「噂なんだけど」と、里菜が神妙な面持ちで僕に話しかけてきたのは、二人の休みが被る日の前日の仕事終わり、僕の家に彼女が遊びにきた日のことだった。僕は着替えのTシャツを頭から被ったまま「ん?」と答えた。風呂上がりに下着姿でいたら、里菜が困ったように「誘ってんの?」と言ってきたから、仕方なく服を着ようとしたのだ。
「アキトの班の新人くん、ほら、アキトの横乗りで最初頑張ってたコいるじゃん」
「相良?」
「そうそう!そんな名前の!」
「相良がどうかしたの」
 その日の時点で、、僕は社員食堂で相良と会ったきり、彼とは会話をしていない。営業所内で姿を見かけてはいたが、僕も相良も自分の業務で手一杯だったのだ。
「神田川さんに虐められているんじゃないかって、カスタマーの女の子たちの間で話題になってるの」
「え!?」
 神田川というのは、相良の直属の上司の名前だった。僕の脳裏に、その男の姿が思い浮かぶ。歳は三十代で、ドライバー職の主任をしている。性格は明るい方ではなく、寡黙な
男であるというのが僕の印象だった。だから、時に彼の思考が分からず、あまり関わりたくない人物ではあった。主任という立場を担っているから、仕事は随分出来るんだろうなとは思うけれど。
 営業所には、担当する地域がいくつかあって、その数だけ、社員は班ごとに分けられている。班の名前は、主任の苗字をとって、〇〇班と呼ばれており、そうすると相良の所属しているのは、神田川班ということになる。ちなみに僕の班は、久住班。久住主任は、いまだに僕のことを新卒扱いする、色んな意味で面倒見の良いおじさんだ。
「少し前にね、クール便の冷凍庫に、相良くんがいたのよ。夜、ドライバーのみんなが仕事を終えて帰った後、たまたまカスタマーにクール便の再配達の問い合わせがあって、担当の子が残荷を見にいったら、中に相良くんがガタガタ震えながらしゃがみ込んでたって。相良くんは荷物を片付けてたら、その間になぜか扉が閉まっちゃって、中から開けられなかったって言ってたみたい。でもあそこ、外から鍵をかけない限り、開けられないってことはないでしょ?」
「うん、多分」
 僕が曖昧な返事しかできないのは、普段無意識にそこを出入りしているから、扉の仕組みが思い出せないからだった。
「相良くん、その子に『まじあざっす、助かったっす。ちょっとだからって、コートを着ずに入ったらえらい目に遭っちゃったっす。ヒヤリハットっすね』ってえらく感謝してたらしいし、それ以上何も言わなかったから、大ごとにはならなかったけど、よく考えたら怖いよね」
 僕も、仕事の日は連日そこに立ち寄ることがある。冷凍庫内は年中氷点下だから、夏でも半袖シャツのまま中に入ると、刺すような冷気が全身を襲ってくる。そのため、冷凍庫の横には誰でも着られる分厚いアウターが置いてあって、中で作業をする際にはそれを着用するように決まっている。とはいえ、ほんの数十秒、長くても数分で終わる庫内の作業のために、それを脱ぎ着する時間は惜しいから、僕を含め、大抵のドライバーは制服姿のまま中に入っている。相良も、例に漏れずそうだったのだろう。そのために、ひどい目にあったというのだ。
 しかし、普段あそこに鍵はかけないはずだ。夜中は知らないが、少なくともドライバーがまだ作業をしている時間帯はいつでも開閉ができるようになっている。相良が中から扉を開けられなかったのは、誰かの過失で、もしくは故意に、扉を開けられないようにされていた、ということだろう。
「だけどそれを誰かにやられたとして、どうして神田川さんの名前が出てくるんだよ。今のままだと、営業所の全員が犯人だって言えるだろ」
「それだけじゃないのよ。先週だったかな、更衣室で、神田川さんが相良くんに詰め寄ってるのを見たって人がいるの。なんか、お前の配達が遅いから俺が帰れないみたいなことが聞こえてきたから、ちょっと気になって中を覗いたら、扉に背中を向けて神田川さんが立っていて、その向こうに相良くんが怯えた表情で立ってるのが見えたって。着替えの途中で神田川さんが入ってきたのか、相良くんはくしゃくしゃの制服をぎゅっと握り締めて、汗びっしょりだったって、言ってたわ」
「やることがえげつないなあ」
 僕は、神田川の姿を思い浮かべる。確かに、あいつに詰め寄られると、怯えてしまうのもわかる気がする。体育会系の男が多い職場には珍しい、どこか冷たい印象を持つ眼鏡の男だ。
「みみっちい男よね、あいつ。新人の仕事が遅いのなんて、当たり前じゃない。それをカバーするのが先輩ってもんでしょ。なのに、目の敵にしていじめるってダサすぎ。アキト、相良くんのためにガツーンと言ってやりなよ」
「ええ!?ああ、うう」
 里菜は、もう完全に神田川が相良を虐めていると思っているようだ。僕だって、里菜の話を聞くと、そうじゃないかと思ってしまう。世の中には、上に立つべきでない人間が、その立場に胡座をかいていることなんて、ザラにあるのだ。
「体だけは逞しいくせに、何ビビってんのよ。それともその肉体は、私とセックスするだけのもの?」
 里菜はそう言って、僕をソファーに押し倒してきた。「そうじゃない」と僕はモゴモゴ言って、里菜を抱き寄せる。里菜は僕の胸板に顔を埋め、僕は里菜の頭頂部に顔を埋める。シャンプーの香りが、僕の鼻腔を撫でる。里菜のひんやりとした指先が、僕の腹筋を撫でる。里菜は筋肉フェチなのだ。それを隠そうともせず、行為の際は、僕の体を持て余すことなく堪能する。
 僕たちはどちらから示し合わせたわけでもないのに、抱き合ったまま立ち上がり、ベッドへ移動した。布団に入り、互いの衣服を剥ぎ取っていく。里菜は再び露わになった僕の胸に顔を埋め、その歯で僕の乳首を噛んだ。
「うっ……」
 吐息と共に、僕の口から声が漏れる。里菜は、僕が弱いところをよく知っている。流石だ。僕は里菜の首筋にそっと口づけをする。里菜の乳房が、僕の腹に触れる。里菜がくすぐったいのを我慢するかのように、クスクスと笑う。ベッドの軋む音が時折鳴り、僕たちはすぐに汗ばんだ。冷房の風が、より冷たくなって、僕たちを撫でる。
「アキト、好き」
「……うん」
 ひと段落して、僕の腹の上に顔を置いた里菜が、呟いた。やむなくして、彼女は眠りに落ちるであろう声色だった。僕はといえば、行為に集中できずにいた。いつまでも、相良のことが心に焼き付いてはなれなかったのだ。折角の彼女と共に過ごすはずの一夜なのに、僕は彼女のことよりも、職場の後輩のことを考えていたのだった。

 セックスをした翌朝の、日常が何事もなく始まる感覚が、僕は好きだった。昨晩、あんなにも激しく愛を確かめ合った二人が(僕は集中していなかったけど)、それに触れることもなく目覚め、日常のルーティーンを始めていく。学生時代なら、それが面映くも感じたこともあったけれど、今は何ともない。人は、この世の全てにおいて、何事も慣れていってしまう生き物なのだろう。
「やだ、ご飯炊き忘れてるじゃない!アキト、パンでいい?」
 里菜はすでに服を着て、僕の家のキッチンに立っていた。僕はというと、お決まりの下着姿で、ポリポリと脇腹なんかをかいて「いいよ」と返事をした。そのままベッドに横たわり、里菜が調理をしている音を聞いていた。