なぜか不思議と、想像以上に疲れてしまった。
 わかって行ったが、酔っ払いというのは本当嫌なモノだ。
 匂いがついている気がする。
 部屋に入ったらまず風呂に入ろう。
 鍵を回し、段差を跨いだ。



「戻りました」
「おっかえりなっさーい!」
「……変なテンションですね」
「そりゃあ長年のプロジェクトが達成されたようなもんですからねぇ」
「ぷろ……それもそうですね」


 達成という言葉だけで判断したが、まあ、返事としては間違っていないでしょう。
 それは良いとして。
 部屋中が紙に溢れている。
 文字がびっしり書かれているものや、数文字しかなくて余白が多すぎるもの。
 赤と黒と白の比率が全てばらばらだ。
 これが板口くんのこの世界での仕事なのでしょう。
 私は風呂に入りたい。
 風呂に必要なモノ……あ、あった。


「話はあとで聞きます。それまでに部屋を片付けてください。座る場所もない」
「あー……ハイ」


 鍵を使わずにこの部屋に入ってきた扉を開ける。
 そこは森林浴を行った場所ではなく、本来の空間であるばするーむ(・・・・)
 服を脱ぐ。
 湯を出す。
 頭から濡らす。
 体の一部に残る鱗を撫でる。


「っ」


 一枚剥がれた。
 血が湯と混ざって流れる。


「想像よりも早い。早すぎる。これはこれで面白い」


 笑みがこぼれる。
 シャワーの音で書き消えた。
 イレギュラーが起こってこそ、永き生は(いろ)がつくというもの。


 湯を止めタオルで拭いてから部屋着を身に着けた。
 扉を開けた先は、なぜか床の紙が増え、食べ終えた器が部屋中に散らばっていた。


「……板口……」
「はっ」


 片付くまで一時間かかった。


「では、話してください」
「はーい」


 大量に散らばっていた髪が一つの山となり、その中から一枚の紙を引き抜いた。
 山は崩れたが、それを背後にしている板口くんは構わず話し始めた。


「名前は『猿野(ましの) (れい)』。女性。性格に難あり」
「そこは詳しく」
「いわゆる尽くすタイプ。もっと言えば尽くしすぎる(・・・)タイプ」
「身を亡ぼすタイプですね」
「はい。交際していた男がいましたが、借金、DV、浮気と、クズ代表の所業はやり切っている奴です。また逮捕歴もあり、『猿野(ましの) (れい)』が身元引受人になっています」
「それはまた……そんなにもいい男なのですか?」
「俺からは何とも。見た目がすごくいいわけでもなく、言葉がよくてもクズですよ? 『猿野(ましの) (れい)』の気が知れませんよ」
「そうですねぇ」
「どこに惚れたかは置いておいて、交際自体は男の方から迫ったそうですが、『猿野(ましの) (れい)』のほうもべた惚れだったんでしょうね」


 だった(・・・)……ね。


「男はいなくなった?」
「はい。『猿野(ましの) (れい)』の前から姿を消しました」
「ほお。彼にとってはその女性はいらない存在になったということでしょうか。それともまさか、改心して?」
「これがびっくり。辰見さんがご存じの、あの詐欺師に転身したそうですよ」
「詐欺師……ああ、あの」


 懐かしい話だ。
 私が珍しく殺した人間。
 龍の一部を欲した奴。


「あの人間性ですか……?」
「惚れる理由がわからないですよね」


 空気が重くなった。
 気まずいわけではなく、意味が分からな過ぎて思考が動かない。
『男は目で惚れ、女は耳で惚れ』という言葉があった。
 言葉巧みに酔わされたのだろうか。


「ま、まあ。何はともあれ、彼女は望んでいるそうです」
「そんなことで望むなんて、人間のすることはわかりませんね」
「っすねぇ」
「依頼は出ていないのですね?」
「はい。なので、早めに行動した方が良いです。もう動いてると思いますよ」
「承知しました。今すぐに行ってきます」
「じゃ、ここ住所です。なんかあれば連絡ください」
「ありがとう。行ってきます」


 人外的な赤い瞳はサングラスで隠し、さらにハットをかぶる。
 メモ紙を握り、足早にホテルを後にした。
 ここから先は時間の勝負。
 そして甘言を並べるだけの仕事。


 ――ただ、自殺志願者の自殺を止めるだけの。




 ―――――……




「こんばんは」
「あらー、こんばんはぁ」


 紫色のワンピースを着て、風通しの良い場所に立つ女性。
 風を遮られるものがない場所で、スカートが大きく膨らんでいる。
 足元から吹き上げる風で浮いてしまいそうな細い体。
 長い髪が真横に流れる。


「こんな夜更けにどうされたのですかぁ?」
「私は散歩です。お嬢さんも、こんな時間にどうされたのですか? そちらは危ないですよ?」


 水平線が光る。
 彼女は手摺に腰掛け、背後には登りかけた太陽と重なる。
 遠近によって、その姿はまるで太陽に腰掛けているかのような錯覚。


「あたしの最近の日課です。ここにきて、自分の心を確認しています」
「心、ですか?」
「ええ」


 ふかい黒い瞳が私の周りを見る。
 髪が顔にかかった。
 耳にかけるしぐさのまま、横顔を見せる。


「私の愛はどこにあるのか、と」


 彼女の足元から水しぶきが上がった。
 手摺の向こうの海は荒れ、度々強い波が押し寄せる。
 天気が悪いわけでもない。
 沖を見れば凪いで穏やかだ。
 けれど、岩場の多い崖下は、白波を作り激しくうねっている。


「……何か悩んでおられるのですか?」
「悩み……。いいえぇ。あたしは悩んでいません」


 こちらに向き直った。
 けれどその場からは動かず、太陽に寄りかかっている。


「あたしは待っているのです」
「待つ、と」
「ええ。最愛の人と、その時を」


 体を前に倒し、ようやく手摺から手を離した。
 早ければこのまま上半身を後ろに倒してしまうかと思っていたが、ひとまず今日は大丈夫そうだ。
 ヒールのある靴で、ガタガタの岩場を慣れた足取りで進む。
 私との距離は、双方が手を伸ばせば届く。


「随分と物騒なところで待ち合わせなのですね」
「物騒だなんてぇ。そんなことないです。観光スポットなんですよぉ?」


 顔立ちがくっきりと見える。
 香りがする。
 髪が当たる。
 耳が過ぎる。
 音が遠ざかる。


「なにか、ご相談に乗りましょうか?」


 前を向いたまま投げかけた。
 止まった足音が、地面を擦ることなく声を発する。


「あたしは悩んでませんわよー」


 まるで遠くに投げかけた独り言のように。
 彼女は気持ち大きく声を上げる。
 水平線から日が離れた。
 水しぶきが散り、キラキラと錆びた柵を彩る。


「ではなぜここに?」
「待ち合わせですわ」
「こんな物騒なところで?」
「お気に入りの場所なんですの」
「自殺の名所が?」
「綺麗な景色でしょう?」
「何が目的でここを選んだのですか?」


 聞かずともわかる。
 調べてあるのだから。

 この女は自殺が目的。
 待ち合わせが嘘でも本当でも。
 行きつく先は一つだろう。

 最後の問いには答えることなく、砂をする靴音が小さくなっていった。

 次の日。
 また同じ日の出ごろ。
 同じ位置に立った。
 柵に腰掛ける彼女は今日も紫色のワンピースを着ている。
 今にも折れそうな錆びた柵に腰掛け。
 ましてやヒールに、片足を浮かせている。
 自殺志願者には失礼な物言いかもしれないが、『いつ死んでもいい』のだろう。
 薄っすらと上がった日の光が、彼女の輪郭を縁取る。


「……あらぁ、ふふ」


 海を眺めていた彼女がこちらに気付いた。
 視線だけを私に向け、色気を含ませながら微笑みかける。


「また会いましたね」
「今宵も良い日の出ですね」
「ええ。空気が澄んでて、雲が少なくて。綺麗な輝き。この時間にしか見れない、異世界のような雰囲気」
「まさしく」


 今日は同じように柵の方まで来てみた。
 ただ、人二人分の感覚は空けて。
 その方が本人は安心するだろう。
 元より警戒されている雰囲気もないのだが、一応女性として、二度しか会っていないならばこれぐらいの距離感はとるべきだろう。


「今日はどうなさったのぉ?」
「散歩ですよ。この空を見るために」
「奇遇ですね。あたしもです」
「私たちは相性がいいのかもしれませんね」
「ふふふ、あたし、口説かれてます?」
「初めて会った時から素敵な人だとは思ってますよ?」
「あら、あら。ふふ。照れちゃう」


 揃えた指の先を両頬に当てる。
 照れ笑いは本当に本当のよう。


「でもごめんなさい。あたしにはもう大事なヒトがいるの」
「おや……それはそれは」


 知っている。
 それも調査済み。


「すごく残念です」
「ふふ」
「どんな人か伺っても?」
「なぜ?」
「私が素敵だと思ったヒトが選ぶヒトは、どんな素敵なヒトなのだろうかと」
「ふぅん」
「まあつまりは嫉妬です」
「ふ、ふふっ」


 指を揃えた掌が、口元に重なる。
 大胆に座っていた割に仕草は上品だ。


「そうですね。一言で言うなら素敵なヒトです」


 それも調査済みだ。

 年下の男性。
 中堅大学を卒業し、中小企業に勤める。
 女性とは会社の先輩と後輩で知り合い、男からアプローチされて交際が始まる。
 会社には内緒にしてひっそりと愛をはぐくんでいた時。
 男は起業という目標を語る。
 女は男の目標に寄り添う決意を固める。
 それを機に同棲を始めた。
 男は起業のために会社を辞め、できる手とつながった縁を駆使し、支援を求めた。
 準備は数年に及んだ。
 女は、結果は明確には出なくても奔走する男に夢中になった。
 人並みに望んだ結婚が遅くなったとしてもいい。


「この人の夢が叶うのならば、私の望みが叶うのは後回しでいい」


 いつしか女の夢は、男の夢を叶えることであり。
 自分の夢もいつか叶うと信じて疑わなかった。


 ――男の夢は叶った。女は夢に囚われたままだが。



「とてもとても努力家で、交流のある人たちにも信頼されていて、あたしのことは特別に甘やかしてくれる。目標が大きくて高みを目指しているんです。それを支える私のことも大事にしてくれる。そして実現力も持ってるんです! それは世界でも限られた人だけですよね! あの人は選ばれた人なんです!」


 太陽に照らされた黒い瞳に光が射す。
 水しぶきと、海の揺らぎが瞳に映って不思議な模様に見える。
 意気込みで策が折れてしまっては困るが、幸いにしてそうはならなかった。


「起業家ですか。それはすばらしい覚悟と決意をお持ちだ」
「でしょう! すごいでしょう!」
「そんな人ではお忙しいのではないですか?」
「すっごく忙しいです。なのでここにいつ来てくれるか……わからないです。けど、きっと来てくれる」


 そう言って、また海を眺める。
 半分ほど登った太陽が辺りを照らす。
 飛び散った水しぶきが、私には涙のようにも見える。


「有名な方ですか?」
「いえ、世間ではまだまだです。でも、きっと有名になってあたしを迎えに来てくれるんです」
「その待ち合わせがここなんですね」
「はい。あたしの好きな場所で」
「それも素敵な御約束ですね。それですと、私がここにいるのお相手に失礼でしょうか」
「ふふ、大丈夫ですよ。あたしの愛は彼に伝わってます。貴方も距離をとってくださってますし、怪しいと思われたら私が愛を証明するだけです」
「愛を証明。なにをされるのですか?」
「何を、ってものはないですけれど……彼が望むことをするんです」
「望むこと」
「そう。例えば」


 ワンピースの長袖を捲った。


「こんなふうに」


 白
 い
 肌
 に
 歪
 に
 刻
 ま
 れ
 た
  、
 治
 り
 か
 け
 の
 読
 み
 に
 く
 い
 文
 字
 が
 あ
 っ
 た
  。


「おや」


 思わず、というか。
 それしか言葉が出なかった。
 言葉が出せただけでもよくやったと称えてほしい。
 人の腕という書きにくく、また刻みにくい場所。
 綺麗に書けるわけがない。
 ガタガタの皮膚に色素沈着した不気味な傷痕。
 文字が読めそうで読めない。

 思考が止まりそうになる私を他所に、彼女は袖を手首に戻した。


「あたしと彼は繋がっています。それは俗世的にいうものよりも深く、太く、頑丈に。あたしたちはたとえ運命でも離れられないほどの結束。だから、貴方のような普通の人ならば大丈夫です」


 にっこりと、私に微笑みかけるただの人。
 そう、ただの人。
 ただの人間だ。
 人間でしかない生物が、伝説《私》である龍《私》に普通と曰《のたま》う。
 笑いは起きない。
 彼女は心底真面目に言っている。
 二人は何者に引き裂けないと。
 人為的でも、現象でも、神業でも。

 怒りで熱くなるどころか、何も感じず冷めきってしまった。

 ……いや、私の感情など今はどうでもいいのだ。
 それよりも必要なことがある。
 やらなければならないことがある。
 これを逃したら次はいつになるかわからない。

 鼻歌を歌いながら、今か今かと何かを待ち続ける彼女。
 板口くんからの情報では、彼女は自殺志願者である。
 彼女は待ち人が死んでいることを受け入れていない。
 だからここで待ち続けているのだろう。
 クズである彼が、また自分を頼って来てくれることを。
 自分が必要だと言ってもらえることを、心の底から待ち望んでいる。
 彼の言葉しか耳に入らない彼女は、世間がなんと言おうと受け入れない。
 死人に口はないから、彼女は誰の言葉も聞き入れない。
 私の甘言でさえも。


「では、私はそろそろ」
「お気をつけて」


 最後は目を合わせなかった。
 合わせたところで何を感じることもなし。
 立ち去る前に横目で見た彼女の目は、黒く揺らぎ、酷く濁って輝いていた。
 盲信。
 その一言に限る。


「さて」


 ようやく使いこなしてきたすまーとふぉん(・・・・・・・)を起動した。
 私のために使いやすくしてくれた板口くんに連絡をとる。


「おっつかれさまでぇす」
「お疲れ様です」
「どうでした? 猿野(ましの) (れい)
「想像通り、気持ちの悪い人間でした」
「でしょうねぇ」
「板口くんは猿野(ましの) (れい)の言う彼《・》について情報を集めてください」
「へーい。といっても、もうだいぶ集まってますよ」
「君にしては早いですね」
「辰見さんが接触してくれてたおかげっすねー」
「では、今回の仕事は早々に終わりそうですね」
「んね。ま、数週間ください」
猿野(ましの) (れい)が死ぬまでにお願いします」
「あーい」


 すまーとふぉん(・・・・・・・)をポケットに流す。

 時間はいくらでもある様でそうでもない。
 自分がやりたいと計画を立てたところで、この世界は他人や自然との共存だ。
 自分がどんなに安全策を取ったとしても、他人は自分のことなど考えていない。
 自分の安全策は結局のところ、自分のためのものでしかないのだ。
 他人の思考を前提にしたところで、その時の状況は果たして何通りあるのか。
 体調が悪いかもしれない。
 寝不足かもしれない。
 朝ごはんを食べていないかもしれない。
 雨風、台風、酷く寒いかもしれない。
 たったそれだけの要因が、自分の安全を揺るがしてしまう。
 自分が考えているよりも、終わりというのは意外と近くにいるのだ。


「私のために、生きてくださいね」


 猿野(ましの) (れい)は私の生に必要な存在だ。
 その命は必ず守る。

 そう決めて、三週間。
 私は必ず彼女と会い、歪んだ精神状況を確認して、陰ながら自殺を実行しないかを確認した。



 ―――――……



「今日は天気が荒れてますねぇ」
「水しぶきがいつもより多いですね。危ないですからもう少し柵から離れた方がよろしいかと」
「ふふっ、ありがとうございます。でも、ここがいいんです」
「そうですか。では、私も」


 大荒れの天気だった。
『立ち入り禁止』の仕切りは、狂った人間と人間でない存在には守る要素のない飾りと落ちた。
 傘をさすと煽られてしまうからと、いつもの紫色のワンピースに羽織を着て、まるでプールにでも落ちたのかというほどの濡れ具合で柵に腰掛ける彼女。
 その状況ですらも『彼のために待つあたし』に浸っているのだろう。
 世に言う逆境は、彼女が彼女らしくいるための演出となる。


「もうすぐ春ですねぇ」


 黒みの多い雲を見上げながら、彼女はつぶやいた。
 分厚く先の見通せない空は不穏でしかなく。
 それでも彼女は薄ら笑いを浮かべ、「デートの行き先を調べなきゃ」と前向きに語る。


「春といえば花ですね。私は山でも登って花畑を一望したいです」
「あらぁ! 素敵!」
「良い所があります。お教えしましょうか?」


 首を横に振った。


「男性から聞いたって言ったら、彼、嫉妬しちゃいますから。嫉妬させちゃ可哀想」
「……そうですか」


 今はもういない彼を信じている姿にも飽き飽きしてきたところだ。

 発展のない話は実につまらない。
 けれど、彼女にとっては『大好きな彼を語るあたし』は飽きることのない日常。
 ただ私という聞き手ができただけ。
 いてもいなくても変わらないのだろう。
 だから私という存在を受け入れる。
 同じ様に雨に打たれている私を横にみても、なんの不思議にも思わない。
 私に興味がないのだから。
 興味を持ったら、彼に申し訳ないと言うだろう。


「彼から連絡はありましたか?」
「いいえっ。でも、便りがないのはいい便りというじゃありませんかぁ」


 そんな都合の良い。
 いや、都合の悪い想像を避けている(ゆえ)なのか。
 彼女はいつもと変わらず、いつもと違う荒れた海を眺める。


「あの人はすごい人なんです。色々なことに挑戦して、色々なことを達成する。おおよその答えがわからなければ行動に移せない、安心が欲しいあたしとは違うんです」
「安心、ですか」
「貴方はいかがですか? 例えば、お仕事中、プレゼンを誰に依頼するか」
「それは……それまでの仕事内容や業務姿勢を見て決めるのではないですか?」
「そうですねぇ。それが普通なんでしょうねぇ」
「貴方はどのように考えるのですか?」
「あたしは、その人の今の仕事内容。プライベート状況も考えます」
「……良いことだと思いますよ?」
「考えて、理解して、支えてこそ『良い』となるのです。あたしは考えて、考えて、考えて考えて考えて……結果、答えが出ないんです」
「答えが出ない?」
「任せていいのか。その人の負担になってしまうのではないか。成功すればいいけど、失敗したらその人にも会社にも負債になってしまう」
「そこまで考えるものですか?」
「考えない人は考えないと思います。それも経験ではありますし、サポートして負債にならないようにするんですよ。あたしは……あたしが、支え切れるかわかりませんから。それに、プライベートも考慮してとは言いましたが、全てを知るわけではないんです。あたしが知っている内容も、もしかしたらその人が強がって言った言葉かもしれない。実際の所はその人にしかわからない。だから、あたしが考えこんでも意味がないことなんです」
「では、貴方は最終的にどうするのですか? そのプロジェクト」
「あたしがやるだけです。あたしがやれば、その人への負担はない。会社が負債を追っても、あたしが責任を取ればいい」
「えー……、つまり……?」
「あたしは周りの人の顔色をうかがいながらでしか行動出来ない。けれど彼は、率先して自分の意見を通す。そしてやり通す。すごいでしょう!?」


 彼女は笑う。
 この数週間、変わりのない貼りついた笑顔で。
 吐き気を催すほどの自己犠牲。
 そして、自分を卑下して他人を評価する。
 はて、さて。
 これは。
 ……これは……。
 男が女を必要としているよりは、女の方が男を利用していたのか。
 女が自己を確立するために、クズな男が必要だった。

 ――ああ。
 なんて、都合の良い存在なんだ。


 共依存。
 相手のためでしか自分の意思を決定できない状態。
 相手がいなければ自分の言動が決められない状態。
 実に不健康。
 そして実に不誠実。
 相手のためと言いながら相手の都合の良い様に行動する。
 暴力行為を止めず、「犯罪者になってしまうから」と許してしまう。
 元凶を正さずに、周りが合わせてしまう。
 それのなにが「そのひとのため」か。
 当の本人はその矛盾に蓋をする。
 見て見ぬ振りをする。
『自分が許せばそれで丸く収まる』
 それは本当に相手のためだろうか。

 この女も、猿野(ましの) (れい)も、相手のためで、自分のためなのだろうか。


「私は明日でこの場を離れます」


 不意に告げた。
 彼女はいつもと変わらず、柵に両腕を乗せながら荒れた海を眺める。
 私の方は見向きもせず「あらあら」と軽くあしらった。


「私のこの場での作業は終えたので、こちらに来るのは本日で最後となります」
「そうなのですねぇ。お話しできてたのしかったです。お元気で」
「貴方も、お元気で」


 実につまらない時間でした。
 軽く頭を下げ、振り返らずに離れた。
 向こうも私の姿を見ることはなかっただろう。
 彼女の興味は一人の男にしかない。
 周りがどう思おうとも、彼女に取っての世界は彼だけなのだ。
 彼が林檎を檸檬と言えばそうだし。
 彼が「この消費者金融は安全だ」と言えば、彼女は安全なものとして言われるがままに使うだろう。
 そして、生きていた頃の彼が「死ぬ」と言っていないのだから、彼女の中では彼は『死んでいない』。

 彼女はここ。
 自殺の名所で、すでに死んだ彼を待ち続ける。

 彼女と話して、彼女の求めるのがわかった。
 わかったから、私はもうここに来る必要はない。
 ……いや、明日は最後の挨拶にこようか。

 ドアノブを回した。





――――― ❀ ―――――





 あたし、猿野(ましの) (れい)猿臂(えんぴ)を伸ばした。
 届かないかもしれないと思いつつも、どうしても欲しかった。
 届きますようにと腕を伸ばした。

 あたし、猿野(ましの) (れい)は木から落ちた。
 当然です。
 届きようがない枝に腕を伸ばしたのですから。

 あたし、猿野(ましの) (れい)は実に滑稽だったでしょう。
 猿猴(えんこう)が月。
 自分の能力を過信して……いえ、無いものをあると思っていた。
 あたしには無理だとわかっていた。
 猿の水練。
 やるしかなかった。
 それは。
 それが。
 あの人が望んだことだったから。

 あたし、猿野(ましの) (れい)は、まさに猿でしかなかった。
 否定したい。
 否定できない。
 あたしの力だけじゃあだめだった。
 誰かに否定してほしかった。
(れい)でもできることがあるよ』と。

 あたし、猿野(ましの) (れい)はひたすらに待っていた。
 待って、待って、待ち続けて。
 ついにこの日が来てくれた。

 話し相手になっていた人はもう来ないと言っていたのに、後ろから地面を擦る音がする。
 こんな辺鄙なところにまた別の人が来たのか。
 少しばかりの興味が、首を動かした。
 服が風に揺れている。
 乱れた髪を抑える手が、顔を露わにした。


「よぉ」
「あ……あぁ……!」


 よしくん……っ!


 体を捻って、駆け出した。
 緩やかな坂だが岩場。
 待ち続けたあたしの棒の様な足は何度もよろけ、何度も転んだ。
 それでも、両手を広げて待ってくれている人の胸に飛び込んだ。


「よしくん! よしくん! 無事でよかったぁ!!」
「䨩。ごめんな。心配かけた」


 ああ、懐かしい香り。
 ああ、懐かしい声。
 ああ、ああ、ああぁ……。

 この日がくるのを、どれだけ待っていたか……!
 挫けなくてよかった!
 信じてよかった!
 やっぱりあたしは間違ってなかった!!

 今日は晴天。
 昨日までの荒れ模様が嘘の用の穏やか。
 何年も開いてしまった時間を埋めるように、腕を回して存在を確かめる。


「よしくん……どうしてたの? 心配したんだよ?」
「悪いな。良くない奴に追われてたんだ。䨩を巻き込みたくなくて、一人で逃げてたんだ」
「そんなの……一緒に行くのに。でも、ありがとう。心配してくれて。もう大丈夫なの?」
「ああ。大丈夫。そいつらも諦めたみたいだ」
「そうなんだね。良かった……よかったぁ……。じゃあ、これからは一緒にいられる?」
「ああ、一緒にいられる。一緒だ」


 涙があふれた。
 笑っていたいのに。
 泣いたあたしを見ないでほしいのに。
 望んだことが受け入れられて、嬉しくて、安心して、堪えきれなかった。
 涙の波は絶え間なく彼の服を濡らす。
 黙って受け入れてくれているのをいいことに、あたしは服に顔を埋めて顔を隠した。
 小さな嗚咽は波の音でかき消えた。


「䨩」


 波に重なりそうな声が、鼓膜を揺らした。


「なぁに?」
「頼みがあるんだ」
「頼み? なぁに? あたしにできること?」
「䨩にしかできないことだ」


 真剣な声が、あたしの涙を枯らした。
 服に埋めた顔を横にずらし、片耳を開けた。


「俺にとって大事なひとが困ってる。助けたいんだ」
「……だいじな、ひと?」
「ああ。お世話になったんだ。金じゃない。人手が欲しいんだ。協力してくれないか?」


 だいじなひと(・・・・・・)
 引っかかってしまうのはしょうがないだろう。
 あたし、だもの。
 男とか、女とか。
 明言してほしい。
 あたしから言わずに、よしくんから言ってほしい。
 それぐらいは最低限の配慮じゃないの?
 あたしだよ?
 あたしに言ってるんでしょ?


「俺の憧れでもある人なんだ。世界を渡り歩く、かっこいいひと。俺はあの人……辰見さんみたいになりたいんだ」
「たつみ、さん」


 名前の持つ情報量の少なさ。
 男性だろうか。
 女性だろうか。
 かっこいいなんて性別関係なく使える誉め言葉。
 ……女性だったら、どうかしちゃう。


「わかった。いいよ」


 男の人ならね。
 よしくんが憧れて、お世話になった人なら。
 あたしにとっても恩人だもの。


「ありがとう、䨩」
「うん。なにをすればいいの?」
「まずはそのひとに会ってくれ。俺も一緒にいるから」


 よしくんは後ろを振り返った。
 あたしはよしくんの体の向こう側を見ようと顔を出した。
 奥の方から歩いてくる、スーツを着た、帽子をかぶった人が見えた。


「OK出ました。辰見さん」


 その声で、視線の先の人は帽子をとった。
 頭に何かついているのが見えたけれど、それが何かはわからない。
 軽い会釈。
 持ち上がった顔には目の部分に布が巻かれ、目隠しされていた。

 その人は、「昨日で最後」と言った人だった。


「こんにちは。猿野(ましの) (れい)様。……ご無沙汰しております」
「ああ、貴方ですかぁ」


 なんとなく雰囲気が変わったような、昨日までの話し相手。
 まともに見ていなかったからどこがどうとかわからないけれど。
 スーツを着て。
 ハットを被って。
 ……目隠しをして。
 こんな変な人だったのぉ。

 あたしのよしくんを誑かすのは男でも女でもユルセナイ。

 よしくんの服を握りながら、目先の敵を睨む。


「貴方が恩人?」
「そのようですね」


 口元だけしか見えない顔でカラカラと嗤う。
 怪しい。
 怪しすぎる。
 あたしはずっとこんな奴と話をしていたのか。
 別にそんなのはどうでもいいのだけど、よしくんが特別視しているというだけで嫌悪感が凄まじい。

 まあ、でも。
 よしくんはこの人に恩を感じ、恩を返したいという。
 あたしにできることならばやってあげたい。

 服を握る力が再度強くなる。
 よしくんを守らなきゃ。


「あたしは何をすればいいの?」


 薄ら笑いを浮かべた口元。
 手を伸ばしてもギリギリまで届かない位置で、頭を下げた。


「まずは自己紹介を。私はライターと申します。『辰見』というのはペンネームでございます。相談所を営む、兼業作家でございます」
「ああ、そうですか。それでぇ?」
「私は色々なお話を聞き、問題を解決することで小説のネタ(インスピレーション)を頂いているのです」
「はあ。そうですかぁ」
「お話を聞くため。また、私自身が色々なお話に触れるため、世界を渡っています」
「へぇ。それはそれは」
「ですが、その世界を渡るためにももちろん手段が必要でございます。その手段がなくなってしまうと、私の趣味と仕事はなくなってしまいます。大好きなものを失ってしまうのです。それは避けたい。なので、移動をより確実なものにしたいのです」


 つまりなんでしょう。
 お金?
 船や飛行機?
 世界旅行でもしたいの?
 だからその手段をプライベートでほしいということ?


「周りくどいですねぇ。はっきり言ってください。お金でしたらかき集めてきますから時間も要します。早く終えてよしくんと二人きりになりたいんですけれど」
「これは失礼いたしました」


 斜め四十五度に上体を下げた。
 ライター兼、辰見というその男。
 薄ら笑いを下半分の顔面に貼り付けたまま、体を屈めてあたしの至近距離にまで顔を寄せた。
 小声で、けれどこの場にいる二人に良く聞こえるように囁く。


「貴方にご助力頂きたいのは、お金ではありません」
「違うんですかぁ。じゃあ、何です?」
「『貴方(・・)』を、ください」


 え。


「こちらへ」


 体を起こし半分後ろに体を捻る。
 誰に言ったのか。
 考えることが極端に遅くなったあたしの頭は、目の前の男が向いた先を見ることを選んだ。


 そこに、いたのは。


 車椅子。
 それに乗る、全身灰色の服を着た子ども。
 近づいてくるとベルトで拘束されているのが分かった。
 その周りを走り回る、二人の子ども。
 車椅子を押すのは、お店でしか見たことがないようなレトロなメイド服を着たナニカ。


 この場。
 この国。
 この世。
 この世界。
 どこにもあんなにも異様な雰囲気を出す者たちはいないのではないか。
 そう漠然と思った。
 よしくんの服から、手汗で濡れた手が滑り落ちた。


「な、に……あれ……」


 異様な光景に、考えたことがそのまま口じゃら溢れた。
 人型であり。
 見覚えのある衣服であり。
 車椅子という見知ったものだ。
 それなのに。
 なぜだかあそこには近づきたくない。
 近づいてほしくない雰囲気がある。
 空気が澱んでいる。
 空間が澱んでいる。
 存在が澱んでいる。
 本能が警告を鳴らす。
 ただ、あたしには、鳴らされたことがわかるだけで、だからどうするのかという『対策』まではわからない。

 滑り落ちた手にもう一度力を込める。
 あたしが一番信頼して、一番安心させてくれるその人の存在を確かめる。


「っ!!?」


 ふと、後頭部に何かが触れた。
 回した腕がよしくんを締める。


「ああ、ごめん、れい」
「……あ……なんだ、よしくん、か……」


 謝りながら、再度伝わる後頭部の刺激。
 よしくんが頭を撫でてくれていただけだった。
 そんなこともわからなくなったいた。
 ……よしくんが頭を撫でてくれるなんて初めてだ。
 温もりと優しさを感じ、少しばかり緊張が解けた。


「私は車椅子に座る彼女を助けたいのです」


 後ろから聞こえた。
 幸せを感じる後頭部の、さらに後ろから。
 いつ間にか、辰見は移動していた。
 先程よりも驚かず、状況を把握した。
 けれど、言葉の意味が理解できない。


「『あたし』が欲しい、って、どう言う意味ですか?」


 そこが重要だ。
 あたしはよしくんのものだ。
 あたしの体も、心も、なにもかも。
 あたしの一存で「はいどうぞ」とは言えない。
 よしくんはどこまで知っているのだろう。
 全て知った上でならば何も問題はないが、せめて全貌を知った上で。

 辰見は軽やかな靴音を鳴らしながら、あたしの視界に戻ってきた。


「貴方の力が必要なのです。何をしてもらうわけでもなく、ただそこにいてくれさえすればいい。これは貴方にしかできない」
「なぜそんなことがあたしにしかできないの?」
「適性があるのです。それは私独自の調査で判明したことです。詳細はお教えできません。怪我をするものでもないし、法を犯すものでもない。もちろん、それ相応の謝礼はいたします」
「謝礼……」
「はい。まず、ましのさまが恋人を支えるために契約され、膨らんだ借金、総額約一億六千万円。それを私が肩代わりいたしましょう」
「……へぇ」
「そしてお二人の生活も保証いたします。それだけの借金があってはなかなか生活もお困りでしょう。内臓(からだ)貞操(カラダ)を売ればいずれはもしかしたら、という額でしょうか。それは最終手段でしょう。ここ数日も野宿だったご様子。今後の生活の面倒も私にお任せを。私の家は部屋が余っております。ぜひお好きにお使いください」
「随分、太っ腹ですね」
「詳細を語れない怪しいことにご助力いただくのです。これぐらいはしなければ」


 自分で言うかぁ。

 条件の良さとしては怪しさは倍増以上だ。
 けれど、たしかに謝礼は魅力的すぎる。
 借金をしたことに後悔はない。
 それでよしくんが助かるなら。
 よしくんがあたしを求めてくれるなら。
 よしくんが他に行っちゃわないなら。
 どれだけの額でも安いものだし、お金には変えられなかったから。
 正直なところ、借金取りや返すための労働の時間が、よしくんとの時間を奪っていたのも事実。
 それが全てなくなるのなら、あたしはよしくんともっともっと一緒にいられる。

 ……。


「わかりましたぁ」


 よしくんを締める腕の力を抜いた。
 よしくんの顔を久しぶりに見た。
 よしくんの顔を、両手で包んだ


「よしくん、あたし、頑張る……んっ」


 よしくんの暗い色の唇が触れた。
 ああ、久しぶり。
 何時間ぶり。
 何日ぶり。
 何週間ぶり。
 何ヶ月ぶり。
 ……何年ぶり。
 柔らかくて、熱くて、少し苦い。
 唇に触れる舌が、あたしの口内に捩じ込まれる。
 あたしの意思なんて微塵も考えていないように、身勝手に蹂躙される。
 噛みつかれる様にあたしの口を覆い尽くす。
 息苦しいのに、離れたくなくて必死にしがみつく。
 こんなにも嬉しいことがあっていいのだろうか。


「っ、はぁ……」
「ありがとう、れい」


 口の中を埋め尽くした水分を飲み込んで、やっとまともに呼吸ができる。
 悲しくも離れてしまった唇に、光る、か弱い橋がかかった。
 それが途切れるのと同時に、私の体も崩れ落ちる。
 体が熱い。
 胸が苦しい。
 悦んでいる。
 幸せが体を蝕んでいる。


「あぁああぁああああっ!」


 よしくんがあたしを頼ってくれている!
 よしくんがあたしを求めてくれている!
 よしくんが!
 よしくんが!
 よしくんが!!!
 あああぁぁぁああああああああぁぁ……!
 嬉しい嬉しい嬉しい!!!
 この時のためにあたしは生まれてきたのね!!
 この時のためにあたしは生きてきたのよ!!
 すべてはよしくんのため!!
 あたしの大好きなこの人のため!!!
 あたしはこの人に全てを捧げるの!!!
 それが!!!
 それこそが!!!
 あたしの幸せ!!!


「飲みましたか?」
「ええ、たしかに」


   どくん  どくん  どくん
 どく ん  どくん  どくん  どく ん
 どくん  ど  どくん ど く  どく 
  ど どく  どくん  どくん  ど ど ど


「ぁ……」


 いきが でき  な 


「ご協力、感謝いたします。ましのさま」


 だれかが しゃがんだ


「私の血は人間には猛毒です。ですが、あなたは耐性があるのです。なぜって? 貴方は『猿』の名を冠するからです。幸いなことに名前にも『申』がある。ああ、私は何と幸運だったのでしょう」


 こえ が はん きょう する
 あ  め が   ふって き  た


「ミナをこちらへ」


 かげが きえた
 また  かげが  きた


「ごめんなーれいちゃん」


 ああ
 よし、くん だ
 よしくん の こえだ


「よしくんはもう死んでんだわー。俺は板口。よろしくしなくていいよ」


 あ  れ
 こえ   が


「俺が辰見さんからもらった異能は、こうやって別人になれるんだよ。詳細は省くけど。れいちゃんが素直な子でよかったー。仕事がスムーズに終わるのはノンストレスだからね」


  あた ま  が  ふわ  ふわ


猿野(ましの)様を横にしてください」
「はいよ」


 からだ  も ふわふ  わ


「おねーさんっ」


 みぎ ひだり  に かげ


「ありがとう! おねーさんのおかげでみんなはっぴーだよ! おねーさんがいてくれてよかった! ぎゅーっ! ユズもぎゅーってしよ! ぎゅー!」


 くるし


「フキ、ユズ、離れてください。始めますよ」
「はーい!」
「ミナ。貴方の横には貴方がなる体があります。頭の横に足。足の横に頭です。水と油の渦をイメージしなさい。混ざって、けれど分離する。漂うのは水でも油でもいい。弾き合いながら、その場を取り合いなさい。ここからは貴方の力でしかありません。……そして、猿野(ましの)様。貴方様には今一度感謝を。貴方はこの後、何もしなくて(・・・・・・)大丈夫です。気持ちを落ち着け、ただ私の声を聞いてください」



 【影響(impact)






――――― ❀ ―――――





 ()に限らず、伝説とされる生き物には生まれ持った異能(・・)がある。
 一言で言えば、自分の眷属に自分が活用するための力を授けることができる。
 そしてそれは、大まかに三種類ある。

契約(rule)
 自分と眷属を繋ぐ決まりごと。例えば、生命を共有するとか。

能力(able)
 眷属に異能を与える。例えば、変身するとか。

 そして、三つ目。
影響(impact)
 伝説の一部を取り込んだ眷属同士に特殊な状況を与える。
 例えば……今回みたいな。



 ことが終わって、地面に横たわる二人。
 一人は自由なワンピース。
 もう一人は窮屈な拘束着。
 整った呼吸音が風に紛れる。
 それに抗ったのは、地面を擦る音。
 砂や土で汚れた紫が、風に揺れる。
 髪が流れ、パッとしない表情が露わになる。
 足元に立つ私を見つけ、見上げてくる。
 夢現の様な微睡んだ瞳は、この国の人間らしく真っ黒だ。



「…………」
「おはようございます。貴方のお名前は?」
「……ミナ」


影響(impact)】は正常に作用した。
猿野(ましの) (れい)』の人格はワンピースの体から離れた。
 代わりに『ミナ』の人格が定着した。

 だんだんと思考できる様になってきたのか、『ミナ』はましのれいの体を動かす。
 体格は大きく変わった。
 身長も、手足の長さも、目線も、重さも。
 体の一部を切断した者は、体の重さのアンバランスに慣れるまで時間がかかる。
 それと同じ様に、ミナも体の状況に慣れるまで時間を要するだろう。
 けれど、ミナは永い時間、動きを制限していた。
 体を動かすと言うこと自体が遥か遠い記憶の出来事だ。
 これが『体格差を感じない()』と出るか、『動かし方を忘れた()』と出るか。
 ……動けるならどちらでもいいことだ。


「ミーナ!」
「……フキ……あ、ユズ」
「嬉しい嬉しい! ミナが元気になった! せんせー約束守ってくれてありがとう!! 嬉しい! すっごく嬉しい! ミナ! ユズ! 一緒に帰ろ! 手繋いで帰ろ! 帰ってお菓子食べよう!」
「うん……」


 かつてはどんぐりの様な見分けの三人が、姿形を変えて横並び、
 変わらず仲の良い。
 変わらずフキは喋り倒し、変わらずユズは無言を貫き、変わったミナは両手を引かれて扉へ向かう。


「板口くん」
「はいー?」
「お茶して行きますか?」
「いいんすか!? え、じゃあお呼ばれしちゃおー!」


「やっほー!」と機嫌よく三人の跡を追っていく。
 合計四人を見送ったメイドは、ただ静かに、その場に立ち尽くしている。
 こちらもいつも通り気怠げで、目は「早く帰りたい」と言っている。


「私たちも帰りましょう」


 足元に転がる、ミナの元の体を抱き上げる。
 車椅子に乗せてメイドが押す。
 整っていない地面を移動すると、当然だが体は揺さぶられる。


 それ(・・)は、小さく呻き声を上げた。




――――― ❀ ―――――