担当医の橋本先生は、涼真がひとつずつ話すことに大きく反応せず、黙って聞いていた。時折、前下がりボブの黒髪を耳にかけ、無言で軽く頷いていた。涼真が話し終わると「そうですか」と一言つぶやくように言って、涼真をじぃっと見る。
「どんな猫ちゃんだったの?」
「……え?」
橋本先生の一言に、涼真は動揺した。でも橋本先生はいたって真面目に聞いているようだったので、ズボンのポケットからスマホを出して、日向ぼっこしているナツの写真を見せる。
「可愛いねぇ。真っ白な猫ちゃんだねぇ」
橋本先生は目を細めて、小さな子どもに話しかけるみたいに言った。
「うちにも猫が二匹いるんですよ。兄弟で拾って、引き離すのはかわいそうで、二匹とも引き取りました」
「そう……なんですか」
涼真は全くわけがわからず、曖昧に返事をする。
スマホの中のナツは、今朝見た姿と何ら変わらなかった。本当に死んだのか? と疑問に思うほど、はっきりくっきり涼真には見えていた。祖母は今朝「鰻が食べたいねぇ」なんてのんきなことを言っていた。祖母の姿も、涼真が覚えている生前の祖母のままだった。
「揶揄ってるんですか? 涼真には、そう見えてるんです!」
涼真の母は、自分には見えないものの涼真が見えると言ったことを素直に信じているのか、嬉しそうに猫自慢を始めた橋本先生に大声をあげる。
「ええ、大丈夫です、わかってますよ」
橋本先生はすぐに真顔になり、答えた。
「大切にしていた飼い猫が亡くなったことで、心に深い傷を負ったのかもしれません。そういう方は多いです」
「だとしても、死んだ猫や死んだ祖母が見えるなんて、一体どういうことなんですか?」
ヒステリック気味な母をよそに、橋本先生は涼真のカルテをパソコン上で確認しながら、穏やかに涼真に向かって訊ねる。
「涼真さんは、今十六歳ですね? 今年、十七歳?」
「え? はい、そうですけど?」
涼真はそれがなんだろうと首を傾げた。
「おそらく、涼真さんは白昼夢症候群を発症しているのだと思います」
「……白昼夢症候群?」
涼真と母はふたり顔を見合わせて、同時に首を傾げる。
白昼夢症候群なんて、聞いたことのない病名だった。
「心的ストレスによって、見えるはずのないものが見える、ようは、空想ですね。白昼に夢を見ているようなものです」
「そんな病気、聞いたことがないんですけど?」
「意外と多いんですよ、白昼夢症候群。不思議なことに、十六歳の少年少女にしか発症しない、特殊な症状なんです。えっと……涼真さんのお誕生日は八月三十一日。あと、一ヶ月半くらいですね」
橋本先生はカレンダーを見つめながら頷く。
「それが一体、どういう関係があるんですか?」
涼真の母は大きなため息をつきながら訊ねる。
「十七歳になったら、この症状は消えると思いますよ。私が診てきた方はみんな、十七歳の誕生日を迎えた途端に白昼夢を見なくなりましたから」
涼真はずっと首を捻ったまま、スマホで白昼夢症候群と検索をかけた。確かに、その病は存在しているらしい。でも、涼真には俄かに信じがたい。
「この病気はね、完治した人がそのときのことを、夢でも見ていたような気がするって答えたことから、白昼夢症候群と名付けられたんですよ」
橋本先生はそう言ってにこっと笑う。口元はマスクで隠れて見えないが、目が細くなると涼真は招き猫を思い出した。
「夢って、起きたばっかりのときは覚えていても、だんだんと記憶から薄くなったりするでしょ? やけにリアルな夢も、説明できない内容だったり、なんだか辻褄が合わなかったり。涼真さんも、今起こっていることをいつか大人になったとき、ほとんど忘れてしまうかもしれない。夢でも見ていたのかなってね」
なんて無責任な、と涼真は心の中でつぶやく。
確かに、死んだ一匹と一人はなにか危害を加えて来るわけではない。ただそこにいて、幸せそうにしているだけだ。涼真は一度、ナツに触れようとしたけれど、触れることはできなかった。空気を掴んだだけだった。
「白昼夢症候群は、心の中にある不安や恐怖、願望が具体的に目の前に現れる傾向があります。夢と同じで、現実ではありえないことが起こっているように思えてしまう。学校は、少しお休みした方がいいかもしれませんね。現実なのか白昼夢なのか、区別がつかないほど混乱することがありますので。どちらにしても、もうそろそろ夏休みでしょ?」
「あ、はい。そうです」
涼真はすかさず返事する。
「ちょうど、期末も終わったところで」
「それならなおさらちょうどいいですね。診断書、書きますから」
学校を休めるのは都合がいい。
もし、他人には見えていないものが学校で見えてしまったら。ここ数日、ずっとドキドキしながら学校に通っていた。僕は他人から見たら、おかしな行動を取るかもしれない。今でも十分孤立しているのに、余計誰も寄り付かなくなってしまう。
涼真は少しほっとした。
「どんな猫ちゃんだったの?」
「……え?」
橋本先生の一言に、涼真は動揺した。でも橋本先生はいたって真面目に聞いているようだったので、ズボンのポケットからスマホを出して、日向ぼっこしているナツの写真を見せる。
「可愛いねぇ。真っ白な猫ちゃんだねぇ」
橋本先生は目を細めて、小さな子どもに話しかけるみたいに言った。
「うちにも猫が二匹いるんですよ。兄弟で拾って、引き離すのはかわいそうで、二匹とも引き取りました」
「そう……なんですか」
涼真は全くわけがわからず、曖昧に返事をする。
スマホの中のナツは、今朝見た姿と何ら変わらなかった。本当に死んだのか? と疑問に思うほど、はっきりくっきり涼真には見えていた。祖母は今朝「鰻が食べたいねぇ」なんてのんきなことを言っていた。祖母の姿も、涼真が覚えている生前の祖母のままだった。
「揶揄ってるんですか? 涼真には、そう見えてるんです!」
涼真の母は、自分には見えないものの涼真が見えると言ったことを素直に信じているのか、嬉しそうに猫自慢を始めた橋本先生に大声をあげる。
「ええ、大丈夫です、わかってますよ」
橋本先生はすぐに真顔になり、答えた。
「大切にしていた飼い猫が亡くなったことで、心に深い傷を負ったのかもしれません。そういう方は多いです」
「だとしても、死んだ猫や死んだ祖母が見えるなんて、一体どういうことなんですか?」
ヒステリック気味な母をよそに、橋本先生は涼真のカルテをパソコン上で確認しながら、穏やかに涼真に向かって訊ねる。
「涼真さんは、今十六歳ですね? 今年、十七歳?」
「え? はい、そうですけど?」
涼真はそれがなんだろうと首を傾げた。
「おそらく、涼真さんは白昼夢症候群を発症しているのだと思います」
「……白昼夢症候群?」
涼真と母はふたり顔を見合わせて、同時に首を傾げる。
白昼夢症候群なんて、聞いたことのない病名だった。
「心的ストレスによって、見えるはずのないものが見える、ようは、空想ですね。白昼に夢を見ているようなものです」
「そんな病気、聞いたことがないんですけど?」
「意外と多いんですよ、白昼夢症候群。不思議なことに、十六歳の少年少女にしか発症しない、特殊な症状なんです。えっと……涼真さんのお誕生日は八月三十一日。あと、一ヶ月半くらいですね」
橋本先生はカレンダーを見つめながら頷く。
「それが一体、どういう関係があるんですか?」
涼真の母は大きなため息をつきながら訊ねる。
「十七歳になったら、この症状は消えると思いますよ。私が診てきた方はみんな、十七歳の誕生日を迎えた途端に白昼夢を見なくなりましたから」
涼真はずっと首を捻ったまま、スマホで白昼夢症候群と検索をかけた。確かに、その病は存在しているらしい。でも、涼真には俄かに信じがたい。
「この病気はね、完治した人がそのときのことを、夢でも見ていたような気がするって答えたことから、白昼夢症候群と名付けられたんですよ」
橋本先生はそう言ってにこっと笑う。口元はマスクで隠れて見えないが、目が細くなると涼真は招き猫を思い出した。
「夢って、起きたばっかりのときは覚えていても、だんだんと記憶から薄くなったりするでしょ? やけにリアルな夢も、説明できない内容だったり、なんだか辻褄が合わなかったり。涼真さんも、今起こっていることをいつか大人になったとき、ほとんど忘れてしまうかもしれない。夢でも見ていたのかなってね」
なんて無責任な、と涼真は心の中でつぶやく。
確かに、死んだ一匹と一人はなにか危害を加えて来るわけではない。ただそこにいて、幸せそうにしているだけだ。涼真は一度、ナツに触れようとしたけれど、触れることはできなかった。空気を掴んだだけだった。
「白昼夢症候群は、心の中にある不安や恐怖、願望が具体的に目の前に現れる傾向があります。夢と同じで、現実ではありえないことが起こっているように思えてしまう。学校は、少しお休みした方がいいかもしれませんね。現実なのか白昼夢なのか、区別がつかないほど混乱することがありますので。どちらにしても、もうそろそろ夏休みでしょ?」
「あ、はい。そうです」
涼真はすかさず返事する。
「ちょうど、期末も終わったところで」
「それならなおさらちょうどいいですね。診断書、書きますから」
学校を休めるのは都合がいい。
もし、他人には見えていないものが学校で見えてしまったら。ここ数日、ずっとドキドキしながら学校に通っていた。僕は他人から見たら、おかしな行動を取るかもしれない。今でも十分孤立しているのに、余計誰も寄り付かなくなってしまう。
涼真は少しほっとした。