「アタシがアキトくんとリナちゃんの仲に口を挟む権利はないけれど、貴方よりも少し多い時間を生きてきたアタシが言えることがあるわ。……どんな出会いでも、そこにはお互いにしかわからないえにしがあるの。自分と同じ人間が世界の何処にもいないように、そのえにしも、唯一無二なものよ。アキトくんとリナちゃんの辿ってきた物語がどんなものであっても、結末を急いじゃだめ。焦ってその場しのぎで描いた物語なんて、陳腐でしかないからね」
 今度はクルミをつまんで、僕はじっと久城さんが言ったことの意味を考えていた。別れるか、別れないかはともかくとして、結果を導き出すのを急ぐなということだ。感情やその場の雰囲気に自分が圧されるのではなく、自分のことも相手のこともちゃんと考えないと、この先何度も後悔することになる。
 一度でも現実に吐露した想いは、どんなものであってもかたちとなって当事者たちの心に残っていくのだから。
 クルミを飲み込んだときには、僕はもう心に決めていた。
 ちゃんと里菜と話そう。だって僕は里菜のどんな一面だって、一度はすべて受け止めると決めたんだから。ころころと気持ちの変わる男だと思われてもいい。これは僕と里菜、ふたりの問題なのだ。
「ありがとうございました」
「アキトくんがちゃんとゆっくり考えて出した結論は、きっとどんな形であれ貴方の味方をしてくれるはずよ」
 久城さんの言っていることがよく分からなくて、僕は曖昧に頷いた。
「えっと、そろそろ僕帰りますね」
そう言って立ち上がったのは、店に来てから一時間以上が過ぎたころだった。いま店内にいる客の中で、最後に入ってきたのは僕だったけれど、最初に退店するのも僕ということになった。
 久城さんは「また来てね」と微笑むと、出入口まで出てきて僕を送り出してくれた。
 リンリンとベルを鳴らしながら、スナックの扉が閉まると、急に辺りが静かになった。あれだけ盛り上がっていたカラオケの音も、今はすっかり静かになっている。
空を見上げる。夏の夜空には雲がたっぷりと敷き詰められていて、星は見えない。湿っぽい空気がどんよりと体にまとわりついてくる。
蒸し暑い。半袖シャツ一枚だというのに、すぐに汗がじんわりと滲んでくる。生暖かいそよ風に吹かれながら、僕は駅までの道をゆっくりと歩いた。
 いつの間にか僕は、久城さんの店に通うようになっていた。家にひとりでいると、いろいろなことを悶々と考えてしまうから、誰かと一緒の空間で暇を潰すことを望んでいた。それは、実質的に里菜と距離をおくようになってから行うようになった習慣だった。予定が合う休みの日は二人で過ごしていたし、それ以外の日は清志と会ったりしていた。里菜と清志くらいしか交友関係のない僕が、片方の付き合いをやめれば暇を持て余すのは必然といえる。
 
 駅のホームに立って電車を待つ。夜の遅いこの時間、都市部ではないこの町は、一時間に三本ほどしか電車が来ない。ちょうど数分前に先発が駅を出てしまっていたらしく、十分ほど待つことになった。
 ホームには人がまばらで、それでも明かりは煌々と灯っている。背中いっぱいの大きなリュックを背負った男子高校生が、スマホをいじっている。仕事帰りと思わしきスーツ姿のサラリーマンが、体のわきにだらりと鞄を提げてぼーっと空中を眺めている。ホームの端のほうでは女性の三人組が、けたたましい笑い声をあげて、静寂を突き破っている。彼ら彼女らも、この世界に生きる人間のうちの一人で、それぞれに生活があって悩みもある。
 もしかしたら笑い声をあげている女性たちのなかには、その心の内に、漠然と希死念慮を抱いているひとがいるかもしれない。スマホをいじくっている男子高校生は、部活が終わって塾に行き、なんのためにこんな夜遅くまで勉強しなきゃいけないんだと不満を抱いているかもしれない。
 僕たち人間は、なぜ知能と感情を併せもって生まれてきたのだろう。なぜ自分の気持ちを、言葉に表せるようになったのだろう。そして言葉は、なぜこんなにも種類があるのだろう。種類があるのになぜ、言葉にはできない気持ちがあるのだろう。
清志は自分がゲイだと告白してきた。なぜあのタイミングでと、日が経つにつれその疑問は膨れ上がってきている。多様性のこの時代に、「カミングアウト」という言葉には、同性愛者が自分の性的嗜好を打ち明けることという意味も含まれていると知ったのは、清志の件があってからだった。
 清志はきっと、自分がずっとひた隠してきた僕への気持ちを曝け出してなお、僕の身を案じてくれたのだ。このままじゃいけないと。
 それは喜ばしいことなのだろうか。僕を無条件の愛情で包み込んでくれるような誰かがいて良かったと、心に湧いた幸せな感情を尊んでいいのだろうか。わからない。
 ただ、清志とのあいだに、友達としての関係を超えたなにかがあったとして、それで僕たちがずっと仲良くいられるなら、それはそれでいいのかなと思ったことは、紛れもない事実だ。