タイトル【捕食欲求】


 僕には好意を寄せている相手がいた。

 見眼麗しく。
 上品で。
 お淑やかで。
 人気者。

 遠くから見ているだけで十分だったのだ。
 自分は不釣り合いだから。

 みすぼらしく。
 異臭がして。
 ノロまで。
 不人気。

 かの人を好きだと言う自覚さえも自分で恥じてしまうほど、僕は自分を『みっともない存在』だと思っていた。
 かの人を想うと自分が嫌になる。
 かの人を追うのは少しずつ辞めることにした。


 ある時、後ろに気配がした。
 自分を追い抜く存在は良く認識していたが、自分を追い越さないようにしている気配がした。
 特徴的で、異質。
 その息を潜めている様子が身の危険を感じさせた。

 恐怖に身を縮めながら振り向く。
 襲われようとも、何も知らない間にやられるのは嫌だった。

 黒い濡れ髪が目に入った。
 日傘をさして影の中にいるのに、白い肌はなぜか反射している様で。
 少し垂れた大きい目は自分を吸い込んでいくようで。
 魅惑の体に思わず手を伸ばしたくなったのは一度や二度じゃない。
 細い腰つきに抱き着きたいと思って堪えては、自分を苦しめた。
 正式にそう言うことができると思わなかった。
 けれど違法に手を染めることはしなかった。
 だけど当たって行こうとも思わなかった。
 当たって、跳ね返されたら、生きてはいけなかった。
 辛い対応をされるのは、心も体も耐えられないだろうと思った。

 どうして、僕が距離を置いたあなたが、距離を詰めているのでしょうか。
 そんな可愛らしい顔をして。
 女の子らしく胸元に手を寄せて。
 腕と胸を寄せて。
 身を捩って。
 どうして、そんなに僕を魅了するのですか。

 気概のいい彼女は何でもやってくれた。
 計画性があって。
 物知りで。
 気概があって。
 愛嬌があって。
 なぜ僕のそばにいてくれるのだろう。
 あまりに甘すぎて、身も心もどうにかなってしまいそうだ。

 こんな、何もない僕なのに。
 どうしてそんなに笑いかけてくれるのですか。
 ごめんなさい。何もできなくて。
 ごめんなさい。かっこよくなくて。
 ごめんなさい。手際が悪くて。
 ごめんなさい。どんくさくて。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 僕から君にできることがなくて、ごめんなさい。




 ―――――……




 彼女に子ができた。
 そう聞いたのは、彼女の家に招かれたときだ。
 子ができたのだからと、それなりに身構えていた。

 けれど。


「娘が子を宿している間の責任は取ってもらう」


宿している間(・・・・・・)』、とはどういうことか。
 恐る恐る聞いてみると、家の内部へ通された。
 腕に抱き着き、先を進むよう引かれる。
 平屋だと思った家には地下室があって。

 その一つを、与えられた。


「これから一緒に、お腹の子を育てましょうね」


 ……ああ。わかったよ。
 僕はこれから、君と誰ともわからない子のために、この身を捧げよう。
 
 それが、何のとりえのない僕にできる、君への唯一の尽くし方だ。

 僕の御役目はいつだろうか。
 君と、お腹の中の子の力になれるならば、僕はどんなことでもしよう。
 そしてその日数や回数分だけ、僕は自分に自信を持つことができるだろう。

 そう思い続け。
 この部屋に来てから、早九十日が過ぎようとしていた。
 もう、数える力もなくなってきた。





 ――――― ❀ ―――――



「相手のために何かしようとしない『怠惰』と、より良い相手を欲する『強欲』。本陣は向き合っているのに意図的に反らしているような甘酸(あまず)っぱいご相談でした。いえ、このお話に限っては甘塩(あまじょ)っぱいと表現いたしましょうか。私が束様とお話ししたとき、蝸牛が生きていたのでしょうかね。生きていれば、二人で歩む道もあったかもしれません」