翌日になって、亮介から連絡が入っていたことに気づく。
亮介はテニス部に所属しているらしく、後輩や先輩に“村山七海”という女子生徒について聞いて回ったらしい。
しかし、誰に聞いてもそんな生徒は知らない、という回答だったという。
送られてきた文章からは、そんなことがわかった。
やはり、村山七海は存在しない。僕が見たリアルな白昼夢だったんだ。
変わりたいと願ってしまった。だから、僕はあんな白昼夢を見たのかもしれない。今の自分から変わりたいと願ったから、誰か、変えてくれないだろうかと願ったから、村山七海という幻が現れたんだ。
そう頭ではわかっていても、涼真はまた河川敷の橋の下へ向かった。
そこ以外、行く場所がない。じっとしていられなかった。
もしかしたら、白昼夢でも構わない、また村山さんと会えるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていた。
川のせせらぎを聴きながら、ただぼんやりとしていた。いつもならここで本を読んだり、小説のアイディアを練ったりしていたけれど、どれもやる気が起きない。
きょうから夏休みが始まった。長く、孤独な夏休みだ。
「あ、やっぱここにいた」
声がして、後ろを振り返る。亮介だった。
「こんな暑いのに、外にいて大丈夫なのか? 熱中症になるぞ」
亮介はスポーツ飲料を二本手に持っていた。
「ほら、」
暑く火照った顔に、冷たいペットボトルを押し付けられる。
突然の冷たさに涼真の身体がビクついた。
「で、でも……」
きのう保健室へ連れて行ってくれたお礼も、もらったお茶のお礼も、村山さんを探してくれたお礼も、まだなにもしていない。それなのに、どうして彼は僕なんかを気にかけてくれるのだろうか。
涼真にはわからなかった。
「どうして、僕なんかのために……」
「同じクラスで、席も前後ろなんだから、当たり前だろ。それに、お前の焦り方が尋常じゃなかったしな」
「でも、それだけなのに。話したこともないし」
「クラスの誰とも大して話したことないだろ、お前」
亮介はそう言って、きのうのように大きく口を開いて歯を見せ笑う。
「お前のあだ名、なにか知ってるか?」
「僕の……あだ名?」
胸のあたりがひりついた。
涼真は胸をそっと押さえる。
知らないところで、クラスメイト達から揶揄われているのだろうか。
「スーパー優等生」
亮介はひとりで言ってひとりで爆笑した。手を叩いて、面白そうに楽しそうに笑っている。
涼真はそれを見てぽかんと立ち尽くした。
「お前、学校はたまに休むけど、成績は学年でも上から三本指に入るんだろ? すげぇよな。ココの出来が違うんだろうなぁ」
がはは、と自分の頭を突いて亮介は笑う。
「ちなみに、俺がつけたんだぞ、あだ名」
仁王立ちして、亮介はちょっと偉そうに言った。
涼真はしばらく亮介を眺めて、堪えきれずに笑い出した。
「なんだよ、そんな笑って」
「……いや、ごめん。ちょっと、嬉しくって……」
「気持ち悪いな」
いいからさっさと飲め、とまたペットボトルを押し付けられる。涼真は素直に受け取った。
「ありがとう。これも、きのうのことも、いろいろと」
「いいって、別に」
涼真と亮介は、橋の下で並んで座った。
「あっちぃな、ここ。日陰でも本当に危ないぞ、熱中症」
「うん……でも、」
「そんなにいい女だったか?」
亮介はごくごくと大きな音を立てて、あっという間にペットボトルの中身を飲み干した。額から玉のような汗が転がるように流れている。
「いい女って……」
「スーパー優等生がどんな子を好きになったのか、気になるじゃん」
「……え?」
「え? 好きだから探してんだろ?」
直球に投げかけられた言葉に、涼真はまた固まる。
好きだから? それは、人として? 同じ学年の友達として? それとも、恋というやつ?
涼真の頭の中で「好きだから」の意味がぐるぐると回った。
「好きじゃなかったら、なんであんなに必死に探してたんだ?」
「……本当に、存在するのかなって思って」
「どういう意味だ? 幻覚でも見たかと思うほど美人だったって意味か?」
亮介はすぐに訊き返してきた。
「夢かと思うくらい美人って意味なら、俺も見たいなぁ」
「実は僕……白昼夢症候群って病気に罹ってるんだ」
「はくちゅーむ症候群? なんだそれ」
やはり、聞き馴染みのない病名なのだろう。涼真も聞いたことのない病気だった。
橋本先生に病名を告げられたときのように、涼真はスマホで白昼夢症候群と検索をかけて画面を見せる。
亮介はスマホを手に取ってスクロールしながら「聞いたことなかったな、こんな病気」とつぶやいた。
「僕も、病院の先生に言われて初めて知ったんだ。ついこの間死んじゃった、飼い猫が見えるようになって、それから数年前に亡くなった祖母が見えたりして、最初は幽霊が見えるようになったのかと思った」
「なるほど、起きてるのに夢を見ているってことか。それで、その村山七海も夢だったんじゃないか、と?」
うん、と涼真は頷く。
「急に見えなくなることってあるのか? どうやってその病気を治すんだ?」
「わからないけど、主治医の先生は十七歳になると症状が治まって、夢でも見てたんじゃないかって思うようになるって言ってた」
「ふぅん、不思議なことって、本当にあるんだな」
亮介はバカにすることもなく、ただ深く頷いた。こんな嘘みたいな本当の話を、すんなり飲み込めてしまう山下くんはすごい、と涼真は感心する。同時に、思い切って話してよかったと心から思えた。ひとりでは、対処できなかった。
「猫とばあちゃんはまだ見えてるのか?」
「うん、それは見えるんだけど……」
そうかぁ、と亮介は考え込む。
「村山七海と、猫とばあちゃんとは違うところって、なにかないのか?」
「違うところ……あ、村山さんとは、触れることができたんだ」
涼真がそういうと、亮介はにまぁとだらしなく笑って、涼真の肩を突く。
「なに、やらしい話か?」
「ち、違うって!」
涼真はぶんぶん首を左右に振って否定した。
「猫と祖母には、触れられないんだ。空気を掴むみたいに触れない。でも、村山さんには……」
そこまで言って、涼真は自分の右手の小指を見た。
「よし、それなら、主治医の先生に直接聞きに行こうぜ。それが一番早いだろ」
「え? 今から?」
「今行かなくていつ行くんだよ。ほら、立てよ」
亮介はさっと立ち上がり、涼真の腕を引っ張った。力強く、日焼けした腕だ。涼真が抵抗しても敵わないだろう。
「で、でも僕……山下くんに助けてもらってばっかりで……」
「それじゃ、夏休みの宿題を手伝ってくれたらそれでチャラ。どうよ?」
「そんなことでいいの?」
「そんなこと? さすがスーパー優等生だな、お前」
そう言って笑う亮介に、涼真もつられて笑った。
「山下く」
「亮介。山下くんなんて、呼ばれるだけで鳥肌が立つ」
亮介はぶるっと身震いして見せる。
「りょ……亮介……」
照れながら亮介と呼んだ涼真は、前髪で顔を少し隠した。
「行くぞ、涼真」
涼真と呼ばれることにも、くすぐったさを感じた。
亮介はテニス部に所属しているらしく、後輩や先輩に“村山七海”という女子生徒について聞いて回ったらしい。
しかし、誰に聞いてもそんな生徒は知らない、という回答だったという。
送られてきた文章からは、そんなことがわかった。
やはり、村山七海は存在しない。僕が見たリアルな白昼夢だったんだ。
変わりたいと願ってしまった。だから、僕はあんな白昼夢を見たのかもしれない。今の自分から変わりたいと願ったから、誰か、変えてくれないだろうかと願ったから、村山七海という幻が現れたんだ。
そう頭ではわかっていても、涼真はまた河川敷の橋の下へ向かった。
そこ以外、行く場所がない。じっとしていられなかった。
もしかしたら、白昼夢でも構わない、また村山さんと会えるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていた。
川のせせらぎを聴きながら、ただぼんやりとしていた。いつもならここで本を読んだり、小説のアイディアを練ったりしていたけれど、どれもやる気が起きない。
きょうから夏休みが始まった。長く、孤独な夏休みだ。
「あ、やっぱここにいた」
声がして、後ろを振り返る。亮介だった。
「こんな暑いのに、外にいて大丈夫なのか? 熱中症になるぞ」
亮介はスポーツ飲料を二本手に持っていた。
「ほら、」
暑く火照った顔に、冷たいペットボトルを押し付けられる。
突然の冷たさに涼真の身体がビクついた。
「で、でも……」
きのう保健室へ連れて行ってくれたお礼も、もらったお茶のお礼も、村山さんを探してくれたお礼も、まだなにもしていない。それなのに、どうして彼は僕なんかを気にかけてくれるのだろうか。
涼真にはわからなかった。
「どうして、僕なんかのために……」
「同じクラスで、席も前後ろなんだから、当たり前だろ。それに、お前の焦り方が尋常じゃなかったしな」
「でも、それだけなのに。話したこともないし」
「クラスの誰とも大して話したことないだろ、お前」
亮介はそう言って、きのうのように大きく口を開いて歯を見せ笑う。
「お前のあだ名、なにか知ってるか?」
「僕の……あだ名?」
胸のあたりがひりついた。
涼真は胸をそっと押さえる。
知らないところで、クラスメイト達から揶揄われているのだろうか。
「スーパー優等生」
亮介はひとりで言ってひとりで爆笑した。手を叩いて、面白そうに楽しそうに笑っている。
涼真はそれを見てぽかんと立ち尽くした。
「お前、学校はたまに休むけど、成績は学年でも上から三本指に入るんだろ? すげぇよな。ココの出来が違うんだろうなぁ」
がはは、と自分の頭を突いて亮介は笑う。
「ちなみに、俺がつけたんだぞ、あだ名」
仁王立ちして、亮介はちょっと偉そうに言った。
涼真はしばらく亮介を眺めて、堪えきれずに笑い出した。
「なんだよ、そんな笑って」
「……いや、ごめん。ちょっと、嬉しくって……」
「気持ち悪いな」
いいからさっさと飲め、とまたペットボトルを押し付けられる。涼真は素直に受け取った。
「ありがとう。これも、きのうのことも、いろいろと」
「いいって、別に」
涼真と亮介は、橋の下で並んで座った。
「あっちぃな、ここ。日陰でも本当に危ないぞ、熱中症」
「うん……でも、」
「そんなにいい女だったか?」
亮介はごくごくと大きな音を立てて、あっという間にペットボトルの中身を飲み干した。額から玉のような汗が転がるように流れている。
「いい女って……」
「スーパー優等生がどんな子を好きになったのか、気になるじゃん」
「……え?」
「え? 好きだから探してんだろ?」
直球に投げかけられた言葉に、涼真はまた固まる。
好きだから? それは、人として? 同じ学年の友達として? それとも、恋というやつ?
涼真の頭の中で「好きだから」の意味がぐるぐると回った。
「好きじゃなかったら、なんであんなに必死に探してたんだ?」
「……本当に、存在するのかなって思って」
「どういう意味だ? 幻覚でも見たかと思うほど美人だったって意味か?」
亮介はすぐに訊き返してきた。
「夢かと思うくらい美人って意味なら、俺も見たいなぁ」
「実は僕……白昼夢症候群って病気に罹ってるんだ」
「はくちゅーむ症候群? なんだそれ」
やはり、聞き馴染みのない病名なのだろう。涼真も聞いたことのない病気だった。
橋本先生に病名を告げられたときのように、涼真はスマホで白昼夢症候群と検索をかけて画面を見せる。
亮介はスマホを手に取ってスクロールしながら「聞いたことなかったな、こんな病気」とつぶやいた。
「僕も、病院の先生に言われて初めて知ったんだ。ついこの間死んじゃった、飼い猫が見えるようになって、それから数年前に亡くなった祖母が見えたりして、最初は幽霊が見えるようになったのかと思った」
「なるほど、起きてるのに夢を見ているってことか。それで、その村山七海も夢だったんじゃないか、と?」
うん、と涼真は頷く。
「急に見えなくなることってあるのか? どうやってその病気を治すんだ?」
「わからないけど、主治医の先生は十七歳になると症状が治まって、夢でも見てたんじゃないかって思うようになるって言ってた」
「ふぅん、不思議なことって、本当にあるんだな」
亮介はバカにすることもなく、ただ深く頷いた。こんな嘘みたいな本当の話を、すんなり飲み込めてしまう山下くんはすごい、と涼真は感心する。同時に、思い切って話してよかったと心から思えた。ひとりでは、対処できなかった。
「猫とばあちゃんはまだ見えてるのか?」
「うん、それは見えるんだけど……」
そうかぁ、と亮介は考え込む。
「村山七海と、猫とばあちゃんとは違うところって、なにかないのか?」
「違うところ……あ、村山さんとは、触れることができたんだ」
涼真がそういうと、亮介はにまぁとだらしなく笑って、涼真の肩を突く。
「なに、やらしい話か?」
「ち、違うって!」
涼真はぶんぶん首を左右に振って否定した。
「猫と祖母には、触れられないんだ。空気を掴むみたいに触れない。でも、村山さんには……」
そこまで言って、涼真は自分の右手の小指を見た。
「よし、それなら、主治医の先生に直接聞きに行こうぜ。それが一番早いだろ」
「え? 今から?」
「今行かなくていつ行くんだよ。ほら、立てよ」
亮介はさっと立ち上がり、涼真の腕を引っ張った。力強く、日焼けした腕だ。涼真が抵抗しても敵わないだろう。
「で、でも僕……山下くんに助けてもらってばっかりで……」
「それじゃ、夏休みの宿題を手伝ってくれたらそれでチャラ。どうよ?」
「そんなことでいいの?」
「そんなこと? さすがスーパー優等生だな、お前」
そう言って笑う亮介に、涼真もつられて笑った。
「山下く」
「亮介。山下くんなんて、呼ばれるだけで鳥肌が立つ」
亮介はぶるっと身震いして見せる。
「りょ……亮介……」
照れながら亮介と呼んだ涼真は、前髪で顔を少し隠した。
「行くぞ、涼真」
涼真と呼ばれることにも、くすぐったさを感じた。