タイトル【身銭依存】
ある所に、半世紀ほど歳の離れた夫婦がいました。
出会いは資産家である女の自宅。
不自由な体を持つ女の生活の助けとなるべく、男が通っていたのです。
二人は外から見るととても仲睦まじく、当時から本当の縁者の様でした。
「なんでも頼ってくださいね」
気持ちのいいさわやかな笑顔で言う。
女はすっかり気を許し、少しずつ頼むことが増えていった。
時に買い物。
時に料理。
時に掃除。
身の回りのことを進んでやる働き者の男は、皆から羨ましがられました。
「働き者のお手伝いさん、うちにも来てくれないかしら」
近所の人にそういわれるのも一度や二度じゃありません。
言われるたび、男は決まった言葉で返していました。
「僕は個人でやっているので、契約者様は基本お一人だけなんです」
男は個人事業主だった。
他の従業員はいなかった。
全てをこの男が担っていた。
「変わった働き方ね」
と言われることはほぼ毎回。
「この働き方が性に合っているんです」
そう返すことも毎度のこと。
女は初めのうちは申し訳なく思った。
けれど助かっていた。
天涯孤独。
誰かに頼ることができず、また苦手だった女は、その男がいてくれて心の底から安心していたから。
少しの申し訳なさと、大きめな感謝と、少しの独占欲。
何時、どんなときでも声をかけたら必ず来てくれる安心感。
自分にはできないことをお願いするときも。
誰かに話し相手になってほしい時も。
用はないけどなんとなくいて欲しい時も。
女は男に頼りきりになっていった。
――けれど。
ある時を境に、そんな様子が崩れ去ったのです――
女が、自宅の段差で転んでしまった。
足を骨折した女は、痛みのあまり気絶ができない。
こんなとき。
救急車を呼べればよかった。
女は男に頼った。
「転んでしまった。痛くて辛い。歩けない。起き上がれない。助けてほしい」
男は二つ返事で電話を切った。
そしてすぐに来た。
――酒を飲みながら。
「うははははは! まさか這い蹲ってるとは思わなかった! みっともねーなぁクソババア」
すでに酔っぱらっている男は、倒れ伏したままの女の横にしゃがむ。
こんなにも不誠実なことをする人間とは到底思っていなかった女は、開いた口を塞げない。
それに気づいていたとしても、男は軽く笑い飛ばし、思い切り酒を煽る。
「酒が抜けたら救急車呼んでやるから、寝てれば?」
どこかで買ってきたイカを袋から取り出し、音を立てながらしゃぶる。
痛みを忘れた女は、ただ黙ってその様子を見ていた。
サイレンが聞こえたのは、数時間後のことだった――
病院に運ばれた。
その頃はもう記憶がなく、転んでからというもの数日は経っていた。
集団部屋ではなく、個室に運ばれたようだ。
個室とはこうも豪華なのかと驚いたが、幸い、金はあった。
呼吸器をつけられていて、喋ることはできなかった。
眼球を動かすと、酔っていなさそうな男の姿があった。
「よかった。目が覚めたんですね」
その言葉で、女は安堵した。
あの時の男は夢だったのだ。
何かと見間違えたか、たまたま虫の居所が悪い日だったのだ。
突然呼びつけてしまった自分が悪いのだ。
そう。きっとそうだ。
「これで金が手に入る」
呼吸器が、体の空気を吸い上げた。
「ありがとう。あんたの資産のおかげで、俺は働かずとも生きていける」
呼吸器が、空気を押し込んできた。
「人工呼吸器を入れてから数日経った。そもそも高齢で弱ってた呼吸筋も、声帯も、もう衰えてて外せないだろう。ま、それだけじゃないんだけど、アンタはもう喋れない。転んだ拍子に両手をついたから、手も骨折して文字も書けない。コミュニケーションをとる手段は限られるが、そんな手続きは踏まない。これは、俺と言う夫の判断だ」
寝耳に水だった。
女は独身だ。
届けにサインをした記憶なんて、無い。
そんな疑問に答えるように、男は平然と、また鼻で笑いながら言う。
「俺が勝手に書いて、印鑑作って、承認もでっちあげました。それだけ」
すべては計算だった。
金を持っていそうな家に住み込み同然で働き。
信頼を得ながら。
資産状況と、身辺状況とを確認していく。
双方天涯孤独。
歳の差で怪しまれてはいても、別に殺すわけではない。
むしろ生かしている。
仲睦まじく世話を焼いている姿は周囲の人間も知っていた。
生かしているならば、犯罪ではない。
騙し取ってもいない。
どういう状況であれ、ここはそういう国だった。
女は病院に囚われた。
頼らずとも世話を焼かれ。
話そうにも話せない体になり。
殆ど人の来ない部屋で、数カ月を過ごした。
男は女の資産を狙っていた。
ほとんどは代理人に頼んでいた不動産経営やなんやかんや。
収入は十二分にあった。
男はそれを狙って近づいた。
女は個室で生活するための金しか使われず。
夫となった男は豪遊に励む。
悔しい。悔しい。悔しい。
けれど、優しくしてくれた男の姿がちらついて、恨み切れない。
自分がこうしているだけで、男が幸せなら。
自分にできる、今まで尽くしてくれた男への感謝の表現かもしれない。
二つの想いが交差している時。
病院の窓。
月明りに影が射した。
物音が聞こえる。
声が聞こえる。
けれど、女から何かを訴えることはできない。
近くにいるのに。
聞いてくれるかもしれないのに。
何とかしてくれるのかもしれないのに。
――ああ、もう、こんなの。
「「もういや」」
ついに耳までおかしくなったかと思った。
まさか、自分が思ったことと、たまたま言葉が重なるとは。
「聞こえていますか?」
これは私に問うているのだろうか。
半信半疑で返事をした。
「「はい」」
「貴方の御名前は?」
「「狐塚美鳥と申します」」
「そうですか。美鳥様」
――通じた。
通じた!
通じた!!
通じた!!!
この人は誰だろうか。
何者だろうか。
もしかしたら天使だろうか。
ううん。
実際はそんなものはどうでもいい。
話せる。
頼れる。
どうにかしてくれる。
女は表面に出さずに、とてもとても喜んだ。
ただ生かされているだけのこの状況を、変えてくれるかもしれない。
ただ優しくしてくれたから信じたように。
ただ話ができたからと言う理由で、女は龍を信じ切った。
とてもとても、とっても愚かな行為。
「なんでも頼ってくださいね。」
悩みを聞かれた女は、素直な気持ちを述べた。
「「あの人のために生きたいけれど、あの人のために死にたい。どうか、あの人の手で、殺してほしい」」
頼られるのは嬉しかった。
けれど同時に悲しかった。
自分がいなければ、あの人は路頭に迷うかもしれない。
犯罪者になってしまうかもしれない。
彼を切れない。
自分で決められない。
彼に決めてほしい。
女は頼るしかできなかった。
――龍は、聞き届けた。
「飲んでください」
唇の隙間から、血が流れ込んでくる。
嚥下するほども多くない血が、口の中を伝っていった。
「「なにをするのですか?」」
そう問うのも当然だった。
「なにも」
龍は答えた。
「今飲んでもらった血で、貴方は自分の決めた時に苦しまずに死ぬことができます。私は特殊なのです。少しならまだしも、沢山摂取すると毒となります。人間ならばなおさらね。薬と一緒です。今後、何度か飲む機会があるでしょう。その時に願ってください。大丈夫。貴方の願いは叶います。私はハッピーエンドが大好きなのです」
そう言い残し、窓から去って行った。
外から流れ込む空気で揺れていたカーテンは、少し開いていた。
次の日の夕方から、男が毎日面会に来た。
看護師や医者にばれないよう、少しずつ、女の唇から液体を流し込んでいった。
咽たらバレる可能性があるから、少しずつ。少しずつ。
そして、女は男の手で死んだ。
それは女の本望であった。
初めは恐怖だった。
けれど、毒を飲ませる男を見続け、心を決めたのだ。
後悔はなかった。
それは男の所業であった。
わけもわからず当たり散らすしかなかった。
生き物、最終的には死ぬほかないというのに。
龍は言い残した。
「よかったですね。死んでしまえば、金は関係ありませんから」
―――――……
「地獄の沙汰も金次第、とは言いますが。さて、二人はどうなったのでしょうね。死後の世界まで入ったことがありませんが、今度覗いてみましょうか。他人がいないと生きれないというのは感謝しなければなりませんが、それに頼り切りというのはいかがなものでしょうね」