火曜日。きょうは終業式だった。
涼真は家になんてとてもいられなくて、河川敷で七海を待つのも嫌になって、朝早くから制服に袖を通していた。
「ど、どうしたの?」
制服姿でリビングに降りて来た涼真を見て、母はいつもより高い声で訊ねた。
「どうしたのって、学校に行くんだよ」
「学校? でも、新学期まで休むってもう連絡してあるよ? きょう、終業式でしょ?」
「通知表、もらってくる」
涼真はてきとうに答えて、朝ごはんも食べずに玄関へ向かう。
「気を付けてね」
祖母がリビングから話しかけて来るのが聞こえた。
「行ってきます」
涼真は、ただ七海に会いたかった。
一日、二日会えないだけで、こんなにも不安になるとは考えてもいなかった。連絡先も知らない。風邪を引いて寝込んでいるのか、用事があって来られないのか、なぜこの数日毎日会っていたのに急に河川敷に来なくなったのかわからない。
胸騒ぎがしていた。だから学校へ向かう足がだんだんと速くなる。
もしかしたら、いや。そんなはずはない。絶対に、違う。
学校についてすぐ、一組へ向かった。
クラスの前で立ち止まり、身体が強張る。
誰も友達がいないのに、どうやって確認するのだろう。
「どうした?」
一組に入ろうとしていたひとりの男子生徒が声をかけて来た。
「誰かに用か?」
「あ、あの……村山七海さん、いますか?」
「村山七海?」
首を傾げて、髪を掻く。その様子から、困っているように見えた。
「うちのクラスに村山七海なんて、いないけど?」
「……え?」
彼の目を見ればすぐにわかった。
聞いたこともない生徒の名前を言われて、混乱している。二年一組に、村山七海はいない。
「あ、ありがとうございました……」
涼真はふらつく足取りで、自分のクラスへと向かう。
一組に、村山七海はいない。
涼真は頭の中で必死に考えた。
なぜいないのか。七海は自分のクラスを間違えて教えたのか。もしかしたら、二年じゃなくて一年か。それとも、三年か。……白昼夢症候群が見せた夢だったのか。
初めて七海を見たとき、涼真は白昼夢症候群の症状が見せた幻かと思っていた。でも、七海には触れることができた。祖母とナツには触れることはできない。
それならば、村山七海は一体どこにいるのか。
「お、町田じゃん。学校、来られたのか?」
急に肩を掴まれて振り返る。同じクラスの涼真の後ろの席の山下亮介だ。
「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ?」
亮介が涼真の顔を覗き込む。
涼真はなにも答えられなかった。あらゆるショックが同時に涼真を襲ったせいだ。
「ちょ、俺町田を保健室に連れてくわ」
「おう、わかった」
亮介は友達にひとこと断りを入れると、涼真の腕を引っ張って保健室へ行った。
「せんせー、ちょっと体調悪そうな奴がいるんだけど」
保健室に入るなり、亮介は大きな声を出した。
「保健室は静かに!」
髪をひとつに束ね、眼鏡をかけた河本先生が亮介に注意をする。
「あれ、確か二年三組の町田涼真くんよね? 新学期までお休みって聞いてたけど……?」
河本先生は涼真をベッドに連れて行き、かけ布団をめくる。
「どうしたの? 気持ちが悪い?」
いいえ、と涼真は首を振る。
「終業式なんだから、無理して来なくてもよかったんじゃね?」
亮介はのんきなことを言って、隣のベッドに横になる。
「こら。ベッドに寝ないで、さっさと教室に戻りなさい」
「はぁーい」
亮介は素直にそう言って、保健室から出て行った。
「帰れる? 早退の連絡を入れましょうか?」
涼真は、帰りたいような帰りたくないような、そんな複雑な気持ちでいっぱいだった。
七海がどこにいるのか。そもそも七海は存在する人物なのか、存在しないのか、もっとちゃんと知りたいと思った。
「少し……横になっていてもいいですか?」
おそらく河本先生は涼真の病状を知っているのだろう。涼真はとにかく今は一歩も歩けないし、クラスに戻って通知表を受け取ることもできないと判断した。
「ええ、わかったわ。担任の林先生には伝えておくから」
そう言って、保健室を出て行った。
出て行ったのと同時に、また亮介が保健室に入って来る。
「お茶、買ってきてやったから飲めよ」
亮介は自販機で買ってきたのか、ひんやり冷たい麦茶を一本差し出した。
「え、僕に?」
「遠慮するな、元気になったらお返ししてもらうからさ」
にかぁ、と亮介は笑い、涼真が横になっているベッドの端に座った。
「お前、ずっと調子悪かったんだろ? もう学校に来て大丈夫なのか?」
大丈夫なのかと聞かれても、涼真自身よくわからなかった。七海と河川敷で会っていたここ数日、長い夢を見ていたような気分だ。
「なんかあったのか?」
涼真は亮介とは席が前後ろではあったが、これまで一言も話したことはなかった。なぜって、亮介はクラスの中で一番と言っていいほどやんちゃで、口も悪かった。片耳にピアスをしていて、髪はおそらく地毛の色ではない。いつも先生たちに身だしなみについて注意を受けていた。
「あの……村山七海ってこの学校にいる?」
「村山七海……?」
さっき声をかけた一組の生徒と同じく、亮介もうーんと大きく首を捻らせて「二組に村山洸って奴がいるけど、七海じゃ、女子だもんな」と笑った。
「村山七海、この学年じゃ聞いたことねぇな」
ごろんと横になる亮介。涼真は小さくため息ついた。
「……そっか。そうだよね」
「探してんの? その村山七海って子」
「……まあ」
亮介はまたうーんと唸る。
「一年とか三年は?」
「わからない。でも、本人からは二年一組だって聞いてて……」
ついこの間まではリアルだった七海の存在が、一気に曖昧になる。
涼真は苦しそうに呼吸をした。浅く、短い呼吸だ。
落ち着け。落ち着くんだ。
自分自身に言い聞かせ、なるべく深く大きく息を吸う。
考えれば考えるほど、七海の顔も声もぼんやりと朧げになってしまう。夢で見た人のように。
「町田さ、その子のためにきょう、学校来たんじゃねえの?」
「……え?」
「そんな調子悪いのに、無理してでもその子に会いに来たんだろ?」
「……え、いや……そんな……」
体調が悪いのは心の方だ。身体は至って元気なはず。でも、こんなに苦しいのはなにか別の病気のせいだろうか。
「駅の方に河川敷があるでしょ」
「ああ、ここからすぐのところだろ?」
うん、と頷く。
「その橋の下で初めて会って。同じ制服を着てたんだ。二年一組だって教えてくれて……。夢、だったのかな」
「夢? 夢の話なの、それ」
涼真は曖昧に返事を返す。
もう、なにがなんだかさっぱりわからない。七海は間違いなく同じ高校の制服を着ていた。二年一組だと言った。……いや、聞き違えたのだろうか。
「聞いといてやるよ。部活の先輩と後輩に」
「……え? ほんと?」
「同じ制服着てたなら、この学校のどこかにいるだろ」
コスプレだったら怖いけどな、と亮介は歯を見せて笑う。
「俺が聞いておくから、お前は帰れ。そんな青い顔してたら、みんなびっくりするだろ」
亮介はポケットからスマホを出し「連絡先、教えてくれ」と言った。涼真はぎこちなくスマホを手に取り、亮介と連絡先を交換した。
山下亮介、と連絡先に名前を入れる。高校二年になって初めてクラスメイトと交換した連絡さきだった。
涼真は早退し、家に帰ると制服姿のままベッドに寝転んだ。寝転ぶと、机の上に置いてあった山積みの本がずいぶんと高く見えた。
書きかけの小説。読みかけの小説。なにもかも中途半端だ。
涼真はそのまま眠った。ご飯も食べず、風呂にも入らず、そのまま、眠り続けた。
涼真は家になんてとてもいられなくて、河川敷で七海を待つのも嫌になって、朝早くから制服に袖を通していた。
「ど、どうしたの?」
制服姿でリビングに降りて来た涼真を見て、母はいつもより高い声で訊ねた。
「どうしたのって、学校に行くんだよ」
「学校? でも、新学期まで休むってもう連絡してあるよ? きょう、終業式でしょ?」
「通知表、もらってくる」
涼真はてきとうに答えて、朝ごはんも食べずに玄関へ向かう。
「気を付けてね」
祖母がリビングから話しかけて来るのが聞こえた。
「行ってきます」
涼真は、ただ七海に会いたかった。
一日、二日会えないだけで、こんなにも不安になるとは考えてもいなかった。連絡先も知らない。風邪を引いて寝込んでいるのか、用事があって来られないのか、なぜこの数日毎日会っていたのに急に河川敷に来なくなったのかわからない。
胸騒ぎがしていた。だから学校へ向かう足がだんだんと速くなる。
もしかしたら、いや。そんなはずはない。絶対に、違う。
学校についてすぐ、一組へ向かった。
クラスの前で立ち止まり、身体が強張る。
誰も友達がいないのに、どうやって確認するのだろう。
「どうした?」
一組に入ろうとしていたひとりの男子生徒が声をかけて来た。
「誰かに用か?」
「あ、あの……村山七海さん、いますか?」
「村山七海?」
首を傾げて、髪を掻く。その様子から、困っているように見えた。
「うちのクラスに村山七海なんて、いないけど?」
「……え?」
彼の目を見ればすぐにわかった。
聞いたこともない生徒の名前を言われて、混乱している。二年一組に、村山七海はいない。
「あ、ありがとうございました……」
涼真はふらつく足取りで、自分のクラスへと向かう。
一組に、村山七海はいない。
涼真は頭の中で必死に考えた。
なぜいないのか。七海は自分のクラスを間違えて教えたのか。もしかしたら、二年じゃなくて一年か。それとも、三年か。……白昼夢症候群が見せた夢だったのか。
初めて七海を見たとき、涼真は白昼夢症候群の症状が見せた幻かと思っていた。でも、七海には触れることができた。祖母とナツには触れることはできない。
それならば、村山七海は一体どこにいるのか。
「お、町田じゃん。学校、来られたのか?」
急に肩を掴まれて振り返る。同じクラスの涼真の後ろの席の山下亮介だ。
「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ?」
亮介が涼真の顔を覗き込む。
涼真はなにも答えられなかった。あらゆるショックが同時に涼真を襲ったせいだ。
「ちょ、俺町田を保健室に連れてくわ」
「おう、わかった」
亮介は友達にひとこと断りを入れると、涼真の腕を引っ張って保健室へ行った。
「せんせー、ちょっと体調悪そうな奴がいるんだけど」
保健室に入るなり、亮介は大きな声を出した。
「保健室は静かに!」
髪をひとつに束ね、眼鏡をかけた河本先生が亮介に注意をする。
「あれ、確か二年三組の町田涼真くんよね? 新学期までお休みって聞いてたけど……?」
河本先生は涼真をベッドに連れて行き、かけ布団をめくる。
「どうしたの? 気持ちが悪い?」
いいえ、と涼真は首を振る。
「終業式なんだから、無理して来なくてもよかったんじゃね?」
亮介はのんきなことを言って、隣のベッドに横になる。
「こら。ベッドに寝ないで、さっさと教室に戻りなさい」
「はぁーい」
亮介は素直にそう言って、保健室から出て行った。
「帰れる? 早退の連絡を入れましょうか?」
涼真は、帰りたいような帰りたくないような、そんな複雑な気持ちでいっぱいだった。
七海がどこにいるのか。そもそも七海は存在する人物なのか、存在しないのか、もっとちゃんと知りたいと思った。
「少し……横になっていてもいいですか?」
おそらく河本先生は涼真の病状を知っているのだろう。涼真はとにかく今は一歩も歩けないし、クラスに戻って通知表を受け取ることもできないと判断した。
「ええ、わかったわ。担任の林先生には伝えておくから」
そう言って、保健室を出て行った。
出て行ったのと同時に、また亮介が保健室に入って来る。
「お茶、買ってきてやったから飲めよ」
亮介は自販機で買ってきたのか、ひんやり冷たい麦茶を一本差し出した。
「え、僕に?」
「遠慮するな、元気になったらお返ししてもらうからさ」
にかぁ、と亮介は笑い、涼真が横になっているベッドの端に座った。
「お前、ずっと調子悪かったんだろ? もう学校に来て大丈夫なのか?」
大丈夫なのかと聞かれても、涼真自身よくわからなかった。七海と河川敷で会っていたここ数日、長い夢を見ていたような気分だ。
「なんかあったのか?」
涼真は亮介とは席が前後ろではあったが、これまで一言も話したことはなかった。なぜって、亮介はクラスの中で一番と言っていいほどやんちゃで、口も悪かった。片耳にピアスをしていて、髪はおそらく地毛の色ではない。いつも先生たちに身だしなみについて注意を受けていた。
「あの……村山七海ってこの学校にいる?」
「村山七海……?」
さっき声をかけた一組の生徒と同じく、亮介もうーんと大きく首を捻らせて「二組に村山洸って奴がいるけど、七海じゃ、女子だもんな」と笑った。
「村山七海、この学年じゃ聞いたことねぇな」
ごろんと横になる亮介。涼真は小さくため息ついた。
「……そっか。そうだよね」
「探してんの? その村山七海って子」
「……まあ」
亮介はまたうーんと唸る。
「一年とか三年は?」
「わからない。でも、本人からは二年一組だって聞いてて……」
ついこの間まではリアルだった七海の存在が、一気に曖昧になる。
涼真は苦しそうに呼吸をした。浅く、短い呼吸だ。
落ち着け。落ち着くんだ。
自分自身に言い聞かせ、なるべく深く大きく息を吸う。
考えれば考えるほど、七海の顔も声もぼんやりと朧げになってしまう。夢で見た人のように。
「町田さ、その子のためにきょう、学校来たんじゃねえの?」
「……え?」
「そんな調子悪いのに、無理してでもその子に会いに来たんだろ?」
「……え、いや……そんな……」
体調が悪いのは心の方だ。身体は至って元気なはず。でも、こんなに苦しいのはなにか別の病気のせいだろうか。
「駅の方に河川敷があるでしょ」
「ああ、ここからすぐのところだろ?」
うん、と頷く。
「その橋の下で初めて会って。同じ制服を着てたんだ。二年一組だって教えてくれて……。夢、だったのかな」
「夢? 夢の話なの、それ」
涼真は曖昧に返事を返す。
もう、なにがなんだかさっぱりわからない。七海は間違いなく同じ高校の制服を着ていた。二年一組だと言った。……いや、聞き違えたのだろうか。
「聞いといてやるよ。部活の先輩と後輩に」
「……え? ほんと?」
「同じ制服着てたなら、この学校のどこかにいるだろ」
コスプレだったら怖いけどな、と亮介は歯を見せて笑う。
「俺が聞いておくから、お前は帰れ。そんな青い顔してたら、みんなびっくりするだろ」
亮介はポケットからスマホを出し「連絡先、教えてくれ」と言った。涼真はぎこちなくスマホを手に取り、亮介と連絡先を交換した。
山下亮介、と連絡先に名前を入れる。高校二年になって初めてクラスメイトと交換した連絡さきだった。
涼真は早退し、家に帰ると制服姿のままベッドに寝転んだ。寝転ぶと、机の上に置いてあった山積みの本がずいぶんと高く見えた。
書きかけの小説。読みかけの小説。なにもかも中途半端だ。
涼真はそのまま眠った。ご飯も食べず、風呂にも入らず、そのまま、眠り続けた。