タイトル【赤い糸と真っ赤な嘘】


 その女は飽いていた。
 十代にして全てに飽いていた。

 幸いにも比較的整った容姿。
 それを好んでくれる周囲。
 もて(はや)される毎日。
 毎日。
 毎日。
 毎日。
 同じ毎日は飽いても来る。

 女は刺激を求めた。
 何か、簡単には手に入らない出来事。
 凄いこと。
 珍しいこと。
 すごいこと。
 楽しいこと。
 なんでもいい。
 なんでもいいから、この乾いた日々をどうにかしてほしかった。

 思い立つのは、普段は行かない場所に行くこと。
 学生だった女は夜の街に出た。
 学生故に制限がある。
 時間も。
 距離も。
 金も。
 それでも今までにない刺激がよかった。
 楽しかったのだ。
 だから足繫く何度も通った。

 そんな時だった。


「付き合ってくれない?」


 その台詞は聞き飽きていた。
 けれど、その風貌は目新しかった。

 学生からしたら黒いスーツというのは特別な洋装であり。
 整った容姿と大人びた風貌は周囲に言いふらすにはアドバンテージである。
 その男のことは知らない。
『怖いもの知らず』と『後先を考えず』は違うもの。
 二つ返事をした女は後者だった。


 ――それが謝りだと気付いたのは、その女の価値がなくなってきた時だ。


 初めのうちはお姫様の様だった。
 毎日のように会い。
 迎えに来てくれて。
 楽しい場所。
 綺麗な場所。
 ちょっと危なそうなところ。
 すごくすごく楽しい時間が過ぎて行った。


 ――高校を卒業する頃までは。


 齢十八歳。
 恋人に言われた。


「仕事を手伝ってくれないか」


 相も変わらず二つ返事をした。
 何をするのかは聞かなかった。
 何でもやろうと思っていたから。
 別に尽くすタイプじゃない。
 相手を信じ切っていた。
『この人が私に害になるようなことをするはずがない』
 他人からしたら『根拠のない自信』だった。
 本人からしたら『これ以上のない信頼』だ。

 進学せず。
 就職もせず。
 実家を出て、恋人の家に転がり込んだ。
 そして仕事をした。


『紹介する男に優しくしろ。
 好きそうな言葉を並べて、
 言ってほしそうな言葉を言って、
 お前が俺にするような行動をしろ。
 だが、決して追うな。
 必ず追わせろ』


 指示されたのはそれだけ。

 太った男。
 細身の男。
 地味な男。
 派手な男。
 父親程の男。
 祖父ほどの男。
 同い年ぐらいの男。
 男か女かわからない人。
 見覚えのある人。
 話が通じない人。
 話しがつまらない人。
 話しがない人。
 話さない人。

 楽しさはあった。
 難しさもあった。
 報酬はよかった。
 毎日頑張った分だけもらえた。
 だからこそ頑張れた。
 数年頑張った。

 数年のうちに、私は自分のお金が増え、使うお金が増えた。
 使っても使ってもなくならない。
 足りなくなりそうでも、少し仕事を頑張ればその日のうちに入ってくる。
 学生までの窮屈さのない生活。
 欲しい物を欲しいだけ手に入れられる。
 際限のない欲求。
 止める必要もなかった。


 ――紙が渡された。


『今から連れてくる男に同じように接しろ。
 そしてこの紙を書かせるんだ。
 書いたら俺に渡せ。
 そして式の準備に取り掛かれ。
 金はお前が振り込め。
 振り込むときは俺に言え』


 ――あ、これ、ダメな奴。


 そうは思っても、もう止められない。
 この人なしでは生きられない。
 この人の仕事でないとやっていけない。
 今までの甘い生活が脳裏にちらつく。
 これ(・・)がない生活。
 女にとってそれはあり得なかった。

 道は、一つしかなかった。


 男に甘い言葉を囁き。
 甘美なヒメゴトを遂げ。
 望んでいない願望を呟き。
 有頂天な相手は疑いこそすれ、盲目の操り人形だった。
 相手が名を書き込んだ。
 恋人に渡した。
 式の準備に取り掛かった。
 金を預かった。
 恋人に渡した。
 そのまま車に乗って、下ろされた場所はどこかもわからなかった。


 ――恋人に連れられた先で、別の名義を貰った。


「お前はもう、犯罪者だ。
 俺からは逃げられない。
 まともには生きられない。
 俺から離れるな。
 俺から逃げるな。
 何も考えなくていい。
 俺の言うとおりにしていればいい」


 ――女は恋人の操り人形だった。


 繰り返した。
 何度も繰り返した。
 何度も何度も繰り返した。

 甘言を吐き。
 一人と夜を過ごし。
 恋人との橋渡しをして。
 どこかに連れられる。
 大事にしていた物は何も持ってこれず。
 ただ粗末な部屋が与えられていくばかりで。
 けれど今更戻ることもできず。
 ただただ言われたとおりにこなす人形。
 言われたとおりにできなければ壊されそうになる使い捨て。

 ガラス玉のような瞳が曇っていた。


 ――ああ、今日も、また使われる。


 迎えは。
 時間になっても来なかった。
 唐突に訪れた自由。
 すぐには外に出られなかった。
 恋人以外の人が来るかと思ったから。
 けれど。
 数日。
 数週間。
 数カ月。
 誰も来なかった。
 足はようやく外に出た。

 今の自分は誰なのか。
 元の自分は誰だったか。
 私の故郷はどこか。
 私は今どこにいる。
 棒のような足で、枯れ枝になるまで歩いた。


 ――自分の故郷には、自分も、両親も、何も残っていなかった。


 行く当てもなく彷徨い歩く。
 雨も風も雪も、優しくない。
 けれど廃れた建物だけは、自分を受け入れてくれた。
 何も聞かず。
 追い立てず。
 冷たいけれど、確かに暖かい何かがあった。


 ――生まれ変わろう。


 再起するのは簡単ではなかったけれど、一歩踏み出した。
 贅沢な生活にはもう戻れないけど、それでもいい。
 今までの不真面目な自分とは縁遠そうなその人。
 過去を断ち切って過ごそう。


 ――そんな決意に酔った自分が馬鹿だった。
 ――過去があって、今があるのに。
 ――過去からは。
 ――逃げられない。



 その男は、特に何も思っていなかった。

 嬉しいも。
 怒りも。
 哀しいも。
 楽しいも。
 悦びも。
 恐れも。
 嫌悪も。
 期待も。
 ――愛情も。

 毎日、与えられた仕事を行い。
 仕事が円滑になる様に自分を作り。
 その毎日を途切れさせないようにルーティーン化された日常を過ごす。
 飽きもなく。
 ただその毎日が必要だったから行っているだけ。
 そう思ったわけではないが、それは『義務的』な行動だった。
 必要だからそうする。
 それだけ。
 疑問にも思わない。
『疑問に思う』ということはルーティーンに含まれていないから。


 仕事の一環で、とある女性にあった。
 女性と話すことは普段からある。
 けれど話題は決まっていた。
『仕事のこと』
 その他の話題で話したことなど遠い記憶の彼方だ。

 まあ、別に話さなくていいだろう。
 話すことは決められていない。
 仕事相手が上機嫌ならそれでいい。
 自分が話さなくても勝手に話しているだろう。


「どんなお仕事してるんですか?」
「え、じゃあ私、いつもお世話になってる!」
「すごーい!」
「毎日どんなことするんですか?」
「『×××』ってどういう意味なんですか?」
「その作業を毎日してるの!? 大変だぁ……」
「じゃ、じゃあ『■■■■』っていうのは?」
「へえええ! 難しくてよくわからないけど、なんかすごそう!」
「そんな難しいことを毎日考えってるなんて、大変ですね」
「毎日お疲れでしょう?」
「お仕事ではありますけど、疲れるっていうことは頑張っているからですよ」
「手を抜いてお仕事をすることもできるのに、あえて(・・・)頑張ってるんじゃないですか?」
「私はそう思います。だって私だったらできないですもん!」
「難しいこと考えすぎて嫌になっちゃうかも」
「好きでやってるとしても、すごいことですよ」
「お兄さんみたいな人のおかげで、私たちは快適に生活できてるんです」
「今日教えてもらえてよかったです」
「今日知ったことを毎日感謝しながら使わせてもらいますね!」


 ――予想していたよりとても話す女性だった。

 聞かれたことに返す程度しかしていない。
 けれど仕事の話しだったので復習感覚で話せてしまった。
 あっという間の二時間。
 素直にすごいと思うが、同時に恐ろしくもあり。

 ……なぜか、楽しくもあった。

 ああ、自分にこんな感情があったなんて。
 いつも通りの日常では感じ得ない。
 なんてことだ。
 あの感情。
 あの空間。
 あの声。
 あの囁き。
 あの高揚感。
 あの。
 あの。
 あの。


 また、行きたい。


 ――会いたい。


 月に一回だけだった。
 月に二回だけだった。
 隔週だった。
 週に一回。
 毎週末。
 祝日。
 隔日。
 明日。
 今日。

 毎日行っていたら話題が無くなるかもしれない。
 そう思って自分からも話すようにした。
 不器用だったろう。
 不細工だったろう。
 そう思っていたに違いない。
 おくびにも出さず、微笑みながら聞いてくれた。
 適切な相槌を打って。
 時には木霊し。
 時には質問し。
 時には深掘りし。
 時には過去の話と繋げ。
 最後には感想と、必ず「ありがとうございます」と言ってくれる。

 幸せだ。
 幸せだった。
 幸せでしかなかった。
 これを幸せと言わずしてなんというか。
『幸せ』を感受できる自分に驚きだった。
 この時の前に『幸せ』を感じられたのはいつだっただろうか。

『幸せ』がわかってしまうと、他が『不幸せ』だった。

 今まで作業で義務でしかなかったものが全て不幸でしかなく。
 苦痛でしかなく。
 より『幸せ』を欲していった。
 会いに行きたくなった。
 会って話をしたかった。
 話しを聞いてほしかった。
 労わってほしかった。
 僕の頑張りを認めてほしかった。
 感謝されたかった。


 ――『好き』


 ふわっと湧き出た感情に、全ての意識を持っていかれた。


 ――『好き』


 これは、もしや。
『恋』であろうか。


 ――『好き』


 久しく感じていなかった感情。
 青く若い頃は思春期をこじらせて認めなかった感情。
『好き』と言われて、『付き合ってくれ』と言われて、付き合った。
『好き』と言ったことはなかった。
 認めなかったのと
 ああ、これが。


 ――『好き』という感情か。


 それがわかってからは早かった。
 青みの抜けた体が、彼女を求めて走った。
 感情を受け入れてからはもう止まることはできなかった。

 少し待たされて、彼女のいる場に案内される。
 いつも通りの変わらない、屈託のない笑顔で受け入れてくれる。


 ――僕を待っていてくれたのか……?


 僅かに残った理性が否定してくる。
 そんあ僕を、彼女は簡単に否定した。


「ずっと貴方のことを待っていたの」
「今日は、ずっと話していたい」


 二人だけの空間に行った。
 二人で息を交えた。
 二人で朝日を見て。


「この朝日を、これからも一緒に見ませんか?」


 疲れてはっきりしない頭だったけれど、渡されたそれが何かわからないはずがなく。
 読み込んだうえで、名を書いた。

 そこからは早かった。

 いつの間にか連絡先があり。
 いつの間にか名が変わっていて。
 いつの間にか家を行き来するようになった。

 何時も一つの場所でしか会えなかった彼女が、すぐそばにいる。
 嬉しいことこの上ない。
 多少の不思議と不気味は、歓喜の前では『無』に等しい。
 僕の頭は麻薬でも使ったかのように浮かれていて。
 彼女のことを信じ切っていて。
 言われたままに。
 言われるがままに。
 彼女のしたいように。
 彼女のために。
 金を。
 時間を。
 感情を。
 すべてを、使った。




 ――彼女が消えた。




 連絡がつかない。
 家には何もない。
 出会った場所にもいない。
 街中どこを探してもいない。

 根拠を持って探せる場所は少なかった。
 無作為に探しても見つからなかった。
 仕事を休むことはできない。
 彼女に費やしたから、僕には金がなかった。
 彼女を探すには時間と金が必要だ。
 彼女を探す金は仕事をしなければ手に入らない。
 仕事をしていれば時間が失われる。
 仕事の時間をかけなければ金が入ってこない。
 彼女を探す時間と金が、どうしても少なくなった。

 諦めなかった。
 諦められなかった。
 諦めたくなかった。
 諦めそうになった。
 諦めざるを得なかった。
 諦めるしかなかった。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 諦め。
 ……諦めた。


 別に、なにも困ることはない。
 彼女に会う前の生活に戻るだけだ。
『義務』をこなすだけ。
 それだけ。
 ただそれだけ。

 頭ではわかっていても。
 一度知った甘い蜜は、なかなか、忘れられない。

 普段は手を出さない酒に手を出した。

 彼女と話している時に似たふわふわとした『高揚感』。
 誰に何を言われたわけでもないが、その気分が懐かしくて、浸りたくなって。
 彼女と会っていた時間は、酒を飲むようになった。
 部屋でのんびりと。
 外で賑やかに。
 森林浴は、彼女と一緒にいた頃の様に、自分の心を穏やかにしてくれた。
 酒に浸らず、雰囲気に浸る。
『義務』をこなせなくなるというのは自分を失くしてしまいそうで怖かった。
 彼女の自分が消えてしまうことが怖かった。
 どんなに二日酔いでも、なんとか仕事に行って。
 酒の量を調整しながら『義務』をこなす自分を演じた。

 酒を飲むためには買わなければならない。
 買うならば店で飲むのも良いのではないかと。
『彼女』という条件が薄れつつあることを認めないまま、見かけた店の扉を開いた。


 そしたら。


 見覚えのある『彼女』がいた。

 とある酒場にいた一人の女性。
 すごく。
 すごく。
 見覚えがあった。
 正しくは面影があった。

 何も考えないうちに声をかけてしまった。

 流れで話していれば。
 あの時ほどの高揚感はないものの、話しやすく、落ち着いた雰囲気が心を穏やかにした。
『楽しい』。
 久しぶりの感覚だった。
 名を聞けば『彼女』とは別の人だった。

 酒を飲む、という理由で、彼女と逢瀬を重ねた。
 僕の話をして。
 彼女が聞いて。
 彼女の意見を聞いて。
 僕が話して。
 彼女も話す。
 解決はなくともやり取りができる。
『彼女』は一方的に僕の話を聞いているだけだった。
 今のこの人は違う人だ。
 頭はそう言っていた。


 ――けれど心は、違っていた。


 今。
 僕は、この人と次のステップへ進もうとしている。
 かつての嫌な記憶を思い出す。
 またこの人も消えてしまうかもしれない。
 同じことを繰り返してしまうかもしれない。

 時折、考えすぎて頭を掻き毟りたくなる。
 搔き毟っている。
 冷静になるために森林浴をする。
 落ち着いてきたところで冷静に酒を煽る。
 高揚感を得る前に終え、ただの上機嫌なまま帰宅する。

 そうすれば、僕は明るい僕のまま、彼女に会える。
 かつての僕とは少し違う僕で。
 少し違う未来を描ける希望を持って。





 ―――――……





「不甲斐なくてごめんね」
「ううん。ありがとう、受け入れてくれて。これからもよろしくね」
「うん。こちらこそ、よろしく」
「ふふ、じゃあ、荷物片付けちゃお」
「片付けが終わったらお互いの実家に行く予定をたてようか」
「! 嬉しい!」
「きみのご両親はもういらっしゃらないんだよね」
「うん」
「じゃあお墓参りに行こう」
「うん!」
「じゃあ僕の実家に行こう。住所言うから、仕事の調整しておいで」
「いいの? 片付け……」
「僕がしておくよ」
「ありがとう!」


 住所を調べた。
 マップを見た。
 表札があった。
『岡平』ではない別の名前があった。


 片付けをした。
『大事』と書かれた彼女の荷物を開いた。
 名前が書いてあった。
『羊木』ではない別の名前だった。


 二人の目があった。





―――――――――……


「私にとっては、お話になりそうな山場がない時点で興味が失せているのです。だから、二人が一緒に暮らしてから山場が起ころうともどうでもいい話。山場がどのような結末になろうが、私にとっては些末なことなのです。『殺されてもいい』と言っていた彼女はどうなるのでしょうか。『幸せになれるか』と問うてきた彼は、それを目指すのでしょうか。……ふむ。たまにはこういうのもいいかもしれませんね」