僕は、なにか夢があって、それを成し遂げたいという野望を抱いているわけではない。ただ過ぎていく毎日を、惰性のように過ごしているだけだ。それなのに、このままでいいのか、という気持ちを常に心の底に抱いている。
この広い世界の、日本という国の、ほんのちっぽけな地方都市に生きている僕は、宇宙規模でみればミジンコのような存在なのだろう。ある日突然僕がこの世から消えたとしても、世界は何事もなかったかのように先へと進んでいく。
生きているうちになにかを残さねば、僕の人生とは儚く散っていってしまうのかもしれない。億単位で積み重ねてきた地球の歴史の、ほんの百年ほどの時間の長さなど、取るに足らない事象のうちのひとつでしかない。
僕たちが恐竜のいた世界の様子を想像でしかはかることが出来ないように、仮になにかを残したとしても、遠い未来にはなにも残っていないのかもしれない。
自分が死んだあとのことなんてどうしようもないのに、自分が生きていたという事実がそこで消えてしまうことを恐れている。
学生のときに読んだ国語の教科書に、人の一生の価値を詠った詩が載っていた。どうせ忘れ去られる人生に価値はあるのかと、その詩は問いかけている。自分がこの世から消えるということは、世界には何のダメージもない。無常な世界の摂理を表したその詩は、歴史上に、自分とまったくおなじ人間が生きていた軌跡はひとつもなく、自分という一人の人間がこの世界に生きていたという事実は永久になくならないと締めくくっている。
学校で習ったことの多くは忘れてしまったけれど、印象に残っている作品のうちのひとつだ。
「ちょっと考え事してたら、腹が痛くなった気がして……」と清志に言うと、水槽のそばにあるベンチに座るように促された。
「アキトはいつも考え事してるよな。疲れないか?」
苦笑する。ずっと思考を巡らせていて疲れる……というのがどういう感覚なのかが分からなかった。
「オレ、水買ってきてやるよ」
そう言って自販機に向かって駆けていった清志の背中を見送る。鮮やかな緑色の開襟シャツの裾が風に翻ってなびいている。短パンの尻ポケットから財布が落ちて、慌てて拾う清志。
——あいつは、僕のことが好きなんだよな……。
ふいに蘇ってくる、先日の彼からの激白。
水族館で一番大きな水槽はドーム型になっていて、僕がいるこの空間はトンネルの中にいるようにして足元以外の空間を魚たちに囲まれている。
みんながはしゃぐ喧騒が遠くに聞こえる。ここにはいない清志の声が、一番近くに聞こえてくる。
こんなこと言われるのは、困るかもしれねえけど……オレ、アキトが好きなんだ。
並大抵の覚悟では出来なかっただろう。もしかするとあいつの人生の中で、一番勇気を振り絞った行動だったかもしれない。それなのに僕は、曖昧な返事をしてしまった気がする。
清志はなにを思って、あのタイミングで僕への気持ちを吐露したのか。里菜からストレスのはけ口にと蔑ろにされている僕を不憫に思い、里菜以外にも、僕のことを大切に思っているやつはここにもいるんだぞと言いたかったのか。だから別れろよ。そんな暴力女。一緒にいてもなんもいいことないぞ。
里菜と別れたほうがいいんだろうか。
自問しても、疑問と躊躇いばかりが頭の中をぐるぐると回るだけで、答えを導き出せない。
清志は僕の身に危険が及んだとき、躊躇なく身を挺して助け出してくれるだろう。あいつはそういう奴だ。たとえば里菜の暴力がこれから先もエスカレートして、僕に命の危険が迫ったとき、なんとか清志に連絡をとることができたら、あらゆるものをひっくり返してでも駆けつけてくれるかもしれない。
それは所詮僕の願望だけれど、あいつにはそういうことを思わせてくれる安心感がある。
親友のままでいてくれたらいいと、清志は言った。僕は清志のことが好きだ。大好きだ。それは紛れもない事実だけれど、清志のいう「好き」と同じ意味なのか、いまの僕には分からなかった。
「アキト! ほら、飲めよ」
水分補給をしろと、清志は付け加える。ペットボトルの水を受け取った僕は、彼に言われるがままに水を飲んだ。
僕たちが摂取した食べ物や飲み物は、やがて栄養となり、不要な分は排泄物となって体の外に出ていく。それと同じように、僕たちが抱いた不要な感情も、きれいさっぱり流れていってくれたらいいのに。
余分に蓄えられた脂肪のように、それはずっしりと重く、心にのしかかっている。心も体も重くなる。痩せようと努力すれば脂肪は消えていくけれど、心に溜まったわだかまりはなかなか消え去ってくれない。
「キヨ、ありがとう、ちょっとすっきりした」
清志が安堵したように微笑む。よかったと呟いて、僕の隣に腰掛ける。
いまの僕には、里菜と一緒にいる未来が見えないけれど、清志とこれからもこうしてつるんでいくんだろうなという予感ははっきりと持てる。
なんだ、簡単じゃないか。つまりはそういうことなのだ。
この広い世界の、日本という国の、ほんのちっぽけな地方都市に生きている僕は、宇宙規模でみればミジンコのような存在なのだろう。ある日突然僕がこの世から消えたとしても、世界は何事もなかったかのように先へと進んでいく。
生きているうちになにかを残さねば、僕の人生とは儚く散っていってしまうのかもしれない。億単位で積み重ねてきた地球の歴史の、ほんの百年ほどの時間の長さなど、取るに足らない事象のうちのひとつでしかない。
僕たちが恐竜のいた世界の様子を想像でしかはかることが出来ないように、仮になにかを残したとしても、遠い未来にはなにも残っていないのかもしれない。
自分が死んだあとのことなんてどうしようもないのに、自分が生きていたという事実がそこで消えてしまうことを恐れている。
学生のときに読んだ国語の教科書に、人の一生の価値を詠った詩が載っていた。どうせ忘れ去られる人生に価値はあるのかと、その詩は問いかけている。自分がこの世から消えるということは、世界には何のダメージもない。無常な世界の摂理を表したその詩は、歴史上に、自分とまったくおなじ人間が生きていた軌跡はひとつもなく、自分という一人の人間がこの世界に生きていたという事実は永久になくならないと締めくくっている。
学校で習ったことの多くは忘れてしまったけれど、印象に残っている作品のうちのひとつだ。
「ちょっと考え事してたら、腹が痛くなった気がして……」と清志に言うと、水槽のそばにあるベンチに座るように促された。
「アキトはいつも考え事してるよな。疲れないか?」
苦笑する。ずっと思考を巡らせていて疲れる……というのがどういう感覚なのかが分からなかった。
「オレ、水買ってきてやるよ」
そう言って自販機に向かって駆けていった清志の背中を見送る。鮮やかな緑色の開襟シャツの裾が風に翻ってなびいている。短パンの尻ポケットから財布が落ちて、慌てて拾う清志。
——あいつは、僕のことが好きなんだよな……。
ふいに蘇ってくる、先日の彼からの激白。
水族館で一番大きな水槽はドーム型になっていて、僕がいるこの空間はトンネルの中にいるようにして足元以外の空間を魚たちに囲まれている。
みんながはしゃぐ喧騒が遠くに聞こえる。ここにはいない清志の声が、一番近くに聞こえてくる。
こんなこと言われるのは、困るかもしれねえけど……オレ、アキトが好きなんだ。
並大抵の覚悟では出来なかっただろう。もしかするとあいつの人生の中で、一番勇気を振り絞った行動だったかもしれない。それなのに僕は、曖昧な返事をしてしまった気がする。
清志はなにを思って、あのタイミングで僕への気持ちを吐露したのか。里菜からストレスのはけ口にと蔑ろにされている僕を不憫に思い、里菜以外にも、僕のことを大切に思っているやつはここにもいるんだぞと言いたかったのか。だから別れろよ。そんな暴力女。一緒にいてもなんもいいことないぞ。
里菜と別れたほうがいいんだろうか。
自問しても、疑問と躊躇いばかりが頭の中をぐるぐると回るだけで、答えを導き出せない。
清志は僕の身に危険が及んだとき、躊躇なく身を挺して助け出してくれるだろう。あいつはそういう奴だ。たとえば里菜の暴力がこれから先もエスカレートして、僕に命の危険が迫ったとき、なんとか清志に連絡をとることができたら、あらゆるものをひっくり返してでも駆けつけてくれるかもしれない。
それは所詮僕の願望だけれど、あいつにはそういうことを思わせてくれる安心感がある。
親友のままでいてくれたらいいと、清志は言った。僕は清志のことが好きだ。大好きだ。それは紛れもない事実だけれど、清志のいう「好き」と同じ意味なのか、いまの僕には分からなかった。
「アキト! ほら、飲めよ」
水分補給をしろと、清志は付け加える。ペットボトルの水を受け取った僕は、彼に言われるがままに水を飲んだ。
僕たちが摂取した食べ物や飲み物は、やがて栄養となり、不要な分は排泄物となって体の外に出ていく。それと同じように、僕たちが抱いた不要な感情も、きれいさっぱり流れていってくれたらいいのに。
余分に蓄えられた脂肪のように、それはずっしりと重く、心にのしかかっている。心も体も重くなる。痩せようと努力すれば脂肪は消えていくけれど、心に溜まったわだかまりはなかなか消え去ってくれない。
「キヨ、ありがとう、ちょっとすっきりした」
清志が安堵したように微笑む。よかったと呟いて、僕の隣に腰掛ける。
いまの僕には、里菜と一緒にいる未来が見えないけれど、清志とこれからもこうしてつるんでいくんだろうなという予感ははっきりと持てる。
なんだ、簡単じゃないか。つまりはそういうことなのだ。