬は、涙で濡れていた。