「城谷、ちょっと」
ドライバーズルームに、久住主任がぬっと現れた。通路から、本当に「ぬっ」と姿を見せたものだから、全く気配を感じなかった。柱の影に隠れるようにして、彼は僕に手招きをしている。僕は「なんだろう」と思いながら、テーブルの上に広げていたお金をかき集め、まとめたあと、久住主任に駆け寄った。
「神田川班の、相良くんのことは聞いているだろ?」
「はあ」
間の抜けた声が出る。それ以上は何も言わず、次の言葉を待つ。
「少し話を聞かせて欲しいんだ。係長と、課長がお呼びだ」
「僕を、ですか?」
そうだと、久住主任は頷いた。「相良くんは、城谷によく懐いていただろう」
僕は横目で田曽井を見た。僕の目配せに気付いた彼は、こちらに駆け寄ってくる。
「俺も。参加させてください」
営業所の階段を上がり、僕たちは事務所の奥にある小部屋に通された。カスタマー課の机が並ぶ脇を横切ったとき、何人かの女性社員たちにちらちらと視線を投げかけられたものだから、なんだか僕たちが悪いことをして、連行されたような気分になった。その中には里菜もいて、ちょうど目を丸くしながらこっちを見た彼女と目が合った。
「入ります!」
小部屋の入口で気をつけの姿勢をとり、僕は叫んだ。中には管理職がいるのだ。目上の人がいる部屋に入る時は、そのような掛け声をしなければならないという、シバイヌの古臭い風習に従ったのは、どうやら僕だけのようだった。
「今はいいよ」
久住主任が苦笑する。田曽井の肩が震えている。僕は心まで赤面しながら、部屋の中に入った。
部屋の中には、課長と係長がいた。革張りの焦茶色のソファーに身を沈めて、二人並んで座っている。山寺課長と、京島係長だ。僕だって流石に自分の直属の上司の名前くらいは覚えている。相手が僕のことを認識していなくとも。
「お疲れさん」
山寺課長は、僕の顔を見るなり、そう言った。僕の倍くらいはある顔の大きさだ。その分、体格も横にも縦にも大きい。白髪が混じり始めた頭髪を、ジェルで固めている。オールバック。管理職になると、威圧感を競い合うコンテストでも密かに行われているのだろうか。
「時間をとらせてすまないね。座りなさい。久住くんは下がって」
京島係長だ。山寺課長より年上なんじゃないだろうか。来年還暦を迎えるとかなんとか、誰かが言っていたような気がする。こちらは随分と小さく、失礼ながら初老のお爺さんを連想させる見た目だ。この場にいる誰よりも小さい。皺が刻まれた目尻が濡れている。今日の田曽井並みに、普段から顔が青白い人だ。
僕と田曽井が二人の管理職と向かい合って座り、久住主任が会釈をして部屋を去ると、山寺課長がふと真顔になった。
「あの、なんと言ったかな、新卒の」
「相良です」
山寺課長は、相良の名前を思い出せなかったようで、僕がすかさず補足すると、「ああ、そうだったね」と頷いた。
「相良君が無断欠勤を続けているそうで、社内に様々な憶測が飛び交っているようだね」
「憶測ではなく事実です」
田曽井は背筋をピンと伸ばして、言葉を切った。太腿の上に両の握り拳をのせて、彼はまっすぐに山寺課長の顔を見ている。
「城谷君、君は、相良くんと社内で最も親しかったと聞いているが、君から見て、彼の様子に変わったところはなかったか?」
山寺課長は、一旦、田曽井の発言を無視することに決めたようだ。視線を隣の僕に向けて、問いかけてきた。
「あっ、えっと……」
僕は突然話を振られると、途端に戸惑ってしまうことがよくある。頭の中に用意している言葉はあるのに、いざ話そうとすると、それがあらゆる雑念とともにごちゃごちゃになって、何も出てこなくなってしまうのだ。
「た、確かに、相良とは仲が良いと思います」
田曽井の鋭い視線を感じて、僕はしどろもどろにそう言った。先日の諍いの件を除いて……と、頭の中で補足する。
「えっと……その……」
口ごもり、田曽井の顔をちらりと見る。これ以上彼の眉が、鋭角に跳ね上がるのは見るに耐えないので、僕は意を決して、言葉を発した。
「神田川主任と、うまくいっていないようです」
山寺課長と京島係長は、互いに顔を見合わせた。要点を得ていない僕の説明がもどかしかったのか、二人ともにうっすら苦笑いを浮かべている。
「具体的にはどういうことなのかな?」
「……」
別に自分が責められているわけではないのに、どうしてこんなにも後ろめたい気持ちになるのだろう。管理職に神田川と相良の確執が伝わってしまえば、僕が告げ口をしたと悟られてしまうと危惧しているからだろうか。神田川と僕にはそれほど接点はないから、今後僕にその矛先が向けられる可能性は低いけれど、そんなことよりも自分の言動で誰かの人間関係が大きく動くであろう結果がみえているから、どうにも心地が悪い。
「ぐずぐずやってねえで、早く言えよ」
田曽井だ。僕がしどろもどろなせいで、ついに堪忍袋の緒が切れたのだ。元々そんなに悠長な性格ではないけれど。
僕は重い口を開いて、自分が知りうる限りのことを話した。冷凍庫のこと、ロッカーでのこと、よく呼び出されてシメられているらしいこと。極め付けは、サービス出勤を強要していた疑いがあること。流石にその件に話題が移ると、二人の管理職の顔が険しくなったのが容易に見てとれた。
「……思っていたより深刻だと思わんか?」
山寺課長が、京島係長に向かってぼそりと言った。
「深刻も何も、大問題だと思いますけどね」
田曽井だ。言葉を吐き捨てるように言って、そっぽを向いてみせる。口調の強さに、彼が秘めている憤りを感じる。パワハラだのなんだのと、最近はよく取り沙汰されているのを、僕もよく耳にする。表に出てくるのは氷山の一角にすぎず、大抵は当事者が泣き寝入りをしたり、問題になっても企業の中で揉み消されたりしているのだろう。僕は推察する。もしも相良と神田川の件が社外に公になったとしたら。カラー運輸は、業界最大の大企業だ。先日あった社員同士の殺人事件のように全国ニュースにも取り上げられ、大騒ぎになるかもしれない。刑事事件にまで発展しなくとも、加害者の神田川の個人情報が特定され、社会的に抹殺される……なんてことは容易にイメージ出来る。
僕としては、いい気味だと思うけれど、後始末の対応しなければならない管理職たちの心労を考えると、素直に喜ぶことはできない。
ドライバーズルームに、久住主任がぬっと現れた。通路から、本当に「ぬっ」と姿を見せたものだから、全く気配を感じなかった。柱の影に隠れるようにして、彼は僕に手招きをしている。僕は「なんだろう」と思いながら、テーブルの上に広げていたお金をかき集め、まとめたあと、久住主任に駆け寄った。
「神田川班の、相良くんのことは聞いているだろ?」
「はあ」
間の抜けた声が出る。それ以上は何も言わず、次の言葉を待つ。
「少し話を聞かせて欲しいんだ。係長と、課長がお呼びだ」
「僕を、ですか?」
そうだと、久住主任は頷いた。「相良くんは、城谷によく懐いていただろう」
僕は横目で田曽井を見た。僕の目配せに気付いた彼は、こちらに駆け寄ってくる。
「俺も。参加させてください」
営業所の階段を上がり、僕たちは事務所の奥にある小部屋に通された。カスタマー課の机が並ぶ脇を横切ったとき、何人かの女性社員たちにちらちらと視線を投げかけられたものだから、なんだか僕たちが悪いことをして、連行されたような気分になった。その中には里菜もいて、ちょうど目を丸くしながらこっちを見た彼女と目が合った。
「入ります!」
小部屋の入口で気をつけの姿勢をとり、僕は叫んだ。中には管理職がいるのだ。目上の人がいる部屋に入る時は、そのような掛け声をしなければならないという、シバイヌの古臭い風習に従ったのは、どうやら僕だけのようだった。
「今はいいよ」
久住主任が苦笑する。田曽井の肩が震えている。僕は心まで赤面しながら、部屋の中に入った。
部屋の中には、課長と係長がいた。革張りの焦茶色のソファーに身を沈めて、二人並んで座っている。山寺課長と、京島係長だ。僕だって流石に自分の直属の上司の名前くらいは覚えている。相手が僕のことを認識していなくとも。
「お疲れさん」
山寺課長は、僕の顔を見るなり、そう言った。僕の倍くらいはある顔の大きさだ。その分、体格も横にも縦にも大きい。白髪が混じり始めた頭髪を、ジェルで固めている。オールバック。管理職になると、威圧感を競い合うコンテストでも密かに行われているのだろうか。
「時間をとらせてすまないね。座りなさい。久住くんは下がって」
京島係長だ。山寺課長より年上なんじゃないだろうか。来年還暦を迎えるとかなんとか、誰かが言っていたような気がする。こちらは随分と小さく、失礼ながら初老のお爺さんを連想させる見た目だ。この場にいる誰よりも小さい。皺が刻まれた目尻が濡れている。今日の田曽井並みに、普段から顔が青白い人だ。
僕と田曽井が二人の管理職と向かい合って座り、久住主任が会釈をして部屋を去ると、山寺課長がふと真顔になった。
「あの、なんと言ったかな、新卒の」
「相良です」
山寺課長は、相良の名前を思い出せなかったようで、僕がすかさず補足すると、「ああ、そうだったね」と頷いた。
「相良君が無断欠勤を続けているそうで、社内に様々な憶測が飛び交っているようだね」
「憶測ではなく事実です」
田曽井は背筋をピンと伸ばして、言葉を切った。太腿の上に両の握り拳をのせて、彼はまっすぐに山寺課長の顔を見ている。
「城谷君、君は、相良くんと社内で最も親しかったと聞いているが、君から見て、彼の様子に変わったところはなかったか?」
山寺課長は、一旦、田曽井の発言を無視することに決めたようだ。視線を隣の僕に向けて、問いかけてきた。
「あっ、えっと……」
僕は突然話を振られると、途端に戸惑ってしまうことがよくある。頭の中に用意している言葉はあるのに、いざ話そうとすると、それがあらゆる雑念とともにごちゃごちゃになって、何も出てこなくなってしまうのだ。
「た、確かに、相良とは仲が良いと思います」
田曽井の鋭い視線を感じて、僕はしどろもどろにそう言った。先日の諍いの件を除いて……と、頭の中で補足する。
「えっと……その……」
口ごもり、田曽井の顔をちらりと見る。これ以上彼の眉が、鋭角に跳ね上がるのは見るに耐えないので、僕は意を決して、言葉を発した。
「神田川主任と、うまくいっていないようです」
山寺課長と京島係長は、互いに顔を見合わせた。要点を得ていない僕の説明がもどかしかったのか、二人ともにうっすら苦笑いを浮かべている。
「具体的にはどういうことなのかな?」
「……」
別に自分が責められているわけではないのに、どうしてこんなにも後ろめたい気持ちになるのだろう。管理職に神田川と相良の確執が伝わってしまえば、僕が告げ口をしたと悟られてしまうと危惧しているからだろうか。神田川と僕にはそれほど接点はないから、今後僕にその矛先が向けられる可能性は低いけれど、そんなことよりも自分の言動で誰かの人間関係が大きく動くであろう結果がみえているから、どうにも心地が悪い。
「ぐずぐずやってねえで、早く言えよ」
田曽井だ。僕がしどろもどろなせいで、ついに堪忍袋の緒が切れたのだ。元々そんなに悠長な性格ではないけれど。
僕は重い口を開いて、自分が知りうる限りのことを話した。冷凍庫のこと、ロッカーでのこと、よく呼び出されてシメられているらしいこと。極め付けは、サービス出勤を強要していた疑いがあること。流石にその件に話題が移ると、二人の管理職の顔が険しくなったのが容易に見てとれた。
「……思っていたより深刻だと思わんか?」
山寺課長が、京島係長に向かってぼそりと言った。
「深刻も何も、大問題だと思いますけどね」
田曽井だ。言葉を吐き捨てるように言って、そっぽを向いてみせる。口調の強さに、彼が秘めている憤りを感じる。パワハラだのなんだのと、最近はよく取り沙汰されているのを、僕もよく耳にする。表に出てくるのは氷山の一角にすぎず、大抵は当事者が泣き寝入りをしたり、問題になっても企業の中で揉み消されたりしているのだろう。僕は推察する。もしも相良と神田川の件が社外に公になったとしたら。カラー運輸は、業界最大の大企業だ。先日あった社員同士の殺人事件のように全国ニュースにも取り上げられ、大騒ぎになるかもしれない。刑事事件にまで発展しなくとも、加害者の神田川の個人情報が特定され、社会的に抹殺される……なんてことは容易にイメージ出来る。
僕としては、いい気味だと思うけれど、後始末の対応しなければならない管理職たちの心労を考えると、素直に喜ぶことはできない。