「僕、里菜と別れようと思ってます」
 そう言ってグラスをあおる僕の顔を、久城さんは見つめ返してきた。
「あら、ようやく決断をしたの?」
 久城さんの店には、僕以外に数組の客がいる。テーブル席に座って仲間うちで盛り上がっている中年のグループと、僕よりすこし年上くらいの二人組、それに六十代くらいの一人客。いずれもみんな、男性客だった。
 天井から吊り下げられているスピーカーからは、カラオケの音源が流れている。中年のグループの一人が、マイクを持っているのがみえた。
 僕が生まれるよりも前に流行った曲だ。今まで友人だと思っていた女性が水着姿になって、まるで別人のようだとときめいてしまうひと夏を描いた歌詞は、聞いていると思わず曲に合わせて西暦を口ずさんでしまう。英語の授業のときに、外国語は西暦の読み方がすごく特徴的だなと思った記憶すらも同時に蘇ってくる。
 まるで別人のようだ。
 服を脱ごうと脱がまいと、付き合う前と付き合い始めたあとでは、別人に変貌する人というのは、男女関わらずいる。そしてそれは大体よくない方に作用する。
 ——里菜……。
 本当に好きだった。……好きだった……。好きだった……はずだ。
「最近、彼女と一緒に過ごしている未来が想像できなくて……」
「それは結婚ってこと?」
「結婚も含めてです」
 一般的に、カップルが結ばれて順調に交際が続いた場合のいく末は、結婚だ。時代は多様性だのなんだのと言われているが、男女が結婚して子供を産んで家庭をもつという一連の流れは、人生設計のなかに遺伝子レベルで組み込まれているようなものだ。
 みんな結局、自分の人生のパートナーを見つけるために、密かに頑張っているもんな……。
 里菜は僕の結婚相手に相応しいのだろうか。そして僕は、里菜の結婚相手に相応しいのだろうか。
「でも……いざ別れようと思うと、彼女と過ごした楽しい思い出ばかりが蘇ってくるんです」
 このあいだ清志と話をしたあと、里菜と別れるためにはどうしたらいいかを考えた。
 僕は悪くない。里菜が僕をサンドバッグかなにかと勘違いして一方的に暴力を振るってくるのが悪いんだ。それさえなければ、嫌な気持ちになることもないのに……。
 でも……。清志に別れを薦められたから、僕はこんな気持ちになっているんじゃないだろうか。
 僕は人の言ったことや評価に、すぐ左右されてしまう傾向にあることを自覚している。
昔からそうだった。
 水泳部に入ったときも、別の部活と悩んでいたけれど、清志に「アキトは水泳部が似合ってるぞ」と言われて、その気になって決断した。
家電や家具を買うときも、ネットのレビューや動画サイトの商品紹介動画をしらみつぶしに確認してから選んだりする。そのとき、自分が良いなと思った商品でも、レビューの評価が散々だったら「あ、これはよくない商品なのかもしれない」と思い直すこともしょっちゅうだ。
だから今回も例に漏れず、清志の意見は自分の気持ちと同じだったと思い込んでいる可能性がある。
「僕は里菜の良いところも悪いところも、全部受け止めてやるつもりでいました」
 カラオケの音源が止む。久城さんが拍手をして、「もう一曲歌ってほしいな」と、団体のお客さんたちに声をかけた。
 アルコールのまわった彼らは上機嫌に、次はなにを歌おうかと盛り上がっている。
「す、すみません、久城さん! 他のお客さんもいるのに」
「いいのいいの、彼らはみんな常連だから、アタシがアキトくんと話し込んでいても、各々で好き勝手やってるから大丈夫よ」
 そう言って久城さんは、僕の空いたグラスにトポトポと追加の梅酒を注ぎ入れた。
「……自分でもどうしたらいいのかわからない。少し前までは里菜のすべてを受け入れてやるって、意気込んでたのに」
 それはかつて久城さんの前でも宣言したことだ。あれからひと月も経っていないというのに、なんだこの心の変わりようは。
 カラオケの音源が再び流れ始める。今度はさっきと違う人がマイクを握っている。聴いたことのある曲だ。
 国民的ヒットソングを連発して、これからの活躍も期待されたというのに、不慮の事故で急逝した女性アーティストの曲だった。
 好きな人に逢いたくなったら、逢えるその日まで頑張ろうと意気込む主人公がふたりの出会いを回顧し、相手のことが好きでかけがえのない大切な存在だからこそ、少しだけ距離を置いて自分のことやこれからの未来を見つめ直したいと考えている。
 おじさんのダミ声で歌われるその曲を聴きながら、僕はカシューナッツをひとつつまみ、口に放り込んだ。
「アキトくん」
 久城さんが僕の名前を呼ぶ。僕はナッツを咀嚼しながら久城さんの顔を見る。