営業所に戻って、田曽井にぬるくなった缶コーヒーを渡す。木嶋さんは今日も、僕にそれを寄越してくれたのだ。あの缶コーヒーは、一体誰が用意しているのだろう。会社が用意しているのか、それとも木嶋さんが身銭をきって僕のために買っているのか。後者だとしたら、ちょっと申し訳ない気もするが、今更コーヒーは飲めないと伝えるのも気が引ける。
「おう、サンキュー」
 田曽井は特に嬉しそうな反応も見せず、機械的にコーヒーを受け取った。僕があまりにもしつこいものだから、内心うんざりしているのかもしれない。
「お前、今日暇か」
 田曽井が、僕の顔を見ずに尋ねてきた。一見、僕たちの関係を知らない者からしたら、田曽井はとても愛想の悪い男だと思うだろう。誰かと話すときは、その人の顔を見て話せとは、子供の時に習うことだけど、僕は気にしない。
「うん、どうしたの」
「飯食いに行こうぜ」
 珍しい、と僕は思った。普段の彼は、仕事が終わったらさっさと帰ってしまうことが多いからだ。僕はちょっと嬉しくなって、いいよと頷いた。
「お前の車に乗せてくれ」
 田曽井は普段、電車通勤だ。僕は快く引き受けた。
「相良は大丈夫なの?」
 今日は朝だけしか、彼の姿を見ていないなと思ったら、田曽井が「今日は休みだ」と答えた。田曽井は、何を言ってるんだと言いたげな表情で僕を見る。僕もきっと同じような表情になって田曽井を見返したのだろう。彼は途端に眉を吊り上げた。
「まさか出てきてるのか?」
「朝に姿を見た気がしたんだけど……」
 心許ない声で、僕は答えた。朝、相良を遠目に見ただけで、声を交わしたわけではない。別の人と見間違えたのかと一瞬思ったが、親交のある人物を見紛うはずがない。
「休みの日に出てきたってことか」
 田曽井が言った。カラー運輸は、よほどのことがない限り、休日出勤は認められていない。僕は平社員だから、そのよほどのことというのが具体的には何かわからないけれど、今まで休みを返上して勤務をしろと命令されたことはない。月に十回以上は休まなければならないという決まりがあることは知っている。退職や休職などで、一時的に同じ班員の人数が足りなくなった時は、やむを得ず公休数が減ることはあるけれど、それでも元々シフトで組まれた休みが減ることはない。
 新卒でまだ下っ端の相良が、独断で休日出勤を行うなど、到底考えられない。となると、それは、誰かに命じられて仕事をしていたということになる。それは誰なのか。僕と田曽井の頭に浮かんだ人物は、きっと同じであっただろう。
「またあいつか」
 田曽井は僕にだけ聞こえるような声色でそう言った。僕は苦笑する。脳裏に浮かんだ神田川の顔が、より一層鮮明さを増した。
「会社じゃなきゃ、ぶん殴ってやるんだがな」
 武闘派らしい発言だ。僕にはそんな大それたことを実行する勇気はない。それでも、それが許されるのならば、幾分すっきりはするだろう。
 営業所の館内を探しても、神田川の姿はなかった。まだ現場にいるのだろうかと考えたが、時刻は二十時半過ぎだ。奴がいつも乗っているトラックも、営業所に戻ってきている。神田川の自家用車も、従業員の駐車場には無い。となると、帰宅したのだろう。神田川に追及しようと目論んだ僕の気持ちは、しゅわしゅわと萎んでいった。
「仕方ねえな。帰るか」
 田曽井がそう言ったので、僕はこくんと頷いた。二人で並んで更衣室に向かう。今日もよく働いたなと思いながら、田曽井の後に続いて更衣室に入った。
「おいっ!」
 田曽井の驚いたような声が耳に飛び込んできて僕は「え?」と間抜けな声を出した。何事だろうと田曽井の背中越しにその先を見てさらに驚く。そこには相良の姿があったのだ。
「おいお前、今日は公休じゃなかったか?」
 つかつかと田曽井が相良のもとに歩み寄り、少し早口で尋ねた。相良は脱ぎかけていた制服のポロシャツを肩にかけたまま、言葉を探すように口を開け、視線を宙に彷徨わせている。
「あ、えっと……」
 ようやく相良が絞り出した言葉は、たったそれだけだった。その間に別の班の社員たちが更衣室に入ってきたが「おつかれさまでーす」とだけ言って、何かを察したのか、それ以上は何も言わずに着替えをはじめていた。
「誰の指示だ」
 田曽井は、痺れを切らしたのか、話を先に続けた。相良は肩にかけたままのシャツを脱いで、腕にぶら下げた。動作が緩慢で、僕にはその間に何を言おうか考えているようにしかみえなかった。
「……神田川さん……」
 やがて相良は消えいるような声でそう言った。聞き耳を立てていないと聞こえないような声量だった。
「あのクソゴミ野郎……」
 僕は田曽井の握りこぶしが、さらにギュッと締まるのを見ていた。決めつけは良くないけれど、やっぱりそうだったかと、合点がいく。
「で、でも、おれも嫌だったら、断れたんだし……」
「じゃあ、休みの日に出勤させられることは、別に嫌じゃなかったってことか?」
「いや……」
 口ごもった相良は腕を体の前で組んで、俯いた。田曽井は別に彼を怒っているわけじゃないのだろうけど、どうしても語気が強いから、責められているように感じてしまうに違いない。
「矛盾してるじゃねえか。嫌だったら、断るんだろ?」
 相良は余計に縮こまって、何も言えなくなった。僕はまあまあと、ヒートアップしている田曽井を宥め、「相良は何も悪くないんだから」と、口を挟んだ。
「……すみません」
 相良は俯いて、肩を落とした。謝ることしかできない空気だ。相良は悪くないのに、弁明の言葉すら、彼の頭にはよぎっていないのだろう。
 しばらくの沈黙が流れる。その間に、先ほど更衣室に入ってきた社員たちが、こちらの様子を気にしながらこそこそと出ていった。
「やっぱり、係長や、課長に相談したほうがいいんじゃ……」
 僕の脳裏に、主任職より上の管理職の顔が浮かぶ。シバイヌでは、係長は、複数の主任の上に立つ立場の人たちで、課長は複数の係長の上を担う人たちのことだ。ちなみに課長の上は、所長になる。もしかすると、いや、もしかしなくても、この件を公にすれば、所長の耳にも話は入るだろう。そうなれば、神田川の出世の道は、断たれることになるかもしれない。
僕はそんなことを呑気に考えていたせいか、相良の異変に気づくのが少し遅れてしまった。俯いている相良の耳が、真っ赤になっている。ぷるぷると体を震わせたかと思うと、次の瞬間、彼は大きく拳を振りかぶり、ロッカーの側面を殴りつけていた。静寂の中に、スチールがひしゃげる激しい音が響き渡り、僕の心臓は大きく跳ね上がった。相良の拳が沈んだロッカーは、見事にひしゃげて凹んでいた。
「……いちいちうざいんですよ」
「え?」
 低く唸るように言った相良は、顔をあげた。困ったことに、彼の鋭い目つきは、僕に向けられていた。
「あんたたちは、おれがあいつに舐められて、何もできねえ雑魚だって、見下してるんでしょう」
「どんだけ捻くれた考え方をしたら、そうなるんだよ」
 相良の豹変に戸惑って、言葉を探しあぐねていた僕の代わりに、田曽井が呆れたような口調で言った。「オマエが嫌なら、別に俺たちは放っておくけど」
「うるせえ! 偽善者ぶって、ヒーロー面してオナってんじゃねえよ!」
 再び相良は、ロッカーを殴りつけた。僕たちと彼のあいだに、大きな溝を作るにはもってこいの発言だった。田曽井は飛び出しそうな言葉を抑え込んだかのように、ぎゅっと唇を噛み締めて、相良から目を逸らした。
 相良の理性の箍を壊してしまったのは、神田川ではなく、僕たちだった。彼はきっと、僕の浅はかな思考では、到底推し量ることのできないほどの苦痛を味わい、ずっとそれに耐えてきたのだろう。自身の立ち位置に悩み、逃げ出したかっただろう。それでも周りに迷惑がかかるから、そして何より自分の生活があるから、これ以上、自分の立場を自分で悪くしないように、彼は一人で闘っていたのだ。